朝焼け

8月下旬は、西日本では猛暑酷暑が続き、東日本は前線の影響で雨の多い不安定な天候が続いています。

そんな中、28日の朝5時頃、空が真っ赤に染まっていました。こんな鮮やかな朝焼けは久しぶりです。

朝焼けは天気が崩れる前兆、御多分に洩れずこの日の天気はスッキリしませんでした。

そうだったのか語源㊵ 東北地方 福島県

 東北地方では最南部に位置する福島県について。

 まずは福島の地名だが、英訳すればhappy islandとなるから縁起の良い名前である。

 福島県の名は、県庁所在地だった「福島町」が由来とされている。

 ところがこの「福島」という地名の由来ははっきりせず、いくつか説がある。

 一つは、阿武隈川沿いの水田地帯に「島」と呼ばれる集落があり、それに縁起の良い「福」を付けたという説。

 もう一つは、城を移した木村吉清が、現在の県庁付近の城を「福島城」と名づけたことから広まったという説。

 双方とも説得力という点では今ひとつだが、「福」というめでたい字を好んで使ったという時代背景があったのかもしれない。

 しかしこれだけでは、読者は到底納得すまい。

 ちなみに「島」がつく都道府県は、福島県の他に島根県、広島県、徳島県、鹿児島県の計5県がある。個人的感覚では、福島県以外は海に面している部分が多く、「島」がつくことにさほどの違和感はない。

 「島」はもちろん本来は水に囲まれた陸地を表す漢字だが、日本では次のように、少し広く地形イメージとしても使われてきた。

・川や湖に突き出た土地、砂州などに「~島」と名付ける(ex.島根)

・たくさんの小さな陸地が集まるデルタ地帯を、島々になぞらえて呼ぶ(ex.広島)

・海に面した半島や岬に「島」の字を含む地名をつける(ex.鹿児島)

 しかし、福島県は海に面しているのは東側のいわゆる浜通りだけで、しかも全体的に平坦である。

 合点がいかず、かなり突っ込んで検索したところ、なるほどという説に出会った。これこそ、語源研究の醍醐味である。

 福島県の資料では、現在の福島市中心部付近にあった湖と信夫山(しのぶやま)に由来する「吹島」という古い呼び名があったと紹介されている。そこから、

・信夫山を「浮かぶ島」のように見立てて「浮島」あるいは「吹島」と呼んだ

・吾妻おろしの強い風が吹きつけるので「吹く島」→「吹島」と呼んだ

 確かに、信夫山の画像を詮索すると、福島盆地から浮き上がる島のように見える。

 おそらく、これが「島」の語源ではないだろうか。

 その後、縁起をよくするために「吹」を「福」にあらため、「福島」という漢字が使われるようになったとしてもスジが通る。

 次に郡山。

 郡山という地名は、古代の行政区画である「郡(こおり)」の役所が置かれた「郡のある山、丘陵地」を意味する地形や機能から由来した呼び名とされている。

 したがってこの名称は大和郡山等全国にある。

 さて、福島県は、気象予報では浜通り、中通り、会津と分けられる。

 その会津について。

 実は会津地方の面積は広大で、愛知県や千葉県の県全体の面積より大きい。

 『古事記』によれば、古くは相津と書いたという。崇神天皇の時代、四道将軍大毘古命と建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)の親子が、ここで合流したことに由来する。

 次に白河。

 「白河」は本来「白い川」を意味し、それが周辺一帯の地名へ転じたとされ、奈良時代の文献にも出てくる古い地名である。

 「白い川」とは、川の水の清らかさ、あるいは川底の砂礫の白さを表現するというのが一般的。

 さて、私が学生時代を過ごした仙台のある宮城県には河北新報という地方紙がある。

 河北新報の名称は、明治期に東北地方が「白河以北一山百文」と軽んじられていたことへの反発から、「北の川=白河より北」を意味する「河北」と名付け、東北の誇りを示したものとされている。

 これまで幾度となく触れてきたが、古くより日本には征夷大将軍の名前が示すように、北海道、東北は蝦夷(えみし)、九州では熊襲、隼人として、征服すべき対象、あるいは属国扱いしてきた歴史がある。

 ちなみに、東京都江東区にある清澄白河(きよすみしらかわ)の名前は、この福島県の白河に由来する。この地域にある霊厳寺(れいがんじ)に白河藩主・松平定信の墓所があることに因んでいる。松平定信は「寛政の改革」で、江戸の困窮者を救済するため、「七分積金(しちぶつみきん)」という積立制度を創設し、その結果、明治維新後の混乱の中、公共事業を通じて東京の住民の生活を支えた。その時に、七分積金の使途を任された渋沢栄一が定信の功績に敬意を表し、この地に白河の名を残したとされている。

 次に、猪苗代湖の猪苗代について。

 苗代は農業国日本人にはおおよそ理解できる。が、その前に「猪」がつく。

 調べてみると、諸説ある。

 ひとつは、磐椅明神が昔、野猪(のじし)に苗代を耕作させたという言い伝えから。

 さらに、イナワシロはアイヌ語だという説などがある。東北地方南部といえどもやはりここまでアイヌの影響が感じられる。

 さて、阿武隈川の阿武隈について。

 この名も平安時代から使われた地名だが、当時の説明に関する確実な史料は少ない。したがって、後の研究者の推定に頼ることになる。

 平安時代には「あふくまがわ」としてのその名が出ているが、漢字表記では「安福麻」「合曲」「遇隅」等が当てられた(地名では、後に当て字として漢字表記が行われる場合が多い)。

 もし「隈」の字に意味があるとすれば、川の蛇行や曲がりを表しているのではないかという説がある。その他、古語の音の変化で説明する説、古い民族語に由来するという説、そしてアイヌ語によるという等がある。

 次に相馬市の相馬について。

 千葉氏第3代当主千葉常胤が下総国(現在の茨城県と千葉県)を支配下に治め、相馬御厨(そうまみくりや:相馬郡にあった伊勢神宮の荘園)を次男の師常に与え、これが相馬師常と名乗った。ちなみに御厨とは、神に供える食物を調理するところを指す。

 相馬義胤(陸奥相馬氏第2代当主)が軍功によって陸奥国行方郡(現在の福島県相馬郡)に地頭職を得、11代目の相馬重胤が行方郡に土着した。

 相馬氏の支配は、鎌倉時代から江戸時代末期まで続いた。

 ところで、相馬には有名な「相馬 野馬追祭り」があるので、個人的には相馬と野馬の「馬」の関係に興味が湧く。

 「野馬追」の始まりは、平安時代中期、平将門(相馬小次郎)が下総国葛飾郡小金ヶ原(現在の千葉県松戸・流山付近)の牧場で野馬を捕らえて、御神馬(ごしんめ)として神前に奉納したことが由来とされている。

 江戸時代になると、第16代当主相馬利胤が居城を中村城(現在の相馬中村神社)に移し、以降明治時代になるまで相馬氏の居城となった。

 第19代当主相馬忠胤は、断続的に馬を放ってきた原野に牧場を整備し、そこで野馬追を行うことにした。これが野馬追として現在まで引き継がれている。

 残念ながら、相馬と野馬の「馬」は単なる偶然と考えられる。

 いわき市について。

 奈良時代には「石城」とも書かれ、「いわき」の名はかなり古い時代から使われていたようである。時代により、石城、岩城、磐城といった表記がある。

 戦国時代には、岩城常隆が飯野平城を築き、この地域の政治と経済の中心となった。

 関ヶ原の戦いの後、徳川家康の命を受けた鳥居忠政が1602年に磐城平城を築いたとされる。

 ちなみにこれは、仙台の伊達氏への備えでもあった。

 ところで私の中学時代には、社会科の教科書に本州最大の炭田として常磐炭田(炭鉱)の記載があった。日本の近代化や戦後復興を支えたと説明されていたのを思い出す。

 なおこの炭鉱の坑道から温泉が湧き出し、当時炭鉱の労働者を悩ませたが、後にこの温泉を利用し、保養施設、常磐ハワイアンセンター(現・スパリゾートハワイアンズ)が建設され、一世を風靡した。

 現在のいわき市は1966年の合併でできた新しい市名である。

 その際、古い地名の流れを残しつつ、特定の旧市名に見えないよう、漢字ではなくひらがなの「いわき」が採用されたとのこと。

 その他、個人的に気になる地名について。

 勿来(なこそ)は前出のいわき市南部の地名で、常陸国と陸奥国の境にあった古代の関所跡「勿来関(なこそのせき)」を指すことが多い。

 白河の関、念珠ヶ関と並ぶ「奥州三関」の一つとされる古い関所である。

 意味としては、古文でよく引用される、動詞の前後に「な」「そ」を置いて禁止をあらわす「な来そ」、つまり来る勿れ(来てはいけない、来ないでください)と説明される。

 では、何に対して「勿来」なのか。

 よく言われるのが、「蝦夷よ来る勿れ」である(実は私もそう思い込んでいた)。

 しかし、関に関する古文献にも「蝦夷よ来る勿れ」との記録は見られない。 和歌や随筆にも「蝦夷よ来る勿れ」の意味での引用は全く表れない。

 また複数の地方史関係者が、

「暴れる蝦夷がいわきにいなかったのに、蝦夷よ来る勿れ という意味のなこそを和歌に詠うのはおかしいではないか。なこそはもっと北方なはず」と力説している。

 現在では、勿来の地名の由来は、本来の勿来の意味ではないと考えられている。

 「勿来」は古くは「武来」「武久」とも書かれていた。

 「武来」は「武者が来る」という意味の地名で、平安時代に武者が集まった地であったことに由来するとされている。

 他の説として、「勿来」は「武久」から転訛したもので、「武久」の語源は不明だが、人名に由来するものではないか、というもの。

 なんだかスッキリとはしないが、少なくとも蝦夷に対しての「来るな」でないことだけは確かなようである。

 最後に三春町。

 福島県中通り中部に位置し、田村郡に属する町。

 「三春」という名の由来は、梅・桃・桜の花が一度に咲き誇り「三つの春が同時に来る」ということからその名がついたとされている。 

 特に桜は、日本三大桜のひとつとして名高い「三春滝桜」をはじめ、町指定の天然記念物「大桜」や「八十内かもん桜」などもそれぞれに圧倒的な美しさを誇っている。

 私が仙台で学生時代を過ごした頃、梅、桃、桜の開花時期が関東に比べ近寄っていた記憶がある。

 東北では、冬から春、秋から冬の変化がシグモイドカーブのようにやってくる。

 それが東北地方の風情なのかもしれない。

 長く寒い冬からやっと解放され、市民はゴザを持って花見会、そして晩秋にはその開放感の終焉を惜しむようにゴザを持って川原で芋煮会、そしてその後の長い冬に備える、それ故東北地方には三春の季節感がある。

白駒の池

7月19日10時頃、長野県蓼科の白駒の池を訪れました。が、駐車場がいっぱいで入山を断念しました。そんなに人気のスポットなのかと、改めて事前の情報収集の甘さを実感しました。

リゾートホテルを一泊で予約していたので、翌7月20日早朝5:00にホテルを出て30分かけて駐車場に辿り着きました。

数台の車はありましたが、この時間帯は駐車にもかなり自由度がありました。

結果論ですが、ここは早朝がベストです。

まず、人が少ない、涼しい(寒い)、植物が朝露に濡れていてみずみずしい、陽光が斜め横からさしていて写真を撮る側からすると撮影スポットが多い等々。

稚拙ながら3枚を挙げてみました。

常緑樹、落葉樹の背が高いためか、地表に光が届きにくく、苔類の繁茂が尋常ではなく、例えるならジブリの「ラピュタ」の天空の城、あの風情です。

昨今地球温暖化で、人間にとっては生活しにくい気候になってしまいましたが、束の間の静寂を求めて行ってみてはいかがでしょうか。

温暖化傾向に即効的な手段はないでしょうが、今後10年20年先を考える時、この自然にそのヒントがあるかもしれません。

プルメリアその後

梅雨明け、となりました。

例のプルメリアですが、ちょっとピンぼけですがこのくらいにまで咲き誇りました。

クリニックの玄関で咲いていますが、香りは強く、ちょうどバニラとユリをブレンドしたような香りが漂っています。

来年も咲いてくれたらいいなと、咲いている花を前に今から1年後に思いを馳せています。

アガパンサスとプルメリア(その後)

お向かいの家の畑で、夏を告げる花アガパンサスが見頃を迎えました。別名ムラサキクンシラン(紫君子蘭)とも呼ばれ、その名にたがわず、雄大で見事な花を咲かせます。

もうじき、梅雨明けでしょうか。

もうひとつは先日から経過をお伝えしているプルメリアです。

南国を連想させるバニラのような、甘い香りを漂わせています。

爛漫というより、次から次に咲いてはツバキのようにぽとんと花を落とします。

プルメリア、伊予柑 その後

前回から3週間後のプルメリアと伊予柑。

プルメリアは期待通り、開花しました。ユリの花のような妖艶な香りを漂わせています。まだ残りの蕾もたくさんありますから、爛漫を楽しみにしています。

一方の伊予柑も果実がかなり大きくなりました。途中で落ちないよう、願うばかりです。

梅雨ももう半ば。今年は梅雨の晴れ間が少ないように思います。

プルメリア

5年前にいただいたプルメリア。

いただいた時は、黄色い可憐な花が咲いていましたが、それ以来葉は出すものの花は全く咲きませんでした。

ところが今年は気がついてみると、写真のようにこれまでとは違う芽が出て来ました。

花芽ではないかと今から期待しています。

伊予柑

昨年の春に鉢植えにした伊予柑が、5月に花をつけ、今日は直径1cmほどの実になりました。

鉢が10号ほどなので栄養が十分行き渡るか心配ですが、どうか落ちずに実って欲しいものです。

今日、関東地方も梅雨入りしました。

この先一週間も、曇りや雨の予報です。

今年もモッコウバラ満開

クリスマスローズが種房をつけ始めたら、今度はモッコウバラが満開になりました。

スタッフ用の駐車場からの眺めです。

実は、このフェンスで咲いていたモッコウバラは、5、6年前に原因不明の枯死に見舞われました。

今咲いているものは、その後小さな苗を植え替えたものです。

数年で、ここまで復活しました。

木々も時の経過で変化します。

白いハナミズキは元気ですが、その右の赤いほうはちょっと勢いがありません。

植物は自ら環境を選べず、移動もできませんから、置かれた場所で生きるしかありません。それに耐えられないものは衰え、さらには枯れてしまうしかありません。

無常を感じます。

そうだったのか語源㊴  東北地方 宮城県

学生時代を過ごした私の第二の故郷、仙台市のある宮城県。東北地方では最大の県人口である。

 明治時代、廃藩置県で仙台藩は仙台県となったが、かつての朝敵を連想させるとして宮城県となった。「宮城」の名は、当時仙台城があった宮城郡からとった。つまり「宮城」とは仙台城を指している。

 「仙台」の名の由来については、すでに日本の地名で触れているので、ここでは簡単に。

 天正(1573-1592)までは「千代」と書いて「せんだい」と呼んでいた。これは、仙台市太白区大満寺に安置されている千体仏に由来すると言われている。

 ちなみに仙台平野は、昔から洪水や津波の被害の多い土地だった。

 その後、伊達政宗が青葉山に仙台城を作り、その城下町を開いてその地を仙台(旧字では「仙臺」)とした。

 「仙臺」とは、古代中国の首都長安の西にある仙人が住むとされている山のことで、理想郷という意味が込められている。中国・唐の詩人である韓翃(かんゆう)の七言律詩「同題仙遊観」の冒頭句「仙臺初見五城楼」から採られたと言われている。文化的教養のあった政宗の、洒落た当て字といったところか。

 仙台市には、青葉区をはじめ「青葉」がつく地名が多いが、仙台城のある丘陵一帯が青葉山と呼ばれ、城ものちに青葉城と称されるようになった。ちなみに拙院青葉歯科医院の名も、私が青年時代を過ごしたノスタルジーから「青葉」を拝借したものである。

 仙台市の町名にも、由緒ありそうなものが多い。いくつか、取り上げてみたい。

 青葉区支倉(はせくら)町は、慶長遣欧使節としてローマに渡った伊達政宗の家臣、支倉常長に由来する。

 青葉区角五郎丁(私の学生時代には「丁」はなかった)。

 丁名は、一説にはその昔、川を渡る舟を差配して人気を集めた農民の角五郎にあやかったというもの(角五郎舟場が地名になった)、他には、川の蛇行によりその土地が角のように曲がった形をしているからというもの。ただし後者の説では、「五郎」の説明がつかず説得力に欠ける。

 青葉区柏木は、1970年の住居表示実施で新設された町名だそうである。源氏物語にも出てくる由緒ありそうな町名だ。まだ町名ができて間もなかった頃、私はそこに4年間住んでいたが、その頃は、星稜町という医療系の学区に接した落ち着いた町並みだった。今でもそうであってほしい。

 さて、町名案として「表町」「支倉町」「住吉町」「柏木町」の4つが浮上した末、住民アンケートによって「柏木」と命名されたそうである。

 その他、珍しい地名として「霊屋下」がある。「おたまやした」と読む。

 「霊屋(おたまや)」とは、伊達家三代(政宗、忠宗、綱宗)の霊廟が造営された御霊屋(おたまや)に由来し、その下に位置することからこの地名になった。「御霊屋」は、時代とともに「御」の字が省かれるようになった。

 次に、仙台の周辺に目を移すと、名取市がある。実は、仙台空港は仙台市ではなく隣接する名取市内にある。

 何やら由緒ありそうな地名だが、芸道で一定の技芸を認められた際につけられる「名取」とは全く関係がない。

 7世紀末から8世紀に、市の名前の由来となる「名取郡」の名称が文献に初めて登場した。

 この地には名取川が流れ、古来より湿地が多く、アイヌ語で湿地を意味する「ニタトル」に由来し、それが訛って「ニトリ」に、さらにそれが「ナトリ」となったとされている。

 塩竈市について。

 漢字表記で「塩竈」と「塩釜」とがあるが、塩竈市役所で作成する公文書においては、「塩竈」を使用することになっているそう。小中学生には難しい漢字である。

「しおがま」という地名は「塩竈」「塩釜」「鹽竈」「鹽釜」と様々に表記されてきた。市は、1941年の市制施行より表記を「塩竈」に統一しているが、「竈」に代えて「釜」を用いた「塩釜」の使用も認められている。

 地名としては、国府津(こうづ、国府の港の意味)とも呼ばれたが、塩竈神社が陸奥国の総鎮守として信仰を集めるようになり、「塩竈」の名が定着した。

 「塩」と「鹽」は新字体と旧字体で字義が同じである一方、「釜」はナベカマの「かま」を意味し、「竈」は釜を乗せる「かまど」を意味するため、こちらは字義が異なる。

 結果、市名が鹽竈神社の社号に由来することから、市は「竈」を使い、「鹽」を常用漢字の字体に置き換えた「塩竈」を市名の表記とした。地名の由来はあくまで塩を作る竈なのである。

 多賀城市について。

 645年の大化の改新を契機として、当時の朝廷は律令(りつりょう)という法律を基に、全国を「国・郡・里」という行政単位で土地と人々を直接支配し、税を納めさせた。東北北部の人々はそれに従わず、蝦夷(エミシ)と呼ばれていた。かつて北海道を意味した蝦夷(えぞ)と同意である。

 古代中国で、中華に対して四方に居住していた異民族に対する総称=蔑称と通じている。

 今流行りの、America  Firstや中華思想といったところか。悲しいかな、人間の精神性は古代とさほど変わっていない。

 その蔑称とは、東夷(とうい)、北狄(ほくてき)、西夷(せいい)あるいは 西戎(せいじゅう)、南蛮である。

 797年に坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)が征夷大将軍となるが、この征夷とは蝦夷を討つという意味である。

 蝦夷を統治するためにまず築かれた「城柵」が多賀城(たがのき、現在は((たがじょう)))、続いて胆沢城(いさわのき)、さらに北上して志波城(しわのき)が築かれた。

 県内第二の人口を誇る石巻市。

 名前の由来は諸説あるが代表的なものを挙げてみる。

 伊寺水門由来説は、この地がかつての伊寺水門にあたり、石巻は伊寺の牧つまり放牧地であったことから「伊寺の牧」から転化したというもの。

 アイヌ語由来説では、サケマスの収穫の多いところを意味するイソ・マシュキニ」、あるいは岬の開けたところを意味する「エサン・マッケ」が転じたものとされている。

 次に気仙沼。

 アイヌ語由来の説としては、南端にある入り江、あるいは湾内の奥を意味する「ケセモイ」、あるいはアイヌの勢力の及ぶはずれの港の意の「ケセムイ」から転化したというもの。

 次に日本語由来説。

 古代の気仙郡からというもので、「気仙」とは岩手県の大船渡市、住田町、陸前高田市、そして宮城県の気仙沼市の辺りを表す地名で、今でも地元では「気仙地方」というそうである。

 ではその「気仙」とは。

 ちなみに、茨城県の「鹿島」という地名は、船着場の意の「かせ」から派生した「かせ間」が語源とされている。気仙沼も同様、「カセ間」の訛りからという説もある。

 その他、「ケセ」は「削り」を「背負う」の意味で岩磯、つまりリアス式海岸を意味するという説。その他、漢語が起源という説では、海道の入り口という意味の「滊先」(日本語読み:ケセン)に当て字をしたというものがある。淡水と海水の混じり合った水を「汽水」というので、この説も納得できる。その他、まだ諸説あるが割愛する。

 温泉で有名な作並と遠刈田、そして鳴子。

 作並は、古くから「仙台の奥座敷」と呼ばれてきた。

 名前の由来の第一。

 作並は、仙台を流れる広瀬川の上流に沿って発展した温泉地だが、急流のため川面にたつ波から「作られる波=作並」、あるいは「狭い谷間の波がたつ川」から「狭波」→「作並」となったという説。

 第二の説は開拓に由来するもの。

 山間を開拓し、田畑を作りながら集落を並べていったことから「作並」と呼ばれたというもの。

 次に、宿場町に由来する説。

 関山海道の宿場町として、家々が並ぶ様子が地名になったという。

 遠刈田は「とおがった」と読むが、「遠かった」を仙台弁で発音すると遠刈田の発音になる。

 「刈田」という地名は、宮城県内に複数ある。もともと古代の行政区画に由来するもので、「狩りをする田」あるいは「開墾された田」を意味すると言われている。白石城下から見て、遠くにあった「刈田」という意味と考えられる。

 続いてまた温泉の鳴子町。

 鳴子の名の由来には有力な説が二つ。

 一つは、承和4年(837年)の火山の噴火で、その時の振動の轟音を「鳴声(なるごえ)」と呼んだことによるというもの。

 もう一つは、源義経の正室である郷御前が出産した後、その稚児を弁慶が笈(おい)に入れて移動した際、この地で初めて泣いたため、「啼児(なきご)」から転じたというもの。

 まだ触れたい地名は数々あるも、最後に登米市を取り上げとりあえず区切りをつけたい。

 古くは登米町、その後町村合併して登米市となった。

 市名の読みは登米市(とめし)であるが、市内の登米町は(とよままち)と読み、古くから米の名産地として知られる。

 奈良時代以前から、この地には「遠山(とおやま)村」という村があり、これが「登米(とよま)」の語源とされている。

 地名の由来には諸説ある。

 「米」由来では、この地から米を船に載せて江戸へ運んだことから「米が登る」つまり登米となったという説。

 また「遠」由来では、アイヌ語の「トオイマイ」や「遠山」に由来するという説。

 その他、国語学者の大槻文彦氏は『復軒雑纂』の中で、「続日本紀」に登場する陸奥国遠山村がのちの登米郡の地であろうと記している。遠山は「とよま」と転訛し、アイヌ語の当て字である可能性があるとも。

 改めて語源は実に奥深く、好奇心をそそる。