美しい日本語 その1

 日本人の耳にだけそう響くのだろうか、音(おん)として響きの美しい言葉を聞くとき、日本の文化を誇りに思い、その言葉の成り立ちに想いを馳せる。   

テレビ番組のタイトルなどで、古都のことをわざわざ「いにしえの都」という。

 響きの綺麗な日本語だと思うが、「いにしえ」の語源は、「往 (い) にし方 (へ) 」から来ており、直訳すれば「行(往)ってしまった古い時代」ということになろうか。ちなみにこの言葉は「去(い)にしへ」とも書き、故人のことも指す。

 「とこしえ」は漢字では「永久」を当てる。「常し方(へ)」あるいは「長し方(へ)」が語源と思われる。

 ちなみに「とわ」は「永久」「永遠」を当てるが、これは「常(とこ)」(接頭)=いつも変わらない、永遠である」の意を表す語から来ている。「とこしえ」の「え」は「いにしえ」同様、「え(あるいは(へ))(接尾語)」=「方」でその方向、向きの意を表す。「ゆくえ」「しりえ」「いにしえ」と同じ使い方である。つまり、「とこしえ」と「いにしえ」は過去と将来という意味で対(つい)である。

 「あけぼの」は、「明け」と「ぼの(ほの)」からできた言葉で、「仄々(ほのぼの)と明けていく」あるいは、「仄(ほの)かな明け」の意で、夜のしじまから東の空がほのかに明るくなっていく様を表している。日本の感性を感じる。

 一方で、これに似た言葉で「あかつき(暁)」という表現もある。これは、「あかとき(明時)」が変化した言葉で、夜が明ける時を指し、ほぼ同じ意味で使われる。

 日の出の「あけぼの」に対して、日の入りに近い表現で「たそがれ(黄昏)」がある。これは、夕焼けの赤身の残るモメントを指す言葉である。

 実は、古くは「たそかれ」と言われ、「誰 (た) そ彼 (かれ) は」、つまり「あの人は誰だろう?」と、日暮れて人の顔の見分けがつきにくい時間帯を指す。

転じて、人生の盛りを過ぎた頃を指すこともある。これもなかなか美しい日本語である。

 これに近い言葉で、「ひともし頃」という表現がある。「火点し(ひともし)」とは灯火をともすことを指し、つまり暗くなって人工的な照明がないと生活に支障をきたすような時間帯を指す。

 「訪れる」とはあまりに日常語で、特に語源など考えもしないかもしれない。

 えてして日常用語とはそんなものであろう。

 では、「訪れ」は「おとずれ」と読むが、これはどこから来たのだろうか。

 音は、音波というように空気の振動である。風が吹けば音が生じるが、こういった自然現象を古来の人たちは神の来訪と感じたようである。これを、音を連れて神が来訪するので、音連れ(おとづれ)と言った。これが「訪れ」の語源である。 

 人が来訪する時も衣服が擦れる、衣擦れや足音など「音連れ」なのである。

 さて、「うたかた」とは、はかなく消えやすいものといった意味である。

 漢字では「泡沫」が当てられている。これには多くの語源や由来がある。

 「ウクタマカタ(浮玉形)」の転、「ウキテエガタキモノ(浮きて得がたきもの)」の略、「ワガタ(輪型)」の「ワ」の延音「ウタ」、「ウツカタ(空形)」の転など、多くの説がある。

 水面に浮かぶ泡を指すが、「水の泡」という使われ方から、消えやすくはかないもののたとえとして用いられている。

 実は、漢字の「泡沫(ほうまつ)」は当て字である。

 ちなみに、このように漢字2文字以上をまとめて訓読みすることを、熟字訓(じゅくじくん)と呼ぶ。

 一般に「当て字」と呼ばれているものの中には、多くの熟字訓が含まれている。1946年に当用漢字が制定されたとき、「当て字はかな書きにする」という方針が打ち出され、その結果、熟字訓の語源の漢字はあまり用いられなくなった。一方で、もとの漢字には言葉本来の意味が表現されており、言葉の意味を理解するという面ではメリットも多いだが。

 閑話休題。

 「夢うつつ」、「うつつを抜かす」という言葉がある。

 これらの引用例から、「うつつ」とは夢を見ている状態、あるいは現代の言い方では、バーチャルな状態を表していると誤解を招くかもしれない。

 意外にも、「うつつ」には漢字の「現」が当てられている。

 つまり、(死んだ状態に対して)現実に生きている状態、現存を意味する。

 その他、気が確かな状態、意識の正常な状態、つまり正気を指す。

 「うつつ」の語源は,諸説あるらしいが、ウツシ(顕)の語幹のウツから派生したとの説もある。

 音が似ているところで、「うつせみ」という言葉がある。

 この世に生きている人、あるいは現世、この世といった意味で用いられる。

 現在では、雄略天皇(5世紀後半)条にある「ウツシオミ」という言葉が語源であるというのがほぼ通説となっている。この「ウツシオミ」とは、雄略天皇が人の姿で現れた葛城(かつらぎ)の一言主の大神に対し、「ウツシオミであるので神であると気付かなかった」と言ったもの。このウツシを「現」とすることは諸説一致しているが、オミの意味については「臣」の字を当てる説があるものの定説とはなっていない。

「空蝉」「虚蝉」は後世にできた当て字だが、地上に現れてからの寿命の短い蝉や蝉の抜け殻の意にも用いられ、虚しいものというニュアンスを持つようになった。時代の終末思想、末世思想が「うつせみ」に「空蝉」とあてさせたのだろうか、時代背景を感じさせる。

 その他、現身(うつしみ)とする説もある。

 さて、「そこはかと」は、「そこはかとなく」という否定語が続く形で多く使われる。

 元々は「其処 (そこ) は彼 (か) と」と書き、「どこそことはっきりとは」、あるいは「確かには」という意味である。

 次に「風=ふう」について。

 「ローマ」に対して「ロマンティック」という形容詞があり、「ローマ風の」あるいは「ロマン主義」「ロマン派」「ローマ様式の」「ローマに通じる」と和訳されているが、まさしくこれと同じ表現である。

 日常語として意識なく頻繁に使っている。現代語の「–っぽい」がこれに当たるのではないだろうか。

「風」は、「洋風」「現代風」というように、名詞や形容詞のあとに付けて方法や様子、様式、性格等を表現する。もともとは、気まぐれな風が吹くように、あまり堅いことに拘泥せず、言いたいことをストレートに言わず、オブラートに包むように、やや曖昧さをもたせて表現する場合に用いる。私説ではあるが、風が吹くように、どこかから影響を受けてそれになびくという意味合いもあるのではないかと思われる。いずれにしても実に和風な言語である。と言いながら、図らずも「風」を使ってしまうが、それだけ「風」が使いやすい便利な言葉なのであろう。

 「こうしてください」ではなく、「こういうふう(風)にしてください」と言うと、表現が柔らかくなる。「このように」「こんな感じ」「これみたいな」という表現に類似している。

 先に出た「洋風」も西洋そのものではなく、西洋の雰囲気、あるいは様式をもった、という意味で使われる。

「風情」「風格」「気っ風(きっぷ)」といった言葉にも、断定せず醸し出す雰囲気といった意味合いが感じ取れる。 

 事ほどさように、日本語には、「風」「光」「音」といったものが雰囲気の表現として使われる場合が多い。

 「風景」と同様に「光景」という言葉も用いられる。「風光明媚」や「観光」にも「光」は使われる。「光り輝く」景色だからか、あるいは「光があるからこそ見える」景色だからか、正確な根拠はわかりかねるが、そう外れてはいまい。

 一方「威光」や「後光」では、「光」はありがたさや威厳を表していると考えられる。

 さて日本語では、ある感覚器の表現を別の感覚として使うことがよくある。

 「暖色」という言葉は、視覚を温度感覚で表現、「明るい音」は聴覚を視覚で、「軽やかな響き」は聴覚を重量感覚で表現している。

 私の大好きなワインでは、その味わいの表現として、「重い」「軽い」という重量感覚で表現している。舌で重量が測定できるわけがないが、呑んべいの味覚としては非常にわかりやすい。  

 「苦い経験」「甘い生活」では、人生を味覚で表現している。これは日本語に限った表現ではないが、そのあたりの詳細はここでは割愛させていただく。  

 次に、先にも出たが「しじま」には「無言」「黙」「静寂」の字が当てられる。

 「しず」あるいは「しじ」(=静寂)と「ま(=時間)」からの成語という説がある。「静」と「間」がそれに当たろう。

 一方、しじま(黙)の語源には、口をシジメル(縮める)シジマル(縮まる)の意があるという説もある。そこから「静寂」の意が派生したとも言われている。ちなみに、しじま(黙)と貝の蜆(しじみ)は「縮む」が共通の語源とされている。

 「たおやか」とは、姿・形・動作がしなやかで優しいさまをさす。「たお」は「たわむ」から派生した言葉である。この語源は「硬いものが曲がった形になる」「弧を描く」という意味の「撓む(たわむ)」からきており、その意味から基本的に女性の所作や木の枝などに対して用いられる。

 「木漏れ日」も日本的な美しい表現で、その名の通り、木陰から漏れる陽の光を指す。個人的には、学生時代に過ごした仙台の青葉通りや定禅寺通りのけやき並木を歩いた時の光の移ろいを思い出す。青春の不安に満ちた精神状態と重なって思い出される。時々、無性に仙台に戻ってみたいという衝動にかられる。やや感傷が入ってしまったこと、ご容赦願いたい。

 演歌の歌詞によくある「移り香」。英語では、「a lingering (faint) fragrance [scent]」とある。物に移り残った香、残香、遺薫などと和訳される。香、香織、薫、馨等、名前にも多く使われている。源氏物語の「匂宮」「薫大将」も嗅覚に由来する。匂いで季節を感じるように、古来より、いかに日本人の嗅覚がその文化に根付いているかが想像できる。

 さて、「はしたない」とは、礼儀に外れていて品がない、あるいは上品ではないといった意味で使われる。「はした(半端)」と「なし」から構成された語で、「はした」は「はんぱ」とも読み、一定の数量やまとまりとなるには足りない数や部分を指す。「なし」は否定語の「無し」ではなく、前の言葉を強調する時に用いられる。「あどけない」「せわしない」などの「ない」も同様の使い方である。つまり「はしたなし」は、「中途半端な」を強調したのが原義である。

 「世知辛い」とは、世渡りが難しい、生きずらいといった意味で用いられる。

 この言葉は実は仏教語が語源となっている。

 「世知」とは、俗世間を生きるための智慧、つまり世渡り術を指す。「辛い」は「つらい」とも読み、英語のdifficultの同義で、生きにくい、生きずらいといった意味となる。

 では「如才ない」の如才とは。ちなみに本来は如在と書く。

 語源は、論語の「祭如在、祭神如神在(祭ることいますが如くし、神を祭ること神いますが如くす)」である。

 意味は、「先祖を祭るには先祖が目の前にいるかのように、神を祭るには神が目の前にいるかのように心を込めて祭られた」。

 これがいつしか、「形ばかりの敬意」「上辺(うわべ)の敬意」「形式的」といった意味に変化して使われるようになり、「如才」は「なおざりな様子」「手抜きをして気がきかない様子」を表すようなった。

 今日では「如才ない」と後ろに否定語をつけて使われることが多くなり、「抜かりがない」あるいは「気の利いた」と肯定的な表現として用いられる。

 「暮れ泥む」は「くれなずむ」と読む。

 「暮れなずむ」というのは、日が暮れそうでなかなか暮れないでいる状態、つまり日が暮れかかってから真っ暗になるまでの時間が長いことを表す。「暮れなずむ」を「(すでに)日が暮れた」という意味で使うのは本来の使い方ではない。いわば、先に触れた、「黄昏時」と同義語ととらえてよかろう。

新医院完成

完成と言っても、建物だけで、これから旧医院の解体、駐車場整備、外構工事が待っています。

ここ2週間というもの、引越しと後片付けでクタクタです。

でも、来院された方から、「広いですね」「気持ちがいいですね」「綺麗ですね」「おめでとうございます」と口々に歓迎の言葉をいただき、やはり思い切って新築してよかったと改めて実感しました。

これからさらに、皆様に喜ばれる医院にしていきたいと思います。

新医院完成間近

4月もすでに後半にさしかかりました。

新型コロナは変異株も含め、まだ終息は見えません。

でも季節は確実に進んでいきます。

医院の玄関前のモッコウバラは今年も咲き誇り、甘酸っぱい香りを漂わせています。

新しい医院の完成も間近、ゴールデンウィーク前後を使い、引越しとなります。

患者の皆様にはご不便をおかけします。

新築はめでたいはずですが、いろんな手続きや作業のことを思うと、寝ても目が覚めてしまうこともしばしば。

でもま、なんとかなるでしょう。

早春賦

3月もはや下旬にさしかかりました。

3.11から丸10年ですが、昨日の朝方、かなり強めの地震がありました。災害を忘れるなという警鐘でしょうか。

さて、今年は前橋でも桜の開花の便りも記録的に早く、今週末にも満開になるのでしょうか。

モズは秋の季語ですが、拙宅の庭ではよく春先に見かけます。

上の写真は餌をくわえたモズです。かなり鋭い鳴き声です。目の周囲に黒い筋が見えないところから、メスだと思われます。

下は拙宅ベランダのユキヤナギの赤花の品種です。

一足早い花見気分です。

そういえば昨日庭にいたらジンチョウゲのあの強い香りがしました。

新医院建設 その2

前回は、昨年水に基礎部分の建設の様子をご紹介しました。

その後の進捗ですが、今回の写真は、上が2月4日、下が本日2月24日の状況です。大まかな骨組みができていく様子がご覧いただけると思います。

電線等を避けながらの作業が最も難しかったようです。

ときに暖かい日もありますが、一年で最も寒い季節、そんな環境下で作業員の方々は手際よく組み立てていきます。

このあと、屋根材が乗るようですが、制限された条件下なので、重機ではなく手作業で行うそうです。実際にどうやるのか、見当がつきません。

いずれにしても、作業の安全を祈ります。

10年越しのシクラメン

毎年、年末にシクラメンを頂戴します。

以前のものと比べとてもカラフルで、バラエティも豊富になりました。

頂いたものは皆、これぞ最高の自分とばかりに咲き誇ります。

完成された美しさ、でしょうか。

でも、最近はそういった経緯で頂いたシクラメンのその後の姿に惹かれます。

写真のシクラメンも、おそらく7、8年経過したものです。

形はそれなりに乱れていますが、野趣といいますか、必ずしも理想的な条件下ではありませんが、植物がそれなりの環境下で生きている姿を見るのは、また格別です。

また来年も幾つか花をつけてけくれたら、と思いつつ、がんばっているシクラメンにエールです。

 

そうだったのか語源㉖   -数に関する言葉-

 人の指の数が左右で計10本だったから10進法が発達したと言われている。

 仮に、合計12本だったらもっと文明は進歩したのではないかとも言われている。

 12進法というのがある。時刻や方位に使われる場合が多いが、たしかに円に関する場合、10より12のほうが使いやすい。円を10等分するのは結構難しいが、4等分、6等分は簡単で、つまりその倍数である12等分は比較的簡単である。しかも10の約数は1,2,5,10しかないが、12では1,2,3,4,6,12と多い。

 さて、漢字由来の数詞から派生した言葉には大袈裟な、あるいは比喩的に強調した表現が目立つ。

 「万一」あるいは「万が一」とは、「万に一つ程度のほんのわずかな可能性のあること」が直訳だが、日常的には「ひょっとしたら」「もしかしたら」くらいの意味に使っている。1/100は百分率では1%なので、「万が一」とは0.01%、つまり限りなくo%に近いが、実際に使っている実感としては確率的にはもっと大きいのではなかろうか。

 「白髪三千丈」とは、原典は李白の「秋浦歌」で、長年の憂いが重なって白髪が非常に長く伸びたことを誇張して表現したもので、日常的には「心に憂いや心配事が積もること」を例えている。「丈」とは、馬の前足から肩の高さとされているので1.2〜1.5m、つまり3000丈とは3600mから4500mとなる。かなり大袈裟であろう。

 「千差万別」は、いろいろなものにはそれぞれ相違や差異があることの例えとして使われているが、宋の時代の道原による仏書「景徳伝灯録」の禅問答に由来しているようである。これに比べ、類義の日本語の熟語「十人十色」はなんとも穏やかというか、文字通りでハッタリの微塵も感じられない。

 中国戦国時代の道家である列子由来の「千変万化」も意味こそ違えど似た表現である。「千差千別」でもよさそうだが、「千」の次に「万」というさらに大きな単位を使うことで、多いことをさらに強調する狙いがあると思われる。

 さらに「千載一遇」とは、直訳すれば「千年に一度出会うかどうかのチャンス」の意で、晋代の袁宏の著「三国名臣序賛」が出典とされている。

 「万国」「万人」「万病」「万障」というように、「万」は訓読みで「よろず」と読むように、非常に数が多いことの表現として用いられる。

「万策尽きる」の「万策」や「万事休す」の「万事」も同様の使われ方である。

 さて、英語で数に関する曖昧な数詞で、「a few —」というのがある。量では「a little—」という表現がそれに当たる。日本語では「数 —」を当てている。では、「数 —」とは具体的にいくつを指すのか。「二三の」と考える方と「五六の」と考える方がいる。これも時代とともに変遷するようである。

 1967年11月、当時の佐藤栄作首相のもと、日米首脳会談が行われ、沖縄返還のメドを両三年以内(先方のコメントではwithin a few years)につけることで合意した。2~3年以内に返還することを約束したのではなく、数年以内に返還時期を決めるという内容だった。結果的に1972年に本土返還が実現したが、やはりこの場合、「a few years」は日本側の思惑とは裏腹に「5〜6年」と解釈するほうが妥当だったのではなかろうか。

 いずれにしても、「数—」という曖昧な表現は、使う側にとっては責任を曖昧にするという意味で便利だが、両者の間に誤解や約束自体の瑕疵を生じる恐れがあることも事実である。

 ところで、我が日本語の数詞で、うんちくのあるものは如何。

 とっかかりに常用の言葉である「ろくでなし」を取り上げてみたい。

 この「ろく」は数の6ではなく、通例として「碌」の字が当てられているが、実はこれも当て字である。

 本来は「陸」である。勾配のない平らな屋根のことを「陸(ろく)屋根」というが、「陸」は土地が平らなことから、物や性格が平らで真っ直ぐなことを指す。そこから性格が真っ直ぐでないことを「陸(ろく)でなし」と言うようになったそうな。

 歌舞伎の用語が語源とされるものに、「七変化」がある。一般的に「物事がくるくる変わる」「素早く変化する」といった意味で使われる。

 もともとは歌舞伎舞踊の世界で使われている言葉で、「変化舞踊(へんげぶよう)」からの派生語である。ちなみに、「変化」を「へんか」と読むのは漢音、「へんげ」は呉音である。

 「変化舞踊」とは、いくつかの小品舞踊を組み合わせて構成されたもので、同じ踊り手が次々に扮装を変えて異なる役柄を連続して踊り分けるものを言う。

 少ないもので「三変化」、多いものだと「十二変化」まであるが、「五変化」や「七変化」で構成されるものが最も多かったため、日常用語になったようである。

 さて「八方美人」とは、誰に対しても上手に立ち回る人を指す比喩である。

 「八方」とは、東西南北とその間の45度の方位を入れたものである。

 「八方塞がり」も逃げ道のないことを表すが、「四方」より「八方」のほうがより全方位的なニュアンスが強くなる。その意味では、先の流れからすると「四面楚歌」という比喩は、古代中国の表現としては随分謙虚に思えるがいかがだろうか。

 「八面六臂」 とは、仏像などで八つの顔と六本の腕を持っていることを意味し、多才で一人で何人分もの活躍をするたとえに引用される。

 話はやや逸脱するが、奇数は日本文化にとって色々な意味でバランスがよいと思われる節がある。西洋の左右対称文化に対し、日本文化は概ね左右非対称文化といえよう。日本の城には左右対称なものは少なく、金閣寺(鹿苑寺金閣)、銀閣寺(慈照寺銀閣)も左右非対称、神社の狛犬は、口を開いている阿形と口を閉じている吽形が左右にあって、これも非対称。同様に、仁王門の阿形と吽形もしかり、庭園や書院造りも完全な非対称である。

 例外として、国会議事堂や迎賓館はほぼ左右対称だが、これは列強に追いつくべく、西洋建築を模倣したためであろう。

 その他、俳句は5-7-5、短歌は5-7-5-7-7、都々逸(どどいつ)は7-7-7-5と、奇数の句の集合体である。

 古来からの仏教建築では、舎利を納める五重塔が有名だが、その他、優美でリズム感のある薬師寺の東塔、西塔も三重塔である。

 その薬師寺の本尊である薬師三尊も、中央に薬師如来、左右に非対称の日光菩薩と月光菩薩を随え3体で構成されている。

 同じく、法隆寺の釈迦三尊も中央に釈迦如来、左右に両脇侍(きょうじ)像を配している。これも左右非対称である。

 実は、これは古代中国の陰陽道の影響と考えられる。

 陰陽道では、奇数が陽で偶数が陰となっている。西洋文化の影響を受けた現代の感覚からするとやや違和感がある。

 しかし音楽のリズムを例にすると、通常一拍目が強く二拍目が弱い(この逆を裏拍という)。ここから奇数が陽であると理解するに無理はない。

 つまり陽が正で陰が負と考えられ、尊いこと、あるいはめでたいことを表現するのに陽を用い、その逆を陰とした。

 もっとも、「八」を末広がりと形容したり、先に触れた双璧や六歌仙、四天王など、偶数をよしとする例外もある。

 いずれにしても、日本文化は無常や時や形の移ろい、ひいては不完全なものに美を感じる文化とも言える。

 これに対し、西洋文化は偶数文化と表現できよう。

 パリのルーブル博物館、凱旋門、シャイヨー宮、ロワール渓谷のシャンボール城、ロンドンの大英博物館、バッキンガム宮殿、ベルリンのブランデンブルク門、ウィーンのシェーンブルン宮殿、アメリカ連邦議会議事堂、ホワイトハウス、イタリア庭園等々、左右対称の建築物は枚挙にいとまがない。ちょっと古風な西洋の部屋のしつらえでも、マントルピースを中央にして、絵や写真を左右対称に飾った光景を目にすることも多いのではなかろうか。

 日本では、左右対称の古い建築物といえば京都の平等院鳳凰堂ほか数えるほどである。これは、「この世をば わが世とぞ思ふ望月の かけたることもなしと思へば」と詠んだ藤原氏一族の世界観からすれば、完全無欠、つまり欠けてはいけないのであろう。

 別の見方をすると、日本文化が自然界に依存、あるいは自然界と共存する文化であるのに対し、西洋文化は自然を支配する文化とも言えるようである。 

 これは、それぞれ民族の置かれた環境の違いに依拠していると考えられる。

 紀元前から西洋・中国の小麦農業は牧畜を伴い、人口増加につれ森林を伐採、開墾し、作付け面積を増やし家畜を増加させていくので、自ずと自然は破壊される。こういう生業からは、人間は自然界を「支配する対称」と考える文化が生まれやすいのではなかろうか。

 人が作るものは、左右対称の同じ物が幾つでも容易に作れるので、偶数が馴染みやすい。ところが、日本の縄文人の生業は、魚猟・採集、弥生時代は稲作・養蚕が主。これは、人は自然界に頼らないと生存できないので、自然の循環との共生を大切にする生業を選択した結果ではないかと考えられる。自然界を観察すると、左右対称のものはごく稀である。このような自然を崇拝する日本人の心性から、「奇数」の文化が生まれたという見方もできよう。

 閑話休題。

 デジタル=digitalの語源については、語源⑩「アナログとデジタル」を参照されたい。 

 さて、ローマ数字のⅤはアラビア数字の5だが、これは片方の掌を広げた形、Ⅹはそれを二つ上下に合わせた形で10を表現したとされている。

 12345678910
ギリシャ語mono モノdi ジtri トリtetra テトラpenta ペンタhexa ヘキサheptaヘプタocta オクタnona ノナdeca デカ
ラテン語ūnus               ウーヌスduo                  ドゥオtrēs                 トレースquattuor            クァットゥオルquīnque           クィーンクェsex                  セクスseptem           セプテムoctō                 オクトーnovem            ノウェムdecem             デケム

 化学用語では、数詞としてギリシャ語がよく使われている。

 ジメチル=dimethyl の「ジ」やトリニトロトルエン=trinitrotolueneの「トリ」、テトラサイクリン=tetracyclineの「テトラ」はその例である。

 モノラル=monaural 、モノレール=monorail、モノローグ=monologue、等の「モノ」はギリシャ語の「1」を表すmono-から派生しており、日本語では「単一」、「独」といった字が当てられている。

 ペンタゴン=pentagonは5角形の意味だが、建物の形からthe Pentagonは米国の国防総省を指す。

 DHA=docosahexaenoic acidはドコサヘキサエン酸と和訳されるが、hexa-=6つの二重結合を含むdocosa-=22個の炭素鎖をもつカルボン酸の意味である。

 ヘプタン=C7H16は炭素鎖の7からつけられた液体の名前である。

 また、「オクタ」はオクトパス=octopus やオクタン=octane、オクターヴ=octave(8度音程) の派生語に使われている。

 「ノナ」はnonagon=9角形などに使われるが、「ノナ」から派生した「ナノ」のほうがなじみ深い。ナノテクノロジー=nanotechnologyはナノメートル(1×10-9m)レベルの物質を扱い技術を指す。

 「デカ」はデカメートル=decameter(10メートル)の語源であるが、日本ではあまり使われない。100年をcenturyというのに対し、10年をdecadeというが、これも日本ではあまり馴染みがない。

 しかし、ボッカチョ作「デカメロン」=十日物語や、いまでは12個を意味するダース=dozenもここから派生した言葉である。

 さて、次にラテン語の数詞の派生語について。

 ūnusからuni-という言葉ができ、ユニフォーム=uniformやユニーク=unique、UN=国連のユニオン=union、ユニクロ=UNIQLO等が挙げられる。

 ひとつ、唯一、単一、同一といった意味がある。

 「ウニコ」というブランドがあるが、この社名はスペイン語で、「唯一、ユニーク」を意味するunicoに由来している。磁器などでも、大量生産したものに対し、「一点もの」を意味するunicoという言葉がよく使われる。

 ちなみに、ユニクロの社名はUNIQUE CLOTHING WAREHOUSEの略だが、そうであればUNICLOのはずだが、登録の際、何かの手違いでCがQになったものの、それがかえって面白いとそのままUNIQLOの商標になったそうな。

 デュエット=duetやデュオ=duoはもちろんふたつ、ふたりの意味のduoから派生しているが、意外にもジレンマ=dilemmaもふたつの矛盾することが同時に起きている様を表している。

 このduo-以外に、2を意味するラテン語の接頭辞「bi-」の英語読みとして、「バイ」というのがある。

 バイリンガル=bilingualやバイメタル=bimetal(サーモスタットに使われている熱膨張率の異なる2枚の金属を張り合わせたもの)、またバイアスロン=biathlon(ふたつの競技を合わせたもの)、ひいてはバイシィクル=bicycle(輪=cycleをふたつ繋いだもの)も派生語である。エヴィデンスは確認できないが、個人的には、副を意味する英語の接頭辞by-、例としてside by sideやbypass等があるが、日本語では「並」「並んで」が相当し、bi-と同じ語源ではないかと思われる。

 trēsはギリシャ語のtriと似ていて、たとえば3人組のトリオ=trio、三角形=triangleやトライアスロン=triathlon(3種の競技を合わせたもの)などの派生語がある。

 quattuorは、四重奏のカルテット=quartet 、4輪駆動の車のクワトロ=quatro、英語の1/4を表すクォーター=quarter 等の語源となっている。

 quīnqueはなかなか派生語が浮かばないが、五重奏のクィンテット=quintet

はその派生語である。歯科関係の出版社でクィンテッセンス=Quintessenceがあるが、これは直訳すれば「5つの元素(要素)」だが、ギリシャ語の四大元素「空気・火・水・土」に続く、ラテン語で「第5の元素(要素)」を意味する。

 septemは7、octōは8を意味し、ともに7番目の月=September、8番目の月=October の語源だが、現在ではそれぞれ9月、10月を指す。

 一説に、ジュリアス・シーザー=Julius Caesarが自身の誕生月の7月=Julyを、そしてその後継者のアウグストゥス(オクタヴィアヌス)=Augustusの誕生月の8月=Augustをそれまでの10カ月に入れたため、2カ月ずつずれたというのがあるが、これはどうやら誤りのようである。

 現在の暦の元になっているのは、紀元前8世紀頃のロムルス暦。この暦では、1年は3月=Marchから始まる10カ月だった。これには、当時の主要産業である農作業の始まりに合わせたとの説がある。それによると、Septemberは文字通り7番目の、Octoberは8番目の月だった。しかしその後、太陽の周期に合わせて12の月があるヌマ暦が使われ、1年の始まりに1月と2月の2つの月が加わった。そのため、双方とも2つずつずれて7月→9月、8月→10月となったというのが有力である。

 10を意味するdecemの派生はギリシャ語のdecaに準ずるがこれは先に触れたので割愛する。

 数詞に関する語源は数々あり、数え上げればきりがない。

新医院建設

10月22日に地鎮祭が執り行われ、11月よりいよいよ青葉歯科の新診療所の工事が始まりました。

順に、11/9 11/20 12/10 12/27の建設現場の状況です。

11/9の写真は、駐車場のアスファルトを剥がしたときのものです。

11/20の重機(ユンボ?)は、掘削したあとどうやって地上に出るのか、興味津々でしたが、残念ながらその場を見ることはできませんでした。

最初、2m近くまで重機で掘削したので、患者さんの中には「地下室ができるんですか?」と訊ねる方も。新医院は、地下室なしの地上2階建てです。

面白いのは、11月中は、診療中作業員の方の声はほとんど聞こえなかったのですが、12月になると次第に声が大きくなってきました。作業する高さが次第に地上に移ってきたんですね。

これから徐々に立ち上がり部分ができてくるでしょう。

新型コロナの感染状況で、よく「65歳以上の高齢者」という表現が使われますが、私自身、既にその年齢になりました。

でももうしばらくの間、モチベーションを維持して、皆さんの健康維持に、そして自身の健康維持にも繋げていきたいと思います。

来年はぜひとも困難を乗り越え、良い年にしたいですね。

10月22日に地鎮祭が執り行われ、11月よりいよいよ青葉歯科の新診療所の工事が始まりました。10月22日に地鎮祭が執り行われ、11月よりいよいよ青葉歯科の新診療所の工事が始まりました。

ストレスと免疫力

冬を迎えたいま、例年のインフルとともに、新型コロナウィルス感染の第3波とみられる拡大が告げられています。

 私たちは、見えない敵に対し、いまだ確実な対処法が見出せないでいます。

 とかく、三密の回避やマスク着用、手洗いといったいわゆる対外的な対処法に関心が向きますが、同じ条件のもとでも、感染する人としない人がいることも事実です。

 まずは原点に立ち返り、自分自身の対処法にも向き合う必要がありそうです。

 これは対コロナのみならず、細菌やウィルス等あらゆる外敵に対しての感染防御と症状の悪化軽減に役立つはずです。

 自身の対処法、つまり免疫力をつけることです。

 以前にも触れましたが、私たちの日常の体調は自律神経によってコントロールされています。自律神経は交感神経と副交感神経からなり、大雑把に言えば、臓器に対し相互が促進と抑制という拮抗作用(反対の働き)でコントロールしています。どちらかと言えば、交感神経が活動に適した作用をし、副交感神経が体を休めたりエネルギーを貯蓄しようとする作用をします。

 別の表現では、交感神経は脳を活発に働かせる作用もしますが、同時にストレスに対処するときにも働きます。

 逆に、副交感神経は主にリラックスさせたり、睡眠時に作用します。

 ここで注目したいのは、交感神経を過度に興奮させるストレスという刺激です。

 働きすぎ、悩みすぎといった「心身の疲れ」などで、心と体にストレスがかかると、自律神経が乱れて交感神経が過度に興奮します(ちなみに性格的にイライラしたりせっかちな人も交感神経の働きが強い傾向があり、病気になりやすいと言われています)。

 その際、交感神経からアドレナリン(というホルモン)が分泌されることで、白血球の一種である顆粒球が増加します。 

 顆粒球は細菌を処理する力が強く、自らが発生させた活性酸素によってそれを殺します。細菌を処理した後は膿(化膿性炎症)を作ります。増加した顆粒球は、役割を終えるときに活性酸素を放出しますが、この活性酸素は広範囲で組織破壊を起こします。そしてそれと共に、血管が収縮して血行も滞ります。

 その結果、細胞の老化、血行障害などが起こり、がん、心臓病、高血圧、便秘、不眠等、さまざまな疾患が発生しやすくなります。

 また、顆粒球はサイトカイン(免疫細胞間の情報伝達物質)を産生し、これが過剰に産生された場合には組織を障害したり、免疫細胞であるリンパ球の働きを抑制すると言われています。

 ここで、自然免疫と獲得免疫について簡単に触れておきます。

 自然免疫は、外敵が侵入した際、敵が何であれ、まず真っ先に出てきて貪食作用(相手を取り込んで分解処理する)を行いますが、白血球の一種の顆粒球はその代表です。

 一方の獲得免疫は、一度体内に侵入した敵の情報を確認し、その情報から作った抗体で攻撃します。これらの働きをするのが同じく白血球の一種であるリンパ球です。

 リンパ球は、細菌よりもさらに小さい異物を処理するように進化した白血球で、接着分子(接着タンパク)に小さい異物を吸着させて認識します。

 小さな異物とは、ウィルスや消化酵素で分断された他の動物や植物のタンパク質などです。はしかウィルスや卵白などに免疫ができるのはこのためです。

 その代わり、リンパ球は細菌に対しての免疫作用はあまり機能しません。細菌で起こる病気は顆粒球が処理するため、リンパ球の誘導が起こりにくく免疫(狭義の免疫)ができにくいのです。

 自律神経の支配分野(どの機能をコントロールしているかということ)では、顆粒球は交感神経の支配を受け、リンパ球は副交感神経の支配を受けています。

 つまり、ストレスが多く交感神経の興奮が高まった状態が続くとリンパ球の働きが弱くなり、ウィルス感染に対する抵抗力が弱まるというわけです。

 換言すれば、副交感神経の支配をやや高めておくことが、ウィルス感染の予防につながるのです。

 この実践について、財団法人 脳神経疾患研究所 総合南東北病院発行の「健康倶楽部」の記事をご紹介します。

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(1)ストレスの多い人は、副交感神経を刺激して優位に保っておく  

 副交感神経とは、夜や休息時に働く神経、血管を広げ血流を促し、心身をリラックス状態にする働きがあります。緊張したり、興奮したりすると交感神経が優位になり心臓の拍動を高め、血圧を上昇させます。通常はこの二つの神経がバランスを取っているのですが、ストレスや過労などで自律神経が乱れると白血球にも悪影響が及ぶのです。ですから、やや副交感神経を優位に保っておくことが免疫力アップにはよいと考えられています。            

 副交感神経を優位にするには、             

A)適度な運動をする

B)深呼吸をする

C)食事をゆっくりよく噛んで食べる

D)ぬるめのお風呂につかり体をあたため血流を良くする  

 副交感神経が優位になると、リンパ球が増えて免疫力が向上します。ただし、増えすぎは免疫過剰で問題です。とはいえ、現代のストレス社会は交感神経が優位になりやすく、免疫力の低下につながっていると考えられます。

(2)免疫力を高める食品をとる  

 免疫力を高める食品といわれているのが、食物繊維が多い食品、抗酸化食品です。腸内の環境がよいと免疫力がアップすることは明らかになっています。腸は病原菌などが腸壁から侵入するのを防ぐ免疫細胞が多く集まっているので腸内の善玉菌を優位にするために食物繊維の多い食品や、ヨーグルトなどの発酵食品を積極的にとることです。 

  *積極的にとりたい食品   玄米・野菜・きのこ類・バナナ・緑茶・ココア・りんご・ヨーグルト・納豆など  

(3)ストレス過剰にならない

 現代社会において、ストレスはつきものです。そのストレスをうまく発散させること、といってもそれが簡単にできれば言うことないのですが、ストレスが強いと、交感神経が優位になるので、免疫力が弱まると考えて下さい。副交感神経を優位にさせるとストレスが弱まり、免疫力がUPすると考えれば良いわけです。      

 仕事などで疲れたら、無理をせずに十分休養すること。無理をして疲労を回復させずにいると、当然免疫力が弱まり、病気に抵抗できない体になってしまいます。  

 毎日の生活の中でリラックスできる時間をとることです。リラックスの時間に笑いがあれば最高です。  「笑う」ことは副交感神経に支配されているので、「笑い」のある生活が免疫力を高めることになるのです。 

(院内だより「あおば」No.201)

そうだったのか語源㉕   -動物にまつわる言葉 その2-

テーマの対象が思いの外広かったので、急遽2回に分けた。

今回はいわば番外編なので、整理しにくいものを雑駁ながら挙げてみよう。

その前に、何故大人になると動物から植物に関心が移る傾向が多いのか、考えてみたい。

動物は動きが比較的俊敏、あるいは確認しやすい、一方植物は反応が緩慢、あるいはわかりにくいという点では、まずはコンセンサスが得られよう。

自分のことを振り返ってみると、こちらで何か働きかけをして、即座に反応を確認、あるいはそれによる満足を得ようとするのが、子供ではないだろうか。

誤解を承知で言うならば、そういった経験を何度となく繰り返しているうちに、その後の変化に予測が働き、意外性を排除するようになるのが大人ということではなかろうか。

また、3歳にとっての1年は人生の1/3であるのに、私の例で言えば当年66歳にとっての1年は1/66である。

分母が大きい分、この分数の値、つまり変化量は小さくなる。年齢を重ねるにつれ、人間が保守的になるのは、ある意味生理的にも整合性があるのかもしれない。

逆に、歳をとっても冒険的革新的な生き方をしているのは、精神的に青年をつら抜いているとも言える。

人間保守的、あるいは保身的になったらそれはある意味死に近づいたということなのかもしれない。

閑話休題。

さて、リスは英語ではsquirrelだが、これには動詞で「ため込む、隠す」という意味がある。おそらく、リスが頬袋に木の実などをため込む様子からできた動詞だと考えられる。

ちょっと発音が似ている言葉に(やや強引か)、スキャロップ=scallop、日本語ではホタテ貝がある。

scallopはその他、波型模様、カーテンやテーブルクロスの扇型模様、そして歯科分野では歯と歯肉の境目の波型模様をも指す。ホタテ貝の貝殻の縁の形状から派生した意味だと思われる。

ホタテ貝から、話は水の中に移る。

軟体動物のタコは英語でoctopusだが、これはラテン語のocto=8とpous=足からなり、直訳は「8本足」ということになる。オクターヴやガソリンのオクタンも8が語源となっている。

「海老で鯛を釣る」とは、「わずかな手間(資本)で大きな利益を得る」意味だが、エビも高価では?と思わないだろうか。実はこの場合のエビは、伊勢エビなどではなく、餌に使う安い小エビを指す。

「鯖を読む」とは、「数をごまかす」という意味に使われる。

これは江戸時代、足が早く(=腐りやすく)大量に獲れた安価なサバを数えるのに、時間がかけられないため、適当に数えたところからできた諺である。

ついでに、「足が早い」とは。

「脚=足」は、「雨脚」「日脚」「火脚」等に使われるように、物事が時間とともに変化していく様を表す。足で移動することから時間の移動、つまり経過にも使われるようになったようである。つまり、「足が早い」とは、「新鮮な状態から腐敗するまでの時間が短い」となったのであろう。

海外に目をやると、イタリアにサルディニア(イタリア語: Sardegna)という島がある。この周辺の海では昔からイワシがよく獲れた。そのため、イワシの英語名sardine=サーディンはこの島の名に由来しているとか。

魚関連で、服地にヘリンボーン-herringboneという模様がある。V字形や長方形を縦横に連続して組合せた柄だが、これは開きにした魚の骨の形状に似ているところから、ニシン=herringの骨=boneという意味からつけられた呼び名である。

服地の話のついでに、ドスキンという生地がある。昔の軍服などに使われていた、目のつんだビロードのような光沢の厚手の織物を指す。doeskinと書くが、前回㉔で触れたdoe=雌ジカの(なめし)skin=皮のことであるが、一般的にはこの雌ジカの皮に似せて作られた厚地紡毛織物をいう。

ちなみに、moleskin=モールスキンは厚手の綿織物のことで、mole=モグラの皮のような肌触りからつけられた。個人的には、キウイフルーツの感触に似ていると思うがいかがか。

その他、動物の毛皮を使ったものではsealskinがあるが、これはオットセイやアシカの毛皮を指す。

英語のtunaは、スズキ目サバ科マグロ属のマグロやカツオを指す。ちなみに、sea chicken=シーチキンは日本のある会社の商品ブランド名であるが、マグロの食感が鶏のささみに似ていることからつけられたとされるが、まさに言い得て妙である。

話は細菌の名前に移る。

食中毒の原因菌であるサルモネラ菌=Salmonellaは、発見した細菌学者、Daniel Salmon=ダニエル・サーモンにちなんで名付けられた。

サーモンはもちろんサケ目の魚サケのことである。だから、サーモンさんは日本語では鮭さんである。

サーモンのスペルはsalmonで、-l-はサイレントで発音しない。

通常、細菌の命名には、発見者の名前に接尾語として-ellaをつけることが多い。

Salmonに-ellaをつけSalmonellaとなり、この場合は-l-はサイレントではなくなり、サルモネラと発音する。

ちなみに赤痢菌はShigellaというが、これは発見者の志賀潔のShigaに-ellaをつけた命名である。

クレブシエラ(Klebsiella pneumoniae)という肺炎の原因菌は、発見者であるドイツの細菌学者Edwin Klebs=エドウィン・クレブスの名をとった命名であるが、これも-ellaがついている。ちなみにKlebs=クレブスは、ドイツ語で悪性腫瘍を意味するが、疾病であるものの、これは発見者とは関係がないらしい。

ついでに、がんは英語でcancer というが、ドイツ語のKlebs同様、カニのことである。ギリシャ語の「カルチノウス」が語源で、これは乳がんにおいて、ちょうどカニが手足を広げたような硬いしこりを表面から触れる様を表現したものされている。

さて、カニは漢字で「蟹」と書き、甲殻類なのに「虫」がついている。

同様にヘビは漢字で蛇、カエルは蛙と書く。これらはなぜ虫編か。

実は、「虫」という字は、ヘビが鎌首をもたげた形からできた象形文字である。それゆえ、ヘビの仲間である爬虫類(ここにも虫が出てくる)の生物を表すのに、この字が使われている。つまり、うねうね、くねくねしたもの、あるいは足の多いものに爬虫類のイメージが当てられ、虫編がついている。蛙(カエル)や先に出た蛸(タコ)等もその例である。

ちなみに虹に虫編がついているのは、天を渡る龍(ヘビの仲間)のイメージからつけられたものと考えられている。

では、いわゆる昆虫の名前に使われている「虫」はというと、本来は「蟲」の字が使われていた。虫がうじゃうじゃ蠕いているイメージを表したと考えられる。それが略されて「虫」となった。

引き続き虫にまつわる話題を。

最近では、フリマと呼ばれるフリーマーケット。自由に出品できるからfree marketと思いきや、実はスペルが全く違う。正しくはflea marketである。このような誤解を生じるのは、l とrの発音を正しく区別できない日本人の残念なところである。fleaは節足動物のあのノミのことで、つまり「蚤の市」のことである。ではなぜノミなのか。

時代は遡り、フランスの第2帝政時代(1852-1870)に、パリの中心街を軍隊が行進出来るように大通りにしようと再開発が行われた。それにより、スラム街や古い商店は取り壊された。売り場を追われた商人たち(大半は中古品を売っていた)はパリの北部、 ポルト・ド・クリニャンクール(Porte de Clignancourt)で市を立てることを許可され, 1860年に初めて売店が登場した。要するに、中古品を売っていたのでノミがいるだろうということから、やがて人々はその市を marche aux puces(market of flea) 「蚤の市」と呼ぶようになったというのが名前のいわれである。

似たものついでに、バッタもんとは「正規の流通ルートで仕入れたものではないもの」あるいは偽物を指す。

この「バッタ」には多くの説があるが、説得力のあるものを幾つか紹介したい。

不況などでバタバタと倒産した商店の品物を、一括で大量に安く買う業者を「バッタ屋」といい、そこからバッタもん(物)というようになったという説、

バッタがいそうな道端で拾ってきたような物を売るからという説、場当たり(バッタ)的に入手した物を得るからという説、バッタのようにあちこちに店を移転するからという説等。それぞれさもありなんという感がする。

空を飛ぶ点では似ているセミ。意外なことにカメムシ目セミ科の昆虫。

ミンミンゼミ、ニイニイゼミとか、鳴き声から命名されているものはわかりますい。

一方アブラゼミは、羽根の感じが油紙に似ているからという説や、鳴き声が油を熱したときに撥ねる音に似ているからという説がある。

どことなく物悲しさを感じるヒグラシの鳴き声。子どもの頃、山で聞くこの鳴き声が夏休みの終わりを予感させ、一抹の寂しさを覚えた。

ヒグラシとは、日暮れ時に鳴くことから「日暮らし」と名付けられたそうである。

羽根があるついでに、嫌われ者のゴキブリについて。

明治時代までは「ゴキカブリ」と呼ばれていた。漢字では御器噛と書く。今でも関西では「ゴッカブリ」と呼ぶ地域もあるようだ。これは何にでもかぶりつくという意味で、蓋つきのお椀(=御器)をかじる虫という意味から来ている。ゴキブリの異名には「コガネムシ(=黄金虫)」というのもあり、「コガネムシは金持ちだ」という童謡の「コガネムシ」はゴキブリを指し、ゴキブリが増えることは財産家の証しという言い伝えがあったようである。

話はより上空を飛ぶ鳥に移る。

トビ職(鳶職)とは、トビのように優雅に高いところを飛び回るからついた名前ではない。彼らが持っている鳶口に由来する。鳶口とは、トビのくちばしに似た爪を先端に付けた長い棒のことで、木を引き寄せたり消火作業等に使われていた。

「獲物になる」「食い物にされる」ことを、「カモになる」「カモにする」という例えはどこからきたのか。

カモの代表格であるマガモは、形も大きく味も良く、さらに数も多かったためとても捕まえやすく、料理にはもってこいの材料だったことからこの表現が生まれたようである。

また、鴨肉は多少の癖があるため、甘みのある冬ネギと合わせると相性が良かったことから、良い話にさらに好条件がつくことを「カモがネギ背負ってくる」と言うようになったとか。

さて、鳥にやや似ているコウモリについて。

「あいつはコウモリだから」といった比喩に使われることがある。

これは、イソップ童話の「卑怯なコウモリ」からの引用である。獣一族と鳥一族の戦争で、前者が優勢のときは「私は全身に毛が生えているから獣の仲間です」と言い、後者が優勢似なると「私には羽があるから鳥の仲間です」と言って、最後に双方から卑怯者扱いされたという話から、態度のはっきりしない卑怯者を指す比喩となった。

ちなみにウィルスの自然宿主によくコウモリが挙げられるが、行動範囲が広いこと、冬に冬眠しウィルスを温存させやすいこと、温度変化の少ない不潔な環境に暮らすこと等が原因とされている。

それにしても、COVID-19の1日も早い収束を願うばかりである。

最後になぜか羊羹について(実は何を隠そう私の好物である)。

「羊羹」の「羹」は訓読みで「あつもの」と読み、とろみのある汁物を指す。中国では「羊羹」という言葉は羊の肉やゼラチンを使ったスープを示す。

日本には、鎌倉から室町時代に中国に留学した禅僧によって点心(食事と食事の間に食べる間食)の一つとしてもたらされた。しかし、禅僧は肉食が禁じられていたため、小豆や小麦粉、葛粉などの植物性の材料を使い、羊肉に見立てた料理がつくられたそうである。