病は気から

2022年5月



 「病は気から---」
昔からよく聞く諺(ことわざ)です。
病気や不幸は、できれば誰もが避けたいものですが、残念ながら生きている以上不可抗力であったり、不可避なことも多々あります。
天災などもそのひとつです。予測可能であれば、対策を立てることはもちろん肝要です。
それでも起こることが避けられないなら、それに遭遇する私たちの受け取り方を変えるしかありません。
私たち(生体)にストレスを与える原因になるものをストレッサーと言います。ところが、同じストレッサーが働いても、それをストレスに感じる人と感じない人がいます(感じない人にとっては、そもそもそれをストレッサーとは言いません)。
ストレスがかかると、自律神経のうち交感神経が興奮し、同時に副腎皮質からコーチゾール(コルチゾール)というホルモンが分泌されます。これらは、ストレスに対応しようと心拍数や血圧を上昇させ、脳や筋肉への血流を増やす一方、消化器官の機能を低下させます。「食べている場合じゃない」ということなのでしょう。
この状態は、短時間では集中力や運動機能を高めますが、長時間続くと睡眠の質を低下させたり、体力を消耗させ、病気になりやすい体質をつくってしまいます。
では、ストレスを感じる人と感じにくい人、その違いはどこからくるのでしょうか。
一言で言えば、「どうしよう」と悲観的になるか、「なんとかなるさ」と楽観的な捉え方ができるかではないでしょうか。
「なんとかなるさ」という、物事を深刻に捉えない精神状態はどのように作られるのでしょうか。
生来の性格という要素もあるでしょうし、また、生まれ育った環境もあるでしょう。
では生涯、物事の捉え方は変わらないし、変えることはできないでしょうか。
私は実感として、多分に変わるし、変えられると感じています。
「若い時の苦労は買ってでもせよ」という諺があります。
そうは言っても、誰しも苦労や苦痛はできれば避けたいはずです。
しかし、残念ながら不幸や苦痛が降りかかったとき、その渦中にいる自身は、
「なぜ自分はこんな思いをしなくてはならないのか」と、不運、その境遇を理不尽に感じ、素直に受け入れられないことが多々あります。
ところが、その不幸や苦痛を乗り越えたとき、それまでより一段の高みにいる自身に気づきます。
「乗り超えた」とは、不幸や苦痛が自ずから消え去ったのかもしれないし、自身がじっと耐えたのかもしれないし、見て見ぬ振りしてやり過ごしたのかもしれません。あるいは本当に努力と知恵で解決したのかもしれません。
ここで言えるのは、どんな乗り越え方であったにしろ、それは必ず自身にとってプラスの経験になるということです。
困難が消え去った、困難に耐えることができた、やり過ごせた、解決できたと。
その結果、不幸や苦痛は過去のものとなったわけで、このことこそが一つ上の強い自分自身になった証拠なのです。
この経験は、次に同じような不幸が苦痛に遭遇しても、「なんとかなるさ」というかけがえのない自信につながります。
自信が身につくと、不要な不安から解放されます。
「不要な不安」、これこそが元凶ストレッサーで、人間はどれほどこれにより悩まされ、交感神経が異常に興奮してきたことでしょう。「不要な不安」とは、悩んでもそれによって結果がどうなるわけでもないのですが、人間の悲しい性で、悩んで眠れず悶々とした時間を過ごしてしまうのです。不幸や苦痛を乗り越えた人は、ここを割り切る術を身につけていることが多いはずです。これはまさに人生の宝です。
もう一つ、不幸、苦痛の経験者は、人に優しくなれるのです。
それは、同じような不幸や苦痛を経験した人の気持ちが理解できるからです。
そんな、人生の大変な思いをしたことのない人は、頭ではわかっても不幸、苦痛を体験した人との真の意味での共感、共鳴は難しいかもしれません。
一方で、「なんとかなるさ」というある意味楽観主義的な人生観は、年齢も関係するような気がします。
一つのストレッサーをXとし、年齢をYとします。X/Yがストレスの大きさとすると、年齢が上がると、その分いろんな経験をしますから、X/Yというストレスの絶対値は小さくなります。この辺りは、歳を重ねるたびに1年が早くなるという実感と似ているかもしれません。
歳を重ねる度に、人はその経験から多くのことを学びますが、科学技術などと違い、その蓄積は残念ながら次の世代に引き継がれず、次の世代はまた一から経験のし直しになります。
そこで役立つのが、先人たちの作った諺です。
「人事を尽くして天命を待つ」「果報は寝て待て」「人生すべて塞翁が馬」「怪我の功名」等々。
ビートルズの「レット・イット・ビー」も、ある意味人生を達観した名句です。
ケ・セラ・セラ(Que Será, Será)はスペイン語の語彙を用いて表現されていますが、元々スペイン語圏ではこのような言い回しはなかったようで、「ケ・セラ・セラ」は曲のタイトルとして考案された一種の造語的表現と解釈されています。英語に置き換えると「Whatever will be, will be.」となり、すんなり意味が通ります。日本における和製英語のような、いわゆる「なんちゃってスペイン語」であった可能性が非常に高いという次第です。

どんなに順風満帆な人生を歩んでいても、いや逆に順調に生きている人こそ、不幸や苦痛を経験していない分、いざトラブルに遭遇したときに、パニックに陥りやすいのです。

私の個人的経験から。
私は、絶好調をスタンダードにしないようにしています。
絶好調とは、5段階評価の5です。5の上はありませんから、その後は現状維持か、下がるだけです。仮に次に絶好調がやってきても、それほどありがたみは感じません。これって、面白くないですね。
多くの人は、普段大きなトラブルもないときは、トラブルがないという「ありがたさ」を意識しません。それが当たり前だと思ってしまうのです。つまり、ありがたさに鈍感になっているのです。
では、トラブルを感じないときを、5段階評価の4くらいに設定しておいたらどうでしょうか。
普段、何かしら小さなトラブルを抱えていても、それは5段階評価の4、つまり人生、そんなものだと。そう思えば、夜になれば自然に眠れます。それを「どうしよう」と悩んでしまうと、悶々として眠れなくなります。その間は無駄な人生を送っているのです。さらに、この状態で交感神経が興奮していますから、体調を崩す要因にもなります。
悩むことで結果が変わるのならどんどん悩みましょう。
人生、悩んでも悩まなくても、結果は最初から決まっていることが多いものです。
だったら、その結果を無駄にしないよう、せいぜい有意義な、あるいは楽しい時間を過ごしませんか。
 苦労したことは無駄にはならない---これは実感です。 


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