「そうだったのか!語源」⑧   ー病名ー

今回は病名について触れてみたい。

 

  • 卒中

「卒」と[中]が結びついた言葉。

まず「卒」だが、「衣」と「十」から出来た漢字で、はっぴのような上着を着

て、十人ごとに一隊になって引率される雑兵や小者を表すとされている。小さいものという意味もある。一方、「にわかに」という意味もあるが、これは「猝」に当てたもので、にわか、すみやか、突然という意味をもっている。

また、小さくまとめて引き締めるという意味から、最後に締めくくるという意味となり、「終わり」の意味を派生したと言われている。「卒業」はこの例である。

やや話が長くなったが、卒中の場合、実は「にわかに」「突然」の意味で用いられている。卒倒はその一例である。

では「中」とはいかに。

これは元々象形文字で、旗ざおを枠の真ん中につき通した状態を表現したもので、真ん中の意味とともに真ん中を突き通す意味も含む。「中る」と書いて、「あたる」と読む。

つまり、的の中心を突き通すという意味、つまり「あたる」という意味がある。

「命中」「的中」などはこの用法である。

したがって、卒中とは、「突然起こる(あたる)」という意味の病名である。

もともとは卒中風(そっちゅうぶう、そっちゅうふう)の略とされ、「中風」「中気」とは、風など外界からの刺激にまともにあてられた病気という意味である。

最近よく耳にする熱中症も、熱に中る(あたる)という意味かと考えられる。

蛇足だが、中毒も、小毒と大毒の中間だから中毒というわけではなく、毒に中る(あたる)という意味である。

 

 

  • 結核

結核菌が体内に入ったとしても、必ずしも感染するわけではない。

多くの場合、マクロファージ等の免疫により排除されるが、ときに菌が体内にしぶとく残ることがある。その場合、免疫機能により、結核菌を取り囲み、「核」を作る。結核の名は、ここから来ている。

ところで、結核は英語でtuberculosis、略語でTB(「テーベー」は独語読み)という。

tubercul-は、ラテン語のtuberculm=芋から派生していると考えられる。

解剖用語では結節である。結節も、芋のように「ころん」としている塊りのイメージがあったのだろう。つまり、ぎゅっと凝縮されたもののイメージがtuberculmと考えられる。ここまでくると、ターヘル・アナトミアの世界に近い。

ちなみに、ツベルクリン(tuberculin)は、結核診断用の注射液。

 

  • インフルエンザ(influenza)

ご存知の通り、インフルエンザウィルスによって引き起こされる急性感染症で、日本語では流行性感冒と訳される。感冒とはその名の通り、感染して冒されるという意味で、なかなかの名訳だと思う。

ところで、influenzaという病名は、16世紀のイタリアでつけられた。英語のinfluence=影響、感作、感応と同源である。感冒と感作に同じ「感」の字があるので、やはり感染の意味からできた言葉かと思っていたら、どうもそうではないらしい。

インフルエンザは、毎年冬になると決まって流行し、春を迎える頃になると終息する。

そこで当時の占星術師らは、インフルエンザは、天体の動きや気象上の寒気の影響によって発生、終息すると考え、影響を意味するinfluenzaを当てたとする説が最も説得力がある。

 

  • 梗塞

国語的には、塞がって通じなくなることをいう。

医学的には、動脈が塞がることによって、その流域下の組織に壊死が起こることをいう。

「梗」には、芯になる硬い棒や芯のあるとげの意味があります。この「硬い」や「棒」というのが何を指すのか、勉強不足で分かりかねる。あくまで想像だが、「血栓」「塞栓」というと血液の塊という具体的なイメージが読み取れるが、「梗塞」には「栓」という具体的ものがない。したがって「梗」は棒状のもの、つまり血管を指すのかもしれない。あるいはやはり、芯のような「塞いだ物」を表している可能性も否定できない。

 

  • 麻痺

神経機構、あるいは筋機構の障害によって、部分的な運動機能が喪失、あるいは低下する状態を指す。

「麻」は、大麻、亜麻、黄麻等の総称。大麻は麻薬成分を含み、ここから「しびれる」という意味を持つようになり、「麻薬」「麻酔」「麻痺」といった言葉が生まれた。

「痺」は訓読みで「痺れる=しびれる」と読む。

したがって、「麻痺」は同義語の熟語である。

 

  • 不全

字のごとく、全うしないこと、きちんと機能しないこと。不全の前には器官等の部位あるいは機能が表示され、それが悪化した結果が「○○不全」となる。

 

・ 突発性 (とっぱつせい)とは、突然発症すること。

ex,突発性難聴 突発性発疹

特発性(とくはつせい)は、特定の原因が見つからないのに発症すること。  「原因不明な」を意味するidiopathicの日本語訳である。

ex,特発性心筋症 特発性癲癇

台風12号

昨日28日、夕方から夜半に台風12号が関東に接近とのことで心配していましたが、幸い前橋には大きな影響はありませんでした。

一方で、甚大な被害に見舞われた西日本豪雨の被災地では、さらなる苦難を強いられることとなりました。焼け石に水かもしれませんが、先日、山陰地方のある町に心ばかりのお見舞金を送付しました。被災地の方々の折れない心と、一日も早い復興を願っています。

さて、この酷暑の季節になると、毎年お隣のアガパンサス(ムラサキクンシラン)が目に涼を届けてくれます。

昨今では、真夏日は3ヶ月にわたり続きます。ある環境学の権威の方が、今後の日本の四季は、春夏秋冬でなはく、夏夏夏冬になるとおっしゃっていましたが、残念ながら現実のものと実感しています。

国同士が、核で核に対抗している場合ではありません。

人間の英知を結集して、後に続く世代にかけがえのない環境を受け渡す方策を講じなければなりません。

「そうだったのか!語源」⑦  −旁と偏−

今回は漢字の成り立ちについて考えてみたい。

ちなみにこの作業を解字という。

漢字は多くの場合、旁(つくり)と偏(へん)あるいは冠から成り立っている。

そして、同じ旁をもつ漢字には共通して表現するものがある。

身近なものをいくつか取り上げてみたい。

 

まずはじめに、「主」という旁を見てみよう。

この旁は、元々燭台の上にじっと立って燃える灯明を表した象形文字であり、一つ所にじっとしている様を表している。

例えば「柱」では、木偏はもちろん木に関係することを意味する。つまり、じっと立つ木、あるいは立って支える木を表している。

では、同じ旁をもつ「住」という漢字はどうだろうか。

これは、人偏なので人に関わり、人がじっと同じところにとどまることを表している。従って、本来「住」は人に限定して使われ、鳥獣には「棲」を当てていた。

同様に、「駐」という字は馬が同じところにじっとしている様子、つまり馬をつないでいる様子を表現している。「駐車」は、かつての馬がクルマに代わった状態であり、「駐在」は一定の場所にとどまっている様を言う。

「注」は、水が柱のような形で同じ部分にそそがれる状態を表している。「注目」や「注意」などの熟語で使われるように、英語で言うならば、concentrated に近いニュアンスと考えられる。

ちなみに「往」であるが、この旁はこれまでの例とは起源が違い、元来「王」から転じたものであり、大きく広がる様を表し、「往」は大きく広がるように前進することを意味する。

次に、「悦」などの旁の「兌」について見てみよう。

これは、「八」と「兄」から成り、(大きい)子供の衣服を左右に分けて脱がせる様を表しており、広い意味では剥ぎ取ることを指す。

この旁に身体を表す肉月がつくと「脱」で、身体からものを剥ぎ取る、つまりぬぐという意味になる。

次に、禾(のぎ)偏がつくと税金の「税」。

禾偏は収穫を意味するので、「収穫したものを剥ぎ取る」とは、まさしく「税」そのものを表している。奇しくも「脱税」にはともに「兌」がついているが、剥ぎ取られるものからさらに逃れるわけであるから、いわば裏の裏をかく行為である。

では、最初に引用した「悦」はどう説明したらよいだろうか。

この立心偏は心や気持ちなど、精神的なものを表す偏である。

剥ぎ取るのは、心に覆いかぶさった不快なものである。すると心が晴れ晴れとして気分がよくなる、そういった状態を意味している。「悦」という字、なかなか意味深長な成り立ちではないだろうか。

これと少し似たような成り立ちの字として、「夬」が挙げられる。

この旁が使われている文字としては、「決」「快」「玦」「缺」「訣」「抉」等が挙げられる。が、当用漢字として使われていない字が意外に多い。

この「夬」は、右から左に向かって手が何かをつかもうとしている象形文字が起源となっている。この旁の本来の意味が最もよく表現されている字が「抉」であろう。この字を「抉る=えぐる」と読める方は、漢字検定2級レベルではないだろうか。

さて、「決」は水が関係していて、水が堤を切る様を表している。「決壊」という熟語からそのニュアンスが理解できよう。

そこから派生して、「決断」「決定」などのように物事をきっぱりと分けるという意味が使われるようになった。ちなみに、「玦」は一部を欠いた環状の玉を指す。

「決勝」は勝ち負けをはっきりさせること、「自決」は、主義主張を貫くため、あるいは責任を取るため自ら方針を決めたり、自らの命を断つことを意味する。

では「快」はどうだろうか。

なんと、心中のしこりというネガティヴなものをえぐり取ることを意味している。これがなくなれば心が晴れ晴れとして、さぞかし気持ちがよいだろう。

「悦」の成り立ちとダブるところが興味深い。

人生、悩みがつきものというところから派生したように思える「悦」や「快」だが、発想が妙であり面白い。

人生が「悦」や「快」ばかりでは、そもそも小説などという面倒臭い文学は存在する意味さえない。

次に、「肖」という字を取り上げてみたい。

この字は「小」と「肉」から成り、元々の肉を削って、原型に似た小型のものを作ることを表している。「肖像」などはこの元来の意味に近い使われ方である。また「不肖」とは、元になるものに似ていないこと、師匠や親に似ていず、劣っていることを言う(ちなみに、「似る」は「肖る」とも書く)。

「消」は火の勢いを水で小さくすること、「削」もけずって小さくすることを意味する。「梢」は木の先の小さくなった部分を指し(木の末なのでこずえ)、「哨」は口を細くすぼめて合図の口笛を吹く様を表し(動物でもサルなどは警戒時にこういった仕草をする)、転じて見張りを意味するようになった。哨戒機の「哨」はこの意味で使われており、英語ではpilotという言葉が当てられている。

やや本筋から外れるが、「消息」という言葉は、「消」が消える=死を、「息」が生きていることを指し、「生死」から様子、便りという意味を派生した。

さらに「寺」という旁に触れてみたい。

この字は、手を意味する「寸」と足を意味する「之」から成り、手足を動かして仕事をすることを表現している。また「之」には止まるという意味もある。

「時」は時間が動くことを意味し、「持」は手にじっと止めることを意味している。「詩」心の進むままを表したもの、あるいは心に止めたものを表したものである。

「寺」は、中国の漢の時代に、西域から来た僧を泊めて接待する施設を指し、のちに仏寺の意味で使われるようになった。

「待」は手足を動かして相手をもてなすことを表している。

「侍」は「寺」から派生し、身分の高い人の世話をする人たちを寺人と言ったが、役所や仏寺の意味に転用されるようになった。今では武士に近い意味で使われているが、時間の経過とともに随分違った使われ方になった。

「台」という旁は、上が曲がった鋤(すき)の棒を描いたもので、道具を使って仕事をすることを表し、下の口は人間が言葉を発して行動をし始めることを表している。

「始」は女性としての行為の起こり、つまり初めて胎児を腹にはらむことを表しており、のちに広く物事の始まりを意味するようになった。

いま使った「胎」も、人間が行為をし始める、動き始めた腹の中の赤子を意味している。「始」も「胎」も元の意味は近いようである。

「飴」の旁は、始まりという意味より人間が手を加える意味を表し、穀物を加工して作ったものという成り立ちである。

最後に「義」という字は、「我」と「羊」から成る。「我」はかど目が立ったほこを描いた象形文字、「羊」は形のよいヒツジの意味で、きちんとして格好がよいものを表現している。そこから「正しい道」という意味も生まれた。正義や定義などはその意味での使い方である。その他、「外から来て固有でないもの」「本物に近い」という意味もある。義歯や義足、義父などはこの例である。

ただし、この「正しい」と「近い」という意味がどこで結びつくのかはまだ勉強不足でわかりかねる。

紹介した旁はほんの一部だが、旁に内在する本来の意味を知ると、そこから派生した字の生い立ちや変化の過程を想像でき、とても興味深い。

(群馬県保険医協会歯科版掲載のための原稿)

シジュウカラ

ついに、憧れのシジュウカラを写真に収めることができました。

5月4日に蓼科に行った際、たまたまホテルの窓から外の植え込みを眺めていたところ、こちらの気配を感じなかったのか、数メートルの位置まで来てくれました。

自宅でも時々この鳥を見かけますが、警戒感が強いせいか、とても近づけませんでした。ちなみにこの鳥の名前ですが、「カラ」はスズメの仲間の総称、「シジュウ」は鳴き声を擬音化したのだそうです。

さて、自宅に帰ってから、シジュウカラはいないかと上を見上げると、なかなかの緑陰が見られました。

これはヤマボウシの木ですが、トトロの世界よろしく、我が家は軒先の木々のせいで、家の中は前橋にしては夏でも涼しく感じられます。

そのうち、木々に押しつぶされてしまうのでしょうか。

アイスバーグ(シュネーヴィッチェン)

連休後半も、ほぼ天気に恵まれました。

やや暑すぎた感もありますが、贅沢は言えませんね。

さて写真は、シュネーヴィッチェン通称アイスバーグというバラです。

白いものは駐車場のフェンスに咲き乱れるつる性のアイスバーグです。清楚で好きなバラの一つです(フェンスの赤いバラはドンファン)。ドイツで作られたバラですが、シュネーヴィッチェン(Schneewittchen)とはドイツ語で「白雪姫」のことです。イメージぴったりですね。ちなみにアイスバーグ(iceberg)とは英語で氷山の意味です。どちらも白いものですが、かなり表現するもののイメージが違います。

さて、隣のピンクのバラは、ブリリアントピンクアイスバーグといって、白いものの枝変わり(変種)です。最近手に入れたものですが、大きくなったときどんなふうに咲くか楽しみです。

「そうだったのか、語源」⑥ -間違った言葉の使われ方-

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しばらく医学関係の言葉について触れてきたので、この辺で対象を少し変えてみたい。

今回は、本来の使われ方から変化して使われている言葉、あるいは間違って使われている言葉について考えてみたい。

ただ、現時点では間違った使われ方であっても、時代の経過でそれが正しい(間違っているとは言えない)使い方になってしまうものも多いので、必ずしも誤用とはいえない例も多い。

 

たとえば「とても」という副詞。

現在は「とても美しい」と、very=肯定的な文章に使われても違和感がないが、本来は「全然」と同義で「とても—ない」と否定的に使われていた。

そういえば、最近若い方々の間では「全然」も肯定的に使われている。

「全然大丈夫」といった具合に。

 

さて、代表的なものを幾つか挙げてみたい。

 

・確信犯

最近では、本人が悪いこととわかっていて行う行為、あるいはその人をさすことが多い。

本来は、道徳的、宗教的、あるいは政治的信念に基づいて、本人(たち)が正しいと確信してなされる社会的犯罪あるいはその人(たち)を指していた。

つまり、本人(たち)は正しいと信じて行っていることが、社会的には犯罪であるという、そういう行為やそれを行った人(たち)に対してつけられた表現である。

全く意味が異なるので、使うときにどちらの使い方か断る必要があるのは、ある意味面倒である。

 

・言語道断

本来は仏教用語で、「言葉で表現する方法が絶たれる」という意味で、それほどまでに奥深い真理を指していた。

それが転じて、言葉を失うほどひどいこと、とんでもないことを指すようになった。それにしても随分とあらぬ方向に転じたものである。

 

・破天荒

豪快、型破り、あるいは大胆といった意味で使われることが多い。おそらく字からくるイメージでそう使われているのかもしれない。

本来は、中国の古事成語から。

「天荒」とは未開の地のことで、それを破るということで、今まで人が成し得なかったことを成就することを表す言葉である。「日本人初」や「人類初」といったところか。

ちょっと勇み足で「前代未聞」「空前絶後」という広義の使われ方から、先の間違った意味で使われるようになったのかもしれない。

 

・ 相合傘

こちらは逆に、字からわかる通り、一本の傘の下に二人以上の人が入っている状態をさす。「愛」の字が連想されるのか、男女二人というイメージが浮かぶが、必ずしも異性同士とは限らない。男同士でも全く問題ない。

相傘ともいう。

 

・鳴かず飛ばず

「『三年』鳴かず飛ばず」が出処の中国の故事で、実力のある者が活躍の機会に備えてじっと待っているさまを指す。したがって、もともと才能や力のない者が活躍できないでいるような使い方は、本来の意味とやや違っている。

 

・潮時

「物事をやめる頃合い、タイミング」といったネガティブな意味合いで使われていることが多い。

「潮の満ちる時、あるいは引く時」がもともとの意味で、つまり「ちょうど良い頃合い、タイミング」を指し、よりポジティブな意味合いの方が強い。もっとも、やめることをポジティブにとらえて引用するなら必ずしも間違いとは言えないが。

 

・姑息

「姑息な手段」等、現在では「卑怯」と同義で使われることが多いが、これは誤りである。本来は、根本的な解決法ではなく、一時しのぎ、間に合わせにすることをさす。

医療では「姑息療法」という言葉が使われるが、これは「対症療法」と同義であり、「姑息」の本来の使い方に近い。

この意味では、歯科では「temporary=一時的な」という言葉を使うが、一般的にはmakeshiftあるいはtemporizingという英語が相当するらしい。

 

・恣意的

本来は、論理性がなく、思いつきで行動する様子や、自分勝手に行動する様子を指す。もっとわかりやすく言えば、計画性がない、思慮が足りないといった様を表しているのであろう。

ところが最近の使われ方をみていると、例えば国会の質疑答弁などでも反対語に近い「意図的」あるいは「作為的」の意味で使われていることがある。どこか言葉に裏がある、狡猾なイメージが漂う。

近い将来、この間違った使われ方が常用になるのかもしれない。

 

・遺憾

本来は、期待したようにならず、心残りであること、あるいは単に残念であることの意味である。

近年では、政治家やそれなりの立場にある人の口から、事後の記者会見等で「遺憾に思う」という表現をよく耳にする。

この場合、自らあるいはその周囲の行い等に対し、残念なことという表現をしているのである。つまり、法的には問題ないものの想定外であるといった、やや責任逃れのニュアンスが含まれているのである。

ここには謝罪の意味が含まれていないというのが一番のミソである。

要は、「遺憾」を口にしたのちの行動こそが肝要である。

人はミスをして成長する生き物である。ミスを生かせるか否か。

反省して、その後の行動に生かせればよし、変わらなければ「いかん」ともし難い。

 

・役不足

本来は、その人の力量より低い仕事や役割を与えられることを指す言葉である。

誤って、逆の意味で使ってしまっていることがある。

であれば、「力不足」あるいは「役者不足」であろう。自らを謙遜したつもりで誤用しないようにしたいものである。

 

以上、私がこのようなコメントをすること自体、役者不足の感が否めない。

(群馬県保険医協会歯科版掲載のための原稿)

沈丁花とメジロ

今日は、前橋では最高気温25℃を超えたとか。

3月なのにとんでもない暖かさ、いや暑さでした。

2年毎の診療報酬改定、いわゆる点数改定に向け準備しながら、庭の草むしりを。

いえ、2時間ほどデスクワークをするとストレスがたまり、その気分転換に草むしりをした、というほうが正確かもしれません。

少し体を動かすと汗ばむような陽気でした。

草むしりは面倒な作業ですが、実は見方を変えれば最も季節感を感じる作業でもあります。なんといっても植物と最短距離で向かい合えます、いえ、合わざるを得ません。

今日などは沈丁花のそれこそ「春」を象徴するような香りに包まれていました。

メジロもおそらく番(つがい)でしょうか、二羽ずつ同じ木の枝に来てはか細い高い声で鳴いていました。

警戒心が強い鳥なので、前回同様、ここまでが精一杯でした。見えますか?

 

クリスマスローズ、今年も

あの東日本大震災から7年が経ちました。傷ついた被災地の風景は徐々に変わっても、人々の辛い思い出は決して癒えることはないでしょう。

さて我が家では、例年通りクリスマスローズが満開となりました。

クリスマスとは名ばかりで、実際に満開となるのは2月から3月にかけてです。

クリスマスローズの自生域はヨーロッパから中国までとかなり広く、特にアドリア海に面した地域でその種類や数も豊富とのことです。

クリスマスロ−ズ(以下、クリロー)は、色や模様のバリエーションが豊富で、花びらの形(シングル、セミダブル、ダブル)、色、模様の順に表記します。

したがって、写真上はシングル ピンク ベイン(ベイン=veinとは葉脈、血管のこと)、下はダブル ホワイト ピコティ(ピコティは覆輪、縁取りのこと)と呼びます。

この花、なかなかシャイで、カタクリの花のように下にうつむいて咲きます。

ですから、下の写真は根元の方から煽って撮影しています。

寒かった冬もようやく終わり、桜の開花も現実味を帯びてきました。

春はそこまで

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今年の冬は、記録的な寒さが続いています。福井では、大雪により20kmにわたり車列が立ち往生し、数日間陸運が麻痺状態となりました。

前橋でも2回ほど積雪し、駐車場の雪かきで腰を痛めました。幸いにも、近所の重機を持っている会社の方がショベルカーで大方除雪してくれました。寒さの中の心の温かさに感謝感謝です。

当院の水道管も一部凍結し、ガスによる温水が出ない日もありました。こんなこと、開業以来一度もありませんでした。

まだ寒さは続くでしょうが、一方で気温の推移を見ていると、最低気温がマイナスの日が徐々に減り、最高気温10℃以上の日が増えてきました。

この数字を見ただけでも暖房効果がありそうです。

そして、春は着実に近づいています。

庭の蠟梅(ロウバイ)の黄色い花はいい香りを放ち、馬酔木(アセビ)の花も膨らみ始めました。

足元に目をやると、いつしか落ち葉の間からフキノトウが葉を広げていました。

テレビでは、早くも桜の開花予想がアナウンスされました。

 

「そうだったのか!語源」⑤

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今回も引き続き、医学関連の言葉に触れてみたい。

日本人が英語、ドイツ語等で表記された言葉を覚えるのは、非常に面倒だし、覚えにくい。

例えば果糖という単糖。

ショ糖は、スクラーゼ(インベルターゼ)により分解され、ブドウ糖と果糖になる。果糖は、フルクトース、あるいはフラクトースの日本語訳である。

英語圏の人ならfructoseだけ覚えればよく、しかもfru-からfruitが連想され、-oseで、糖であることが想像できる。ちなみに、maltose(麦芽糖) のmaltは麦芽で、日本ではモルツというビールで有名になった。また、lactose(乳糖)のlac-に対し、日本語で同音の「酪」をあて「乳」の意味をもたせている。したがって酪農の意味が理解できよう。

ラクトバチルス(ラクトバシラス)やラクトフェリンも「乳」に関係がある。

ご存知のことと思うが、sucraseのsuc-は英語のsugar 、ドイツ語のzukkerと同義語である。

一方、日本人はこの果糖の呼び名をフラクトース、フルクトースと、3つとも覚えなくてはならない。国家試験にはどの呼び方も出題される可能性がある。

同様のことは、甲状腺ホルモンであるチロキシンでも言える。

thyroxine は以前はドイツ語読みでチロキシンと言っていたが、最近では英語読みでサイロキシンと呼ぶことも多くなった。thy-を「チ」と呼ぶか「サイ」と呼ぶかの差だけなのだが、アルファベットを見なければ、日本人にはそれらの関係性が見出しにくい。

しかも、thyroid gland=甲状腺から分泌されるからこの名前が付けられているが、日本人には両者は名前だけでは結び付きにくい。ちなみにthyroidとは、ギリシャ語で「扉のようなもの」を表している。さらにparathyroid glandは直訳では傍甲状腺となろうが、それに近い和訳は副甲状腺、しかし上皮小体という和名もあるのでややこしい。

さて次に、副腎髄質ホルモンの一つであるアドレナリン。

腎臓はラテン語ではrenibus、イタリア語でreneで、副腎は腎臓にくっついている臓器でad-+reneで、英語ではadrenal glandという。そこから分泌されるから、アドレナリンと考えると自然である。副腎皮質ホルモンであるコーチゾールやコルチコイドは、当然cortic=皮質から派生した名前と理解できる。

また話は変わるが、フィブリノーゲンは血漿タンパク質のひとつで、血液凝固に関係する。

血液凝固の過程は実に複雑で、何段階にも分かれていて、すべての反応が順序よく完結しないと血液凝固は起こらない。つまりは、そう簡単に血液が凝固しては困るからであろう。

いずれにしろ、最終段階でフィブリノーゲンがフィブリンになると血液凝固が完了するわけである。フィブリンは線維素、フィブリノーゲンは線維素原と和訳される。fibrin fibrinogenと書くが、fibとはfiber=線維の意味である。

「ファイブミニ」という飲料があるが、もちろん5ではなく食物繊維を表すfib-から作られた商品名だろう。

余談になるが、ドイツ語読みの-genに、奇しくも発音の似ている日本語の「原」が当てられているのもおもしろい。

fibrinogenの他にも、antigen(抗原)やallergen(アレルゲン)、pepsinogen(ペプシノーゲン)等がある。もちろん英語読みでは「ジェン」であるが。

ちなみにAEDは、Automated External Defibrillatorの略名で、自動体外式除細動器と和訳される。

ここでdefibrillatorだが、fibrilは細かい繊維を表す。fibrillationを細動と訳すが、細かい繊維のような繊細な動きを表現したと考えられる。それにde-という対義を表す接頭語をつけて、除細動という意味になる。

事ほどさように、こういった名称の成り立ちは、アルファベット圏ではある程度推測が可能なのだろう。日本人としては羨ましい限りである。

(cf.一般的にはfiberには「繊維」の字が使われるが、「線維」とは医学用語で、体内の組織の場合に用いられる)

(群馬県保険医協会歯科版掲載のための原稿)