そうだったのか語源㉗ -美しい日本語 その1-

 日本人の耳にだけそう響くのだろうか、音(おん)として響きの美しい言葉を聞くとき、日本の文化を誇りに思い、その言葉の成り立ちに想いを馳せる。   

まずは、時の移ろいに関するものから触れてみたい。

テレビ番組のタイトルなどで、古都のことをわざわざ「いにしえの都」という。

 響きの綺麗な日本語だと思うが、「いにしえ」の語源は、「往 (い) にし方 (へ) 」から来ており、直訳すれば「行(往)ってしまった古い時代」ということになろうか。ちなみにこの言葉は「去(い)にしへ」とも書き、故人のことも指す。

 「とこしえ」は漢字では「永久」が当てられる。「常し方(へ)」あるいは「長し方(へ)」が語源と思われる。

 ちなみに「とわ」は「永久」「永遠」を当てるが、これは「常(とこ)」(接頭)=いつも変わらない、永遠である」の意を表す語から来ている。「とこしえ」の「え」は「いにしえ」同様、「え(あるいは(へ))(接尾語)」=「方」でその方向、向きの意を表す。「ゆくえ」「しりえ」「いにしえ」と同じ使い方である。つまり、「とこしえ」と「いにしえ」は過去と将来という意味で対(つい)である。

 「あけぼの」は、「明け」と「ぼの(ほの)」からできた言葉で、「仄々(ほのぼの)と明けていく」あるいは、「仄(ほの)かな明け」の意で、夜のしじまから東の空がほのかに明るくなっていく様を表している。日本の感性を感じる。

 一方で、これに似た言葉で「あかつき(暁)」という表現もある。これは、「あかとき(明時)」が変化した言葉で、夜が明ける時を指し、ほぼ同じ意味で使われる。

 日の出の「あけぼの」に対して、日の入りに近い表現で「たそがれ(黄昏)」がある。これは、夕焼けの赤みの残るモメントを指す言葉である。

 実は、古くは「たそかれ」と言われ、「誰 (た) そ彼 (かれ) は」、つまり「あの人は誰だろう?」と、日暮れて人の顔の見分けがつきにくい時間帯を指す。

転じて、人生の盛りを過ぎた頃を指すこともある。これもなかなか美しい日本語である。

 これに近い言葉で、「ひともし頃」という表現がある。「火点し(ひともし)」とは灯火をともすことを指し、つまり暗くなって人工的な照明がないと生活に支障をきたすような時間帯を指す。

 「訪れる」とはあまりに日常語で、特に語源など考えもしないかもしれない。

 えてして日常用語とはそんなものであろう。

 では、「訪れ」は「おとずれ」と読むが、これはどこから来たのだろうか。

 音は、音波というように空気の振動である。風が吹けば音が生じるが、こういった自然現象を古来の人たちは神の来訪と感じたようである。これを、音を連れて神が来訪するので、音連れ(おとづれ)と言った。これが「訪れ」の語源である。 

 人が来訪する時も衣服が擦れる、衣擦れや足音など「音連れ」なのである。

 さて、「うたかた」とは、はかなく消えやすいものといった意味である。

 漢字では「泡沫」が当てられている。これには多くの語源や由来がある。

 「ウクタマカタ(浮玉形)」の転、「ウキテエガタキモノ(浮きて得がたきもの)」の略、「ワガタ(輪型)」の「ワ」の延音「ウタ」、「ウツカタ(空形)」の転など、多くの説がある。

 水面に浮かぶ泡を指すが、「水の泡」という使われ方から、消えやすくはかないもののたとえとして用いられている。

 実は、漢字の「泡沫(ほうまつ)」は当て字である。

 ちなみに、このように漢字2文字以上をまとめて訓読みすることを、熟字訓(じゅくじくん)と呼ぶ。

 一般に「当て字」と呼ばれているものの中には、多くの熟字訓が含まれている。1946年に当用漢字が制定されたとき、「当て字はかな書きにする」という方針が打ち出され、その結果、熟字訓の語源の漢字はあまり用いられなくなった。一方で、もとの漢字には言葉本来の意味が表現されており、言葉の意味を理解するという面ではメリットも多いだが。

 閑話休題。

 「夢うつつ」、「うつつを抜かす」という言葉がある。

 これらの引用例から、「うつつ」とは夢を見ている状態、あるいは現代の言い方では、バーチャルな状態を表していると誤解を招くかもしれない。

 意外にも、「うつつ」には漢字の「現」が当てられている。

 つまり、(死んだ状態に対して)現実に生きている状態、現存を意味する。

 その他、気が確かな状態、意識の正常な状態、つまり正気を指す。

 「うつつ」の語源は,諸説あるらしいが、ウツシ(顕)の語幹のウツから派生したとの説もある。

 音が似ているところで、「うつせみ」という言葉がある。

 この世に生きている人、あるいは現世、この世といった意味で用いられる。

 現在では、雄略天皇(5世紀後半)条にある「ウツシオミ」という言葉が語源であるというのがほぼ通説となっている。この「ウツシオミ」とは、雄略天皇が人の姿で現れた葛城(かつらぎ)の一言主の大神に対し、「ウツシオミであるので神であると気付かなかった」と言ったもの。このウツシを「現」とすることは諸説一致しているが、オミの意味については「臣」の字を当てる説があるものの定説とはなっていない。

「空蝉」「虚蝉」は後世にできた当て字だが、地上に現れてからの寿命の短い蝉や蝉の抜け殻の意にも用いられ、虚しいものというニュアンスを持つようになった。時代の終末思想、末世思想が「うつせみ」に「空蝉」とあてさせたのだろうか、時代背景を感じさせる。

 その他、現身(うつしみ)とする説もある。

 さて、「そこはかと」は、「そこはかとなく」という否定語が続く形で多く使われる。

 元々は「其処 (そこ) は彼 (か) と」と書き、「どこそことはっきりとは」、あるいは「確かには」という意味である。

 次に「風=ふう」について。

 「ローマ」に対して「ロマンティック」という形容詞があり、「ローマ風の」あるいは「ロマン主義」「ロマン派」「ローマ様式の」「ローマに通じる」と和訳されているが、まさしくこれと同じ表現である。

 日常語として意識なく頻繁に使っている。現代語の「–っぽい」がこれに当たるのではないだろうか。

「風」は、「洋風」「現代風」というように、名詞や形容詞のあとに付けて方法や様子、様式、性格等を表現する。もともとは、気まぐれな風が吹くように、あまり堅いことに拘泥せず、言いたいことをストレートに言わず、オブラートに包むように、やや曖昧さをもたせて表現する場合に用いる。私説ではあるが、風が吹くように、どこかから影響を受けてそれになびくという意味合いもあるのではないかと思われる。いずれにしても実に和風な言語である。と言いながら、図らずも「風」を使ってしまうが、それだけ「風」が使いやすい便利な言葉なのであろう。

 「こうしてください」ではなく、「こういうふう(風)にしてください」と言うと、表現が柔らかくなる。「このように」「こんな感じ」「これみたいな」という表現に類似している。

 先に出た「洋風」も西洋そのものではなく、西洋の雰囲気、あるいは様式をもった、という意味で使われる。

「風情」「風格」「気っ風(きっぷ)」といった言葉にも、断定せず醸し出す雰囲気といった意味合いが感じ取れる。 

 事ほどさように、日本語には、「風」「光」「音」といったものが雰囲気の表現として使われる場合が多い。

 「風景」と同様に「光景」という言葉も用いられる。「風光明媚」や「観光」にも「光」は使われる。「光り輝く」景色だからか、あるいは「光があるからこそ見える」景色だからか、正確な根拠はわかりかねるが、そう外れてはいまい。

 一方「威光」や「後光」では、「光」はありがたさや威厳を表していると考えられる。

 さて日本語では、ある感覚器の表現を別の感覚として使うことがよくある。

 「暖色」という言葉は、視覚を温度感覚で表現、「明るい音」は聴覚を視覚で、「軽やかな響き」は聴覚を重量感覚で表現している。

 私の大好きなワインでは、その味わいの表現として、「重い」「軽い」という重量感覚で表現している。舌で重量が測定できるわけがないが、呑んべいの味覚としては非常にわかりやすい。  

 「苦い経験」「甘い生活」では、人生を味覚で表現している。これは日本語に限った表現ではないが、そのあたりの詳細はここでは割愛させていただく。  

 次に、先にも出たが「しじま」には「無言」「黙」「静寂」の字が当てられる。

 「しず」あるいは「しじ」(=静寂)と「ま(=時間)」からの成語という説がある。「静」と「間」がそれに当たろう。

 一方、しじま(黙)の語源には、口をシジメル(縮める)シジマル(縮まる)の意があるという説もある。そこから「静寂」の意が派生したとも言われている。ちなみに、しじま(黙)と貝の蜆(しじみ)は「縮む」が共通の語源とされている。

 「たおやか」とは、姿・形・動作がしなやかで優しいさまをさす。「たお」は「たわむ」から派生した言葉である。この語源は「硬いものが曲がった形になる」「弧を描く」という意味の「撓む(たわむ)」からきており、その意味から基本的に女性の所作や木の枝などに対して用いられる。

 「木漏れ日」も日本的な美しい表現で、その名の通り、木陰から漏れる陽の光を指す。個人的には、学生時代に過ごした仙台の青葉通りや定禅寺通りのけやき並木を歩いた時の光の移ろいを思い出す。青春の不安に満ちた精神状態と重なって思い出される。時々、無性に仙台に戻ってみたいという衝動にかられる。やや感傷が入ってしまったこと、ご容赦願いたい。

 演歌の歌詞によくある「移り香」。英語では、「a lingering (faint) fragrance [scent]」とある。物に移り残った香、残香、遺薫などと和訳される。香、香織、薫、馨等、名前にも多く使われている。源氏物語の「匂宮」「薫大将」も嗅覚に由来する。匂いで季節を感じるように、古来より、いかに日本人の嗅覚がその文化に根付いているかが想像できる。

 さて、「はしたない」とは、礼儀に外れていて品がない、あるいは上品ではないといった意味で使われる。「はした(半端)」と「なし」から構成された語で、「はした」は「はんぱ」とも読み、一定の数量やまとまりとなるには足りない数や部分を指す。「なし」は否定語の「無し」ではなく、前の言葉を強調する時に用いられる。「あどけない」「せわしない」などの「ない」も同様の使い方である。つまり「はしたなし」は、「中途半端な」を強調したのが原義である。

 「世知辛い」とは、世渡りが難しい、生きずらいといった意味で用いられる。

 この言葉は実は仏教語が語源となっている。

 「世知」とは、俗世間を生きるための智慧、つまり世渡り術を指す。「辛い」は「つらい」とも読み、英語のdifficultの同義で、生きにくい、生きずらいといった意味となる。

 では「如才ない」の如才とは。ちなみに本来は如在と書く。

 語源は、論語の「祭如在、祭神如神在(祭ることいますが如くし、神を祭ること神いますが如くす)」である。

 意味は、「先祖を祭るには先祖が目の前にいるかのように、神を祭るには神が目の前にいるかのように心を込めて祭られた」。

 これがいつしか、「形ばかりの敬意」「上辺(うわべ)の敬意」「形式的」といった意味に変化して使われるようになり、「如才」は「なおざりな様子」「手抜きをして気がきかない様子」を表すようなった。

 今日では「如才ない」と後ろに否定語をつけて使われることが多くなり、「抜かりがない」あるいは「気の利いた」と肯定的な表現として用いられる。

 「暮れ泥む」は「くれなずむ」と読む。

 「暮れなずむ」というのは、日が暮れそうでなかなか暮れないでいる状態、つまり日が暮れかかってから真っ暗になるまでの時間が長いことを表す。「暮れなずむ」を「(すでに)日が暮れた」という意味で使うのは本来の使い方ではない。いわば、先に触れた、「黄昏時」と同義語ととらえてよかろう。