保険医協会会長退任

 7月14日、梅雨の戻りのような大雨が降るあいにくの天気でしたが、群馬県保険医協会 第52回総会が開催され、私は無事、5年間務めた会長職を退任しました。

 これといって大きな仕事はしませんでしたが、逆に大きな失態も晒さずに(笑)、お役御免となりました。

 このあと、顧問、名誉会長に就任して事実上一線を退くのがこれまでの通例でしたが、私から希望して、平の1理事として残していただくことになりました。かっこより微力ながら何かお役に立てれば本望です。

 何れにしても、これでやっと自由な発言ができそうです(笑)。

 退任の挨拶のあと、思いがけず花束を頂いたとき、やはり退任した実感がふつふつと湧いてきました。

 皆さま、これまでのご支援ありがとうございました。

 そして、今後ともよろしくお願いいたします。

 その後、我が家の玄関では、しばらくユリの濃厚な香りが漂っていました。

 

前橋バラ園

数年ぶりに前橋敷島公園のバラ園に行ってきました。

朝9時に着いたのですが、すでに駐車場はほぼ満車。

午後からWebの会議が入っていたので、とにかく急いでバラ鑑賞。

素晴らしい出来栄えと、ベストタイミングでした。

これなら、遠くから足を運んでも後悔しないだろうと、前橋在住の身としては、少し誇りに思いました。

なにせ前橋は、県庁所在地なのに、全く都会的要素はありませんから。

これを観光資源にできたらと、ちょっと嬉しい一日でした。

ハナミズキ 今年も

4月17日の、拙宅玄関前のハナミズキ。

33〜34年前、家を新築した際、地域の森林組合の掘り出し市で、たまたま売れ残っていた高さ4mほどのハナミズキを玄関前に植えました。

毎年成長し続け、すでに6mほどになり、二階の屋根の太陽光パネルに影を落とすほどになりました。

個人的には、ハナミズキの木肌は柿の木のそれに似て、ザラザラしていて好きではないのですが、アメリカのワシントン、ポトマック河畔に植えられたサクラと同じく、葉より先に花が咲くので、独特の趣があります。

コチョウランのように、花が光に透けて見える、この光景が好きです。

そろそろ、コチョウランも屋外に出せる気候になるでしょう。

そうだったのか語源㉛  -音楽用語 その1-

 特に音楽に造詣が深いわけではない。でも、とにかくクラシックが好きだ。

 拙宅のオーディオ(かつてはステレオと言った)は、特に凝ったものではない。25年ほど前に購入したLuxman L-580というプリメインアンプを、数回オーバホールしながら現在も現役で使っている。オーディオに関心のない方にはどうでもいい話である。

 ちなみにaudio=オーディオは、audience=聞き手、聴衆と同源である。

 AUDIという自動車メーカーがあるが、これもaudioと同源である。

 創設者のアウグスト・ホルヒは、社名をつける際、自分の名前であるホルヒ=Horch(ドイツ語で「聞く」の意)の同義のラテン語、Audiを使ったとされている。

 ところで、普段何気なく聞いたり使ったりしている音楽用語にも、興味深い言葉があるので、触れてみたい。

 Music=ミュージックの語源は、音楽、舞踏など芸能の神、Mousa=ムーサから。ムーサがつかさどる技芸をmousicae=ムーシケーと呼び、ここからラテン語のmusica=ムジカが派生し、ミュージックの語源となった。

 次に、「歌」は英語ではsong=ソング。

 フランス語ではchanson=シャンソン、イタリア語でcanzone=カンツォーネ、スペイン語でcansion=カンシオンとなる。

 これらは、ラテン語で「歌う」「賛美する」を意味するcanto=カントに由来するとされている。

 ちなみに、オペラや独唱で使われるベルカント唱法も、イタリア語の Bel Cantoつまり「美しい歌(歌唱)」の意味から。

 これらには共通して「はねる音」、つまり撥音(はつおん)が含まれており、語源の同一性が感じられる。

 ところで、日本語では、「うた」に「歌」「唱」「唄」「譜」「詩」「詠」「吟」等の漢字が当てられている(実際にはまだある)。

「歌」は最も広義に使われている。

「唱」は、声をあげて歌う(となえる)。

「唄」は、ことばに旋律やリズムをつけて声に出すものやその言葉を指す。

「譜」は、音楽の曲節を符号で表したもの、楽譜。

「詩」は、「唄」とほぼ同意だが、より言葉に重きを置いていると考えられる。

「詠」は、詩歌を作ること、あるいは作った詩歌。声を長く引き、節をつけて詩歌を歌う事。

「吟」は、声に出して詩や歌を歌うこと、作ること。 

 以上、かなり細かい。

 さて、クラシック音楽とはいかに。

 Wikipediaによれば、クラシック音楽(Classical Music)」という用語は19世紀までは使われていなかったらしい。その頃、J.S.バッハやベートーベンの時代の音楽を復活させようという試みがなされ、他の音楽と区別し、「古典的」を意味するクラシック(classical)という言葉が使われたそうである。ちなみに、

初めてオックスフォード英語辞典で「クラシック音楽」というものが扱われたのは1836年のことだとか。

 しかしそうだとすると、「クラシックの現代曲」というジャンル名は、その名称自体が内部矛盾している。

 そこで、こう考えてはいかがだろうか。

 クラシック音楽は、宗教音楽や声楽、器楽曲や室内楽、交響曲etc.と、いろんな様式に分類されている。そういったクラシック音楽の様式の流れをくんだ現代曲と考えれば、腑に落ちなくもない。

 他方、オックスフォード英語辞典でclassic やclassicalを引いても、class=分類、種類との関連性は見つからないものの、主観的にはまんざら無関係とは思われないのである。

 つまり、器楽曲や室内楽曲、交響曲のようにclassified=きちんと分類された音楽という意味からclassical musicになったという解釈もできるような気がするが、諸賢の見解ははいかに。

 次に、バロック音楽とは16世紀末から18世紀中頃までのヨーロッパ音楽を指す。個人的に好きなトマス・タリス、ウィリアム・バード等に代表されるルネサンス音楽と、ハイドン、モーツァルト、ベートーベンといった古典派音楽の間に位置する。バッハ、ヘンデル、テレマン、ヴィヴァルディ、パーセル等がその代表とされる。この時代に、近代的な和声法や長調、短調の体系、そして通奏低音を基本とした作曲技法が確立された。

 baroque(仏) =バロックとは、元々はポルトガル語やスペイン語のbarroco(バローコ)=ゆがんだ真珠から派生した言葉だとか。

 フランス語では、「奇妙な」「風変りな」といった意味のようである。

 現在では、荘厳で宗教的なイメージのバロック音楽が、当時は異端に感じられたというのは、なかなか興味深い。

 日本でいえば、仏教が全盛の時代にキリスト教が入ってきたような感じだろうか。

 次に、西洋音楽における歌手の声域区分について。

 まずsoprano=ソプラノ(伊)は、ラテン語の「最も高い、はなはだ上の、最も外の」という意味のsupremusから。英語のsupreme やsuperと同源である。

 alto=アルトの語源はラテン語のaltus(高い)から。

 中世の多声楽曲で、alto は基本となる声部tenore =テノールよりも高い男声の声部を指していたが、いつの間にか女声の低音域へと変化していった。

 ではそのテノールとは。

 ラテン語で「保つ」「維持する」を意味するtenere=テネレから派生して、テノールと呼ばれるようになったと言われている。

 英語のsustainable(持続可能) の動詞sustain(状態を持続させる)や、maintenance(整備)の動詞maintain(状態を維持する)などの言葉の-tainは「〜を保つ」の意味をもった接尾語で、これもテノールと同じ語源の言葉である。

 何を「保つ」のかというと、「主旋律を保つ」ことで、元々グレゴリオ聖歌の長く延ばして歌う部分を指し、その声部を担当していたからと言われている。

 baritone=バリトンは、ギリシア語の「低い音の」の意のbarytonosが語源である。初め(16世紀)はbass=バスと同義に用いられ,最も低い声部を指していたが、のちにバスと区別された。

 ちなみに英語では、スペルはbassで「ベイス」と発音する。 おそらくbase=ベース(基底、底)と同源かと思われる。

 ここまでで、かなりの誌面を費やしてしまった。

 さて話を進め、まずは馴染みの交響曲から。

 symphony=交響曲は、symとphonyから成っている。

 symはsympathy=同情、共鳴、同感のsym、phonyはphone=

音、音声の同源、つまり「交響」とは実に上手な直訳なのである。

 ちょっと難解なのが、concerto=コンチェルト(協奏曲)。

 「独奏楽器あるいは独奏楽器群とオーケストラ(管弦楽)のための楽曲」と定義されている。

 最後が-oなので、イタリア語の男性名詞だということは想像に難くない。

 が、そのイタリア語では音楽会=コンチェルト 、そして協奏曲も同じくコンチェルトと発音される 。

 ラテン語のconcertare=コンチェルターレ(音を合わせる)に由来している。つまり、コンサートと協奏曲は同源ということである。

 con-は「共に」「協-」、certoは「認識」や「決定」の意がある。

 英語のcertein=確認する、確信する と同源と思われる。

 英語では、ピアノ協奏曲はpiano concertoとイタリア語に近い表記となる。

 concertoには、「論争する、競争する」という意味もあるが、一方で「協調する」という意味もある。「独奏楽器(群)とオーケストラとのかけ合い」というのが元の意味であろう。では、音楽会のコンサートは?となるが、なかなか明快な解答が見つからない。音楽会で協奏曲がよく演奏されたため、音楽会の代名詞となったのではなかろうか。

 divertimento=ディベルティメントは、喜(嬉)遊曲と和訳されている。

 concertoと同様、英語でもイタリア語と同じスペルで、母音で終わっている。

 英語のdiversion=気晴らし、娯楽と同義で、「喜遊」の字を当てたものと考えられる。器楽組曲で、明るく軽妙で、深刻さを避けた楽曲を指す。ちなみに、医学用語でdiverticulumは憩室(消化管の一部にできた袋状の陥入)と和訳されているが、これも同源であろう。(消化管の)流れから小さな路地のように引っ込み、ほっとできるような(流れから外れた)部分という意味合いからではないだろうか。

 似たものでserenade=セレナードがあるが、こちらは小夜曲と和訳されている。前者が室内演奏用であるのに対し後者は屋外演奏用とされている。

 セレナードはもともと、男性が夜、女性のいる窓辺に向かって女性を口説くための曲であった。serenadeはラテン語のserenus=平穏な、が語源とされている。世の中が平穏でないと、こんな口説き方はできないからだろうか。

 そのうち、夜に野外で演奏される曲全般を指すようになった。

 モーツァルトのEine Kleine Nachtmusik=アイネ・クライネ・ナハトムジークK.525は、小夜曲をそのままドイツ語にしたもので、モーツァルト自身が目録に書き加えたとされている。

 nocturne=ノクターンは、夜想曲と和訳されている。夜の情緒をテーマにした叙情的な曲のジャンル。語源はラテン語のnox=ノクス(夜)から、その複数形が「ノクティス」これが英語化したものである。因みにフランス語では「ノクチュルヌ」と発音する。

 さて、ballade=バラードは譚詩曲と和訳され、その名の通り世俗の叙情歌で、詩的な側面もある。

 面白いところでは、capriccio=カプリッチョ。和訳では奇想曲。

 Wikipediaでは「形式が一定せず自由な機知に富む曲想」と解説されている。かなりアバウトな定義である。

 英語、仏語ではcaprice=カプリースと発音され、「気まぐれな」と和訳されている。 以前、イタリア人の患者に、カプリッチョとはどんな意味か尋ねてみた。彼が挙げた例として、「家に帰ってみたら子供が室内を散らかし放題にしていて驚いた、そんな感じ」と、説明してくれた。下手な英語で、「beyond expecting?」と聞き返したら「so!」と言ってくれた。現代語では「うそっ!」と言った感じだろうか。カプリッチョとは、そこまで極端ではないにしろ、「何があっても構わない曲」といったところではないだろうか。

春は名のみの—

立春を過ぎても、今年の冬はとにかく寒いです。

例年は、2月も半ばになると、時折春が来たかな?と思わせるような日があるものですが、今年は行っても気温10℃止まり、しかも昨日は降雪。

居直って、雪景色を見ながらのランチでもと、行きつけのレストランに行ってみました。

レストランの窓辺の雪景色ですが、前橋といっても赤城山の裾野にあるため、市街地に比べ、雪がしっかり積もっていました。

小さな春

先日、南岸低気圧の通過により東京でも積雪があり、交通機関に少なからぬ影響があったようです。

ここのところ寒い日が続いていましたが、冬至を過ぎた頃から、なんとなく日の入りが延びたような気がします。それだけでも少し、気持ちが前向きになります。

三箇日も今日で終わりという日の昼下がり、外で賑やかな小鳥の声がしたので急いで出てみると案の定、メジロでした。

次から次へと現れ、10羽くらいにまでなりました。メジロは動きが早く警戒心が強いのでなかなか近くに寄れないのですが、なんとか3羽一緒に撮ることができました。私にしてはラッキーでした。

良い年になると良いのですが。

そうだったのか語源㉚ -美しい日本語 その他-

美しい日本語が続くが、今回は徒然なるままに思い当たる言葉として、まずは「面影」について。

 「面」は表(おもて)で、そのままの見える顔そのものを指し、一方「影」は光の当たらない暗い部分を指す。つまり、なにか実物とは違う間接的な像、つまりそこに想像力の入り込む余地があるように思われる。これが転じて、「目の前にあるものから思い出される様子」や「記憶の中にある顔かたち」を意味するようになったと考えられる。深い言葉である。

 ちなみに、英語ではone’s face(顔について)image traceなどがその訳として当てられているが、これらの単語の中に、日本語の「面影」のような微妙な意味合いが含まれているように感じ取れないのは、私が単に英語に造詣がないためだろうか。

 日本語的に美しい言葉に「ひとしお」がある。

 もともとの状態に比べ、さらに程度が増すことを表す言葉である。

 漢字では「一入」と書くが、これは染物を一度染料に浸すことが語源とされている。染料に浸すたびに色が濃く鮮やかになっていくことから「一入」で、二回浸すことを「再入(ふたしお)」、さらに何度も浸すことを「八入(やすお)」と言うそうである。

 次は、日本語の真髄のような言葉、「ゆかしい」について。

 「ゆかし」という古語は「行かし」から来ており、「行かし」とは「そこに行ってみたい、知りたい」が本意で、心がそこに惹かれる様を表現している。現代では「奥ゆかしい」という使われ方がほとんどだが、その通り「奥まで行ってみたい、奥義まで知りたい」という意味である。全てをさらけ出しては、さらに知る由もなく興味が止まってしまう。一部分しか見せない、知らせないがためにそこに想像力が働く余地がある、これは日本画にも通じる余白の世界で、日本人ならではの感性ではないだろうか。

 西洋画は背景を含め、全て彩色する。音楽も、音符が表現するものが全てである(もちろん、解釈によって異なる部分もあるが)。それが全て、眼前の視覚、聴覚等、五感に訴えるものが全てであり、人間が感覚的に捉えたものが絶対的な真実であるという、ルネッサンス期の西洋文化の真髄たるものが凛として存在する。絶対的な真実を探求する知的好奇心がルネッサンス文化を作ったと言っても、あながち的外れではあるまい。  

 それに比べると、日本の文化はやはり根本的に違うように思える。

 以前にも触れたが、左右非対称の美、未完成の美、つまり変化、発展する余地を残した美が日本文化にはあるような気がする。余白を残し、墨の濃淡のみで情景を表現する水墨画や回遊式庭園、建築では桂離宮の美しさはまさにこの代表と言えまいか。

 次に「さりげない」という言葉について。これも、先の「ゆかし」と通じる、日本人の感性を象徴するような言葉である。

 「さりげ」は本来は「然りげ」と書き、「さ」と「ありげ」から転じた言葉で、「そのようでありそうな」「(いかにも)それらしい」という意味である。

 そこから「さりげない」は、意図を感じさせないように行う様子をいう。さらに、これといった目的を持たない、何気ない様子を表現することもある。

 最近では、意図はあるもののそれを感じさせない、あるいはそれを悟らさせない巧妙な仕草を指すようにも思える。

 さて、「よろしく」という言葉は日常的に実に多くの場面で使われ、意味も一筋縄ではいかない。これはもう、美しいというより難しい日本語の範疇に入るものであろう。この言葉は副詞だが、元となる形容詞の「よろしい」から。

 これは漢字では「宜しい」と書く。広義では「よい」だが、「結構だ」「好ましい」から、「許容できる(かまわない)」「ちょうどよい(適当だ)」「承知した」等、色々な使われ方をする。共通するのは、及第であるという概念だろうか。

 そこから派生した「よろしく」は、「適当に(うまく)」だが、人に何かを頼むときに添える言葉でもある。「◯◯さんによろしく」のように、相手に、別の人への好意をうまく伝えてもらう場合にも使われる。やや変わったところでは、上につく名詞に続けて、「いかにもそれらしく」の意味で使われることもある。

 最後の使い方以外は、「よろしい」から派生した言葉であることは理解できる。

 歌に出てくる言葉にも美しいものがある。

 「埴生の宿」の「埴生」とはこれいかに。

 「埴生」は、「埴(はに)」のある土地を指す。「埴」は「埴輪」からも想像できるように、土、あるいは粘土を指し、床も畳もなく土がむき出しになったいわば土間だけの状態で、そのような粗末な家を「埴生の宿」と表現した。「埴生の宿も我が宿、玉の装い羨(うらや)まじ」と続く。後半は、「豪華な装飾も決して羨ましくはない」という意味である。実はこの曲、イングランド民謡の「Home! Sweet Home!」(日本語訳:楽しき我が家)が原曲である。この歌詞は直訳ではなく意訳で、日本語としても美しい歌詞となっている。

「蛍の光」もスコットランド民謡「Auld Lang Syne」(スコットランド語)が原曲で、英訳では「times gone by」で、「過ぎ去りし懐かしき昔」などと和訳されている。「蛍の光」が別れの歌であるのに対し、「Auld Lang Syne」は旧友との再会を喜び、昔を懐かしむ歌詞となっている。

 さて、この「蛍の光」の歌詞は4番まであるが、一般的には2番までが歌われる。

 1番は、

「螢の光窓の雪、書(ふみ)讀む月日重ねつゝ、何時(いつ)しか年もすぎの戸を、開けてぞ今朝は、別れ行く」

 2番は、

「止まるも行くも限りとて、互(かたみ)に思ふ千萬(ちよろず)の、心の端を一言に、幸(さき)くと許(ばか)り、歌ふなり」

 1番でわかりにくいのは、「何時しか年もすぎの戸を」ではないだろうか。もっと絞れば「すぎ」の部分で、これは「いつしか年月も過ぎてしまった」と「杉の戸を開けて」の掛詞である。檜(ヒノキ)の戸では洒落にならないのである。

 2番では、「限りとて」は「今日限りである」の意、次の「互に思ふ千萬の心の端を」は「お互いを思う何千何万の気持ちを」、「幸くと許り」は「どうか無事でいてねとの思いで」となる。

 次に、「イロハニホヘト—」について。

 物事の順番を表すのに、「123—」(数詞)「abc—」(アルファベット順)、そして日本では「アイウエオ—」(50音順)「イロハニホヘト—」等がある。

 前の3つは順番として規則性を感じるが、「イロハニホヘト—」はやや異質ではないだろうか。イロハ順と言われている順番である。

 これは、平安時代末期に流行した「いろは歌」がもととなっている。「いろは歌」とは、七五を4回繰り返す歌謡形式に則り、さらに仮名一字を1回ずつ使うという制約の下で作られている。

 江戸時代までは、一般的にはイロハ順が使われていた(50音順は、主に学者らの間で使われていたそうである)。ちなみに現在では、公文書には50音順を使うことと定められている。

 イロハは音名(階名)にも当てはめられ、イタリア式表記の「Do Re Mi Fa Sol La Si」(ド レ ミ ファ ソラ シ)、英語式表記の「C D E F G A B」を日本では「ハニホヘトイロ」とした。ハ長調、ト短調といった具合に。

 さて、「イロハ—」の全文は、

「いろはにほへとちりぬるをわかよたれそつねならむうゐのおくやまけふこえてあさきゆめみしゑひもせすん」で、元歌は、

「いろはにほへど ちりぬるを わがよたれぞ つねならむ うゐのおくやま けふこえて あさきゆめみじ ゑひもせず」である。

 イロハ順は濁点を取っている。元歌を漢字を入れて表わすと、

「色は匂へど散りぬるを 我が世誰ぞ常ならむ 有為の奥山今日越えて 浅き夢見じ酔ひもせず」

 最後の「ん」は使われていない1文字を入れて、48文字とした。

 歌の意味は、

「色は匂へど散りぬるを」→「香り豊かで色鮮やかな花も、いずれは散ってしまう」

「我が世誰ぞ常ならむ」→「この世に生きる誰しもが、いつまでも変わらないことなぞない」

「有為の奥山今日越えて」→「無常で有為転変(=有為無常:常に変化しとどまるところを知らない)の迷い、その奥深い山を今乗り越えていく」

「浅き夢見じ酔ひもせず」→「悟りの世界に至ればはかない夢など見ることなく、仮想の世界に酔うこともない安らかな心境である」

となる。まるで平家物語の冒頭の「祇園精舎の鐘の声—」のようで、実に深い悟りの境地が込められている。「大乗仏教の悟りを表した歌」との解釈もある。 

 しかも、一語の重複もなく読まれていることに驚嘆するばかりで、ただ順番を表わすだけに使われるには、あまりにもったいない。 

そうだったのか語源㉙    -続々・美しい日本語-

 最近の日本列島は洪水や氾濫、鉄砲水等、水による被害が多くなっている。温暖化の象徴的な現象なのかもしれない。

 それでも、世界的にみれば水が比較的容易、安価に手に入る日本において、その源である雨について。 

 この雨には実に様々な表現があり、ある辞書によると1200ほどあるとか。

 いくつか、目についた表現を取り上げてみたい。

 気象予報でもポピュラーな「にわか雨」は、急に降り出して短時間で止む雨のことをいう。     

 では似た表現で「通り雨」とは。さっと降ってすぐに止む雨と説明されているが、にわか雨との違いは降ったり止んだりを繰り返す、つまり断続的なものが「通り雨」となっている。ちなみに気象用語ではこの表現は使われず「時雨(しぐれ)」という。

 「にわか雨」「通り雨」とも、積乱雲から突然降り出す「驟雨(しゅうう)」という雨の範疇に入る。  

 「五月雨(さみだれ)」は、旧暦の5月に降る長雨、つまり現在の梅雨を指す。

 ついでに「さみだれ式」とは、この雨のように、途中で中断を挟みながらもだらだらと続く様子を言う。 

 「土砂降り」が、大粒の雨が激しく降る、いわゆる豪雨をさすことには異論はなかろう。あとは「土砂」だが、ひとつには土砂を跳ね飛ばすような勢いからという説と、擬態語の「ドサッ」と「降る」を組み合わせたもので、「土砂」は当て字とする説がある。

 雨と雪が混ざって降るものを「みぞれ」といい、漢字では「霙」と書く。雨冠は空から降るものを表し、旁の「英」は花や花びらを意味することから、花びらのように雨よりゆっくり降ってくる様を指しているものと考えられる。

 ちなみに、「氷雨(ひさめ)」とは冬季に降る冷たい雨を指すが、雹(ひょう)や霰(あられ)といった空から降る氷の粒を指すこともある。

 霧雨(きりさめ)は文字通り、霧のような細かい雨(厳密な気象用語では雨滴の直径が0.5mm未満)を指すが、別名小糠雨(こぬかあめ)とも呼ばれる。

 さて、「夕立」は夏の午後から夕方にかけて降る激しい雨を言う。

 もともとは、雨に限らず風や波、雲などが夕方に起こることを「夕立つ(ゆうだつ)」と言い、それが名詞化したという説が有力である。

 ところで、日が照っているのに急に降り出す雨のことを「天気雨」、あるいは「狐の嫁入り」、日照雨(ひでりあめ)と言う。

 この曰くありげな「狐の嫁入り」だが、一般的には、夜の山中や川原などで無数の狐火(冬から春先にかけての夜間,野原や山間に多く見られる奇怪な火)が一列に連なって提灯行列のように見えることをいい、狐が婚礼のために提灯を灯しているという伝説がある。昔は、夜に提灯行列などがあると、それは大抵が他の土地からやって来る嫁入りの行列だったいう。一方、近所で嫁入りなどがあると、誰でも事前にそのことを知っているので、予定にない提灯行列は、狐が嫁入りの真似をして人を化かしていると言われていたようである。

 つまり、予測なしに、あるいは予測できずに降ることがこの伝説にちなんだのか、あるいは晴れているのに雨が降るという、狐につままれた様を指すのか詳細は定かではないが、根拠として全くの見当外れではあるまい。

 梅雨(つゆ)も日本らしい言葉だが、起源はどうやら中国らしい。

 梅雨は、春から夏への季節の変わり目に停滞前線(梅雨前線)の影響で雨や曇りの日が続く気象現象を言う。中国の長江下流域で梅の実が熟す頃に降る雨が語源との説が有力である。

 日本ではこの他に、梅雨に似た長雨に三つ名前がついている。

 菜種梅雨(なたねづゆ)、すすき梅雨、山茶花梅雨(さざんかづゆ)と呼ばれている。

 順に、菜種梅雨は菜の花の咲く頃の長雨を指すが、いろんな花の咲く時期と重なるので催花雨(さいかう)とも呼ばれる。日本的な美しい命名である。

 次のすすき梅雨は比較的時期の幅があり、8月下旬から10月上旬までの長雨を指す。

 すすきの季節に降る長雨という意味だが、「秋の長雨」あるいは秋霖(しゅうりん)の別名もある。

 最後の山茶花梅雨は晩秋から初冬、つまり11月下旬から12月上旬に降る長雨を言う。名の通り、山茶花の花の咲く頃の長雨の意である。名前に「花」がつくものの、この長雨は気温も下がり日も短くなる頃に降る雨で、心なしかうら寂しい響きがある。

 これらはどれも、日本的季節感のにじむ呼び名である。 

 その他、感謝を込めた雨の呼び名もある。

 慈雨、あるいは「恵みの雨」は、万物を潤し育てる雨を言う。別に「甘露の雨」の表現もある。

 「干天の慈雨」とは、日照り続きの時に降るありがたい雨の意だが、転じて、困っている時に差し伸べられる救いの手の比喩としても使われる。

 個人的には今回のメインのテーマと思っている「別れの言葉」について。

 状況を問わず、最も頻用される別れの言葉は「さようなら」。

 「然様(さよう)」は「然様でございます=そのようです、そうです」のような表現にも使用されるので、前に起きた特別なことを表現するというよりは、前提として起きたことを含めてのクッション(言葉の印象を和らげる)言葉的な意味合いで使用されることが多いようである。

 ということで、別れの挨拶である「さようなら」つまり「然様なら」は、「用事が完了したので」や、「そろそろいい区切りなので」というような意味合いで使われ、より現代的な口語に言い換えるならば、「そろそろバイバイね~」「じゃーね」的なニュアンスになるのであろう。

 いずれにしても、元になる「なら」は仮定条件として使われる言葉である。

 「じゃー」の語源である「では」も同義である。

 その意味では、「では、さようなら」は、仮定条件が重複しているので、文法的には誤りと言えよう。

 さらに、より古い表現では「さらば」があるが、これも「さ、あらば(そうであるならば)」が語源で、やはり仮定条件からの派生である。

 これらの言葉から類推するに、日本語では単刀直入な表現は「はしたない」という文化があったようで、「別れる」「帰る」という本題をはっきり表現せず、仮定条件の言葉で婉曲に表現することを好んだのではなかろうか。このような文化は、良くも悪くも日本のディベートや政治においても色濃く残っているように思う。

 これら日本語の表現に共通するのは、刹那的というか、単にその時の別れの挨拶でしかない、ということである。

 ちなみに英語では[see you again]が一般的だが、[good by]も同様に使われる。

[good by]は[Godbwye]の略語、さらに元を辿れば[God by with you]が語源、つまり、「神が汝とともにありますように」あるいは「神のご加護を」の意で、いかにもキリスト教色の濃い言葉である。

 少なくとも、先の日本語には相手の将来を慮る意があるようには思えない。

 その思いやりの意を含む日本語としては、「お元気で」や古くは「お達者で」、あるいは手紙で常用される「ご自愛ください」が使われる。また、少々上品な言葉「ご機嫌よう」も別れの言葉で、「ご機嫌よくお過ごしください」を略した言葉である。

 さらに丁寧な言葉では「ご機嫌麗しゅう」がある。これもその後に、「お過ごしください」等が続いたのが略されたものだと思われる。別れや手紙の文末に使われ、意味としては「気分良くお過ごしください」といったところか。

 似たところでは、手紙の文頭や挨拶に使われる「ご機嫌いかがですか」は、現在でも常用される相手の健康を気遣った表現である。

 さらに同様な意味を含んだ挨拶の言葉としては、一般的な「お元気ですか」の他に、「お達者」「ご健勝」や「つつが無い」という表現が使われることがある。後者は「恙無い」と書き、病気、災難などがなく日々を送っている様を言う。

 もともと「恙」の意味は、「ダニ、病気、災難」で、「ツツガムシ」とはケダニを意味する。童謡「ふるさと」にも「つつが無しや友がき」というフレーズがあるが、要するに元気で平穏無事ですか?という意味である。同様に最近ではほとんど使われない言葉に「息災」がある。

 「息災なく」や「息災でしたか」「息災でなにより」といった使われ方をする。

 現在、日常的には「無病息災」という4文字熟語での使われ方が圧倒的に多い。

 「息災」の意味は、

 1.仏の力によって災害や病気などの災いを消滅させること

 2.身にさわりのないこと。達者。無事

となっている。

 もともとは、修行する人の煩悩を取り払う仏教用語が元となっている。

 ちなみに「息」には「やむ、しずめる」の意があり、意訳すれば「災いを鎮める」となる。

 「ご機嫌麗しゅう」で使われた「麗しい」という言葉について。

 一般的には、「美しい」という言葉がこの意味で使われている。

 辞書には、

 ① (外面的に)魅力的で美しい。気品があってきれいだ。

 ② (精神的に)心あたたまるような感じだ。

 ③ きげんがよい。晴れ晴れしている。

とある。この中で、③ だけが「美しい」に置き換えるのにやや抵抗がある。

 ただ一方で、「おいしい」に「美味しい」という漢字が当てられることがある。

 ここから察するに、女子の名前で「よしこ」の漢字に「好子」や「美子」が使われるように、「美しい」にも好ましい、あるいは好感が持てるという意味合いがあり、使われる機会は多くはないものの、③ もまんざら本来の使い方から外れてはいないように思える。

 要するに、「麗しい」は「美しい」に対し、やや格調高い、あるいは古風な言葉と言えるのかもしれない。

 美しい日本語は大事にしたいものである。

霧氷

10月21日

久しぶりに半日自由な時間が取れたので、赤城山に出かけました。近くて遠きはなんとやら、数年ぶりです。中腹から鍋割に登ろうかと思い調べてみたら、登山口が駐車禁止になっていて断念、覚満淵までクルマで行き、散策してきました。

おそらく標高は1500mくらいでしょうから、平地からは15℃は低いだろうと思い、それなりの上着を持って行ったのですが、外に出た途端、あまりの寒さに手の感覚がなくなりそうでした。9:3o頃で、徐々に暖かくなるはずなのに、山頂近く木々はみるみるうちに霧氷で白くなっていきました。

そんな中、赤城大沼でボートに乗って釣りをしている人もいました。

10月だというのに、ひと足早い冬景色でした。

そうだったのか語源㉘ -美しい日本語 その2-

 前回に引き続き、続「美しい日本語」である。

 ここでいう「美しい」とは、言葉の響きから感じるものと、その成り立ちから感じるものを含め、そう表現することとする。

 まずは、陰暦(=太陰暦、日本で言う旧暦)の月の名称について。これを和風月名と言う。英語でいうJanuary February etc.に当たる。

 現在では1月から12月まで数字を当てているが、これはいわゆる序数なので当然覚えやすいが、数字自体に意味はないし当然季節感は希薄である。

 和風月名は、旧暦の季節や行事に合わせたもので、現在の季節感とは1、2ヶ月ほどずれがあるものの、やはり風情がある。

旧暦の月和風月名由来
1月睦月(むつき)正月に親類一同が集まる、睦び(親しくする)の月。「始まる・元になる月」である「元月(もとつき)」が転じて「むつき」になったとの説も。
2月如月(きさらぎ)衣更着(きさらぎ)とも書き、寒さが残っていて、衣を重ね着する(更に着る)月。
3月弥生(やよい)木草弥生い茂る(きくさいやおいしげる)から、草木が生い茂る月。
4月卯月(うづき)卯の花(うつぎの花)の月。稲を植える月(植月)から転じたとの説も。
5月皐月(さつき)早月(さつき)とも言う。早苗(さなえ)を植える月。
6月水無月(みなつき)水の月(「無」は「の」を意味する)で、田に水を引く月の意と言われる。梅雨が明け、水がないことからという説も
7月文月(ふづき、ふみつき)稲の穂が膨らむ月(穂含月:ほふみづき)から。
8月葉月(はづき)秋になり木々の葉が落ちることから。葉落ち月(はおちづき)とも。
9月長月(ながつき)秋の夜長から。夜長月(よながづき)とも。雨が多く降ることから長雨月から転じたとの説も。
10月神無月(かみなづき、かんなづき)神の月(「無」は「の」を意味する)の意味。全国の神々が出雲大社に集まり、各地の神々が留守になる月という説なども。
11月霜月(しもつき)霜の降る月。神無月を「上の月」とし、これに対し「下の月」との説も。
12月師走(しわす)御師(僧侶)といえども趨走(すうそう、走り回る)する月。「年が果てる」から「年果つ」→「しわす」に転じたとの説も。

 次に「節句」について。 「節」も「句」も時間の区切りを表す。

 そもそも節句とは、中国から伝わった暦の上での風習を、稲作を中心とした日本人の生活に合わせて取り入れたものと言われている。

 江戸時代に、幕府が公的な行事として定めたのが五節句といわれるもので、

1月7日の人日(じんじつ)、3月3日の上巳(じょうし、あるいはじょうみ)、

5月5日の端午(たんご)、7月7日の七夕(たなばた)、そして9月9日の重陽(ちょうよう)と呼ばれるものである。

 いずれも、奇数が重なる日が制定されているのは、シリーズ㉖で述べているように、奇数=陽という発想に起因していると考えられる。

 現在は、桃の節句と端午の節句のみが一般的な風習、あるいは季語として残っている。

 節句に共通しているのは、その季節に合ったものを神様に供え、それを家族や地域の人々で分かち合うというもので、ひとつの文化であった。

 神様への供え物は「節供(せっく)」といわれ、いつしか一区切りという意味で節と重ねて「節句」の字があてられるようになり、節目の日という意味に変化した。節句だけでも話し始めるときりがなく、節句とは矛盾するように一区切りがつかなくなる。

 話は変わり、

『ひさかたのひかりのどけき春の日に しづ心なく花の散るらむ』

という、百人一首に収録されている紀友則が詠んだ、あまりに有名な一首がある。日本人ゆえか、個人的にとても好きな句である。

 この句の最も簡潔明瞭な現代語訳としては、

「こんなに日の光がのどかに射している春の日に、なぜ桜の花は落ち着かなげに散っているのだろうか。」

 ちなみに、「ひさかたの」は日、月、空(すべて光に関わる)にかかる枕詞で、特段の意味はない(元々はあったはずだが)。

 人生を謳歌するようなときなのに、同時にそのはかなさを歌った、日本人的哀愁を感じさせる名歌である。

 この句全体に漂う明るさ、軽快さは、五句のうち四句が「は行」で始まるためと言われている。「h」は、構音でいうと無声音の摩擦音に分類される。破裂音と違い、空気が抜ける発音なので、聴覚的には軽い音に感じる。「は行」の発音のないフランス人には理解できないかもしれない。

 以上触れただけでも、美しい日本語としては、やはり季節感が表現されたものが圧倒的に多い。

 引き続き、季節に関するものを挙げてみたい。

 今後、地球温暖化の影響で、過ごしやすい春と秋が短くなると予想されている。そして、集中豪雨や大雪、突風、猛烈台風といった荒れた天気が多くなるという。深刻な環境変化ではあるが、ここではひとまず横に置くとしよう。

 四季のはっきりした日本ならではの季節感と、ここに暮らす人々の感性とは切っても切れない。二十四節気は次の通りである。

 春:立春 雨水 啓蟄 春分 清明 穀雨

 夏:立夏 小満 芒種 夏至 小暑 大暑

 秋:立秋 処暑 白露 秋分 寒露 霜降

 冬:立冬 小雪 大雪 冬至 小寒 大寒 

 気温、湿度、光、水、穀物にまつわるものが多いが、昆虫に由来するものもあり、興味深い。個々の成り立ちについてはここでは割愛するが、なるほどと思わせる名称ばかりである。

 1年は12ヶ月、二十四節気ということは、その半分のいわば2週間毎の気象の変化、動植物の変化や兆しを表現しており、それを感じ取る日本人の感性の豊かさの象徴と言える。一方で、それなくしては生業である農業もままならず、農耕の目安として人々の暮らしが深く関わっていたとも言える。

 さて、季節といえばまずは風。

 日本で、風を表現する言葉は凡そ2000種類あるそうな。

 これほど多彩な風が存在するのは、日本列島の位置や地形と深く関係する。

 亜熱帯から温帯、そして亜寒帯に位置する日本列島は、南北で気候や温度差が大きく異なる。また、ユーラシア大陸の東に位置するため、季節の変わり目の温度差が大きく、温帯低気圧が発生しやすい。また、大陸の高気圧や南太平洋に発生する熱帯低気圧の影響も受けやすい。さらに、列島の中央に走る脊梁(背骨の意)山脈が列島を東西、あるいは南北に分断し、日本海側と太平洋側で、同じ国とは思えないほどの気候の違いをもたらす。

 まず台風について。

 明治時代に、英語のtyphoon=タイフーンに「颱風」という漢字を当てたらしい。その後、颱を略して台とし、台風と書くようになったと言われている。

 一方で,英語の「typhoon」は中国から入ったという説が有力のようだ。研究社「新英和大辞典」第六版 (2002年) に,「英語の typhoon は中国語広東方言の tai fung (大風) から派生した語である」と書かれている。

 かつては、「野分」「大山嵐(おおやまじ)」と呼ばれた。

 「野分」は、「のわき」あるいは「のわけ」と読み、台風、あるいはその余波の風、また,秋から初冬にかけて吹く強い風を指す。野原を分けるように吹く強い風という意味からだ。ちなみに、「地震、雷、火事、おやじ」の「おやじ」は、「おおやまじ」が転じたものと言われている。

 一方「木枯らし」は、木を吹き枯らす風の意から、初冬に吹く強い季節風を指す。 

 遅い台風と早めの木枯らしは時期こそかぶるものの、熱帯低気圧が発達した台風に対し、木枯らしは大陸の高気圧から吹き下ろす風で、成り立ちは全く異なる。

 東風(こち)は、菅原道真が詠んだ和歌、

「東風吹かば にほひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」

で、市民権を得ているのではなかろうか。

 それにしてもこの和歌は、京から太宰府に左遷された道真の思いと地理的関係を明確に表現していることがとても興味深い。

 さて、東風(こち)とは「小風」のことであるという。

 春風のやわらかなイメージが「小(こ)」という文字で表現されているそうである。

 なお、古典文学では、小風(こち)のように、「風」に「ち」の音を当てる例が見られる。例えば、清少納言『枕草子』「名おそろしきもの」では、「疾風(はやて)」を「ハヤチ」と表している。

 その他、東(ひがし)の語源「日向かち=ヒムカチ」の上略形「カチ」が「コチ」となり、東の風を意味する「コチカゼ(東風)」がさらに省略されて東風=コチとなったとの説もある。

 ついでに、東(ひがし)の語源については、太陽が登る方角という意味の「日向かし」(ヒムカシ)説が有力である。

 南風は「はえ」と読むが、主に西日本に伝わる言葉で、梅雨入りのころに吹くものを「黒南風(くろはえ)」、梅雨の半ばに吹くものを「荒南風(あらはえ)」、梅雨明けに吹くものを「白南風(しろはえ)」と言うそうである。

 奄美・琉球地方の南の読み、(はえ)が語源のようで、全国に伝わる民謡「ハイヤ節」や「あいや節」の語源とも言われている。

 ちなみに西風は「ならい」とも呼ぶが、地方によっては北風の意もある。

 北風は「乾風(あなじ)」と呼ばれる。特に、北日本の日本海側で吹く北風を(たま)あるいは(たば)と言う。

 風に関わる言葉で「秋波を送る」「秋風が立つ」というのがある。

 まずは「秋波(しゅうは)を送る」について。

 「相手の気を惹こうとする、相手の関心を惹こうとする」といった意味で使われる。

 もともとは中国語に由来し、秋波とは秋の水面に立つ波を指す。空気の澄んだ秋に、水面を吹く風がわずかな波を起こし、その様子が涼やかであることから、涼やかな女性の目元を形容する表現となった。そこから「秋波を送る」は、女性が男性に対し「流し目をする」「色目を使う」となった。ちなみに最近では、男女に限らず政治的な駆け引きでも使われるようになった。

 次の「秋風(あきかぜ)が立つ」は、男女間の愛情がさめることのたとえで、一説では「秋」と「飽き」をかけた洒落と言われている。ただ個人的には、夏のように熱かった男女の情愛が、秋風が吹くように冷めていく様子を表現しているように思えるが、諸賢の見解はいかがだろうか。

 季節に無関係とは言えない個人的なエピソードをひとつ。

 私が子供の頃、つまり60年近く昔のことだが、近所のおばあさんが夏の暑い時分、「水菓子をどうぞ」といって、梨を出してくれたのを今でも思い出す。果物を「水菓子」と言ったのだが、今で思うと、水分の多い梨はまさに水菓子で、当時まだ砂糖や冷蔵庫が贅沢品であったことを思うと、子供心に「果物」よりも「水菓子」のほうが甘さと涼しさを連想させ、より美味しそうに思えた。

 こういった美しい言葉はぜひ残して欲しいものである。