
東北地方では最南部に位置する福島県について。
まずは福島の地名だが、英訳すればhappy islandとなるから縁起の良い名前である。
福島県の名は、県庁所在地だった「福島町」が由来とされている。
ところがこの「福島」という地名の由来ははっきりせず、いくつか説がある。
一つは、阿武隈川沿いの水田地帯に「島」と呼ばれる集落があり、それに縁起の良い「福」を付けたという説。
もう一つは、城を移した木村吉清が、現在の県庁付近の城を「福島城」と名づけたことから広まったという説。
双方とも説得力という点では今ひとつだが、「福」というめでたい字を好んで使ったという時代背景があったのかもしれない。
しかしこれだけでは、読者は到底納得すまい。
ちなみに「島」がつく都道府県は、福島県の他に島根県、広島県、徳島県、鹿児島県の計5県がある。個人的感覚では、福島県以外は海に面している部分が多く、「島」がつくことにさほどの違和感はない。
「島」はもちろん本来は水に囲まれた陸地を表す漢字だが、日本では次のように、少し広く地形イメージとしても使われてきた。
・川や湖に突き出た土地、砂州などに「~島」と名付ける(ex.島根)
・たくさんの小さな陸地が集まるデルタ地帯を、島々になぞらえて呼ぶ(ex.広島)
・海に面した半島や岬に「島」の字を含む地名をつける(ex.鹿児島)
しかし、福島県は海に面しているのは東側のいわゆる浜通りだけで、しかも全体的に平坦である。
合点がいかず、かなり突っ込んで検索したところ、なるほどという説に出会った。これこそ、語源研究の醍醐味である。
福島県の資料では、現在の福島市中心部付近にあった湖と信夫山(しのぶやま)に由来する「吹島」という古い呼び名があったと紹介されている。そこから、
・信夫山を「浮かぶ島」のように見立てて「浮島」あるいは「吹島」と呼んだ
・吾妻おろしの強い風が吹きつけるので「吹く島」→「吹島」と呼んだ
確かに、信夫山の画像を詮索すると、福島盆地から浮き上がる島のように見える。
おそらく、これが「島」の語源ではないだろうか。
その後、縁起をよくするために「吹」を「福」にあらため、「福島」という漢字が使われるようになったとしてもスジが通る。
次に郡山。
郡山という地名は、古代の行政区画である「郡(こおり)」の役所が置かれた「郡のある山、丘陵地」を意味する地形や機能から由来した呼び名とされている。
したがってこの名称は大和郡山等全国にある。
さて、福島県は、気象予報では浜通り、中通り、会津と分けられる。
その会津について。
実は会津地方の面積は広大で、愛知県や千葉県の県全体の面積より大きい。
『古事記』によれば、古くは相津と書いたという。崇神天皇の時代、四道将軍大毘古命と建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)の親子が、ここで合流したことに由来する。
次に白河。
「白河」は本来「白い川」を意味し、それが周辺一帯の地名へ転じたとされ、奈良時代の文献にも出てくる古い地名である。
「白い川」とは、川の水の清らかさ、あるいは川底の砂礫の白さを表現するというのが一般的。
さて、私が学生時代を過ごした仙台のある宮城県には河北新報という地方紙がある。
河北新報の名称は、明治期に東北地方が「白河以北一山百文」と軽んじられていたことへの反発から、「北の川=白河より北」を意味する「河北」と名付け、東北の誇りを示したものとされている。
これまで幾度となく触れてきたが、古くより日本には征夷大将軍の名前が示すように、北海道、東北は蝦夷(えみし)、九州では熊襲、隼人として、征服すべき対象、あるいは属国扱いしてきた歴史がある。
ちなみに、東京都江東区にある清澄白河(きよすみしらかわ)の名前は、この福島県の白河に由来する。この地域にある霊厳寺(れいがんじ)に白河藩主・松平定信の墓所があることに因んでいる。松平定信は「寛政の改革」で、江戸の困窮者を救済するため、「七分積金(しちぶつみきん)」という積立制度を創設し、その結果、明治維新後の混乱の中、公共事業を通じて東京の住民の生活を支えた。その時に、七分積金の使途を任された渋沢栄一が定信の功績に敬意を表し、この地に白河の名を残したとされている。
次に、猪苗代湖の猪苗代について。
苗代は農業国日本人にはおおよそ理解できる。が、その前に「猪」がつく。
調べてみると、諸説ある。
ひとつは、磐椅明神が昔、野猪(のじし)に苗代を耕作させたという言い伝えから。
さらに、イナワシロはアイヌ語だという説などがある。東北地方南部といえどもやはりここまでアイヌの影響が感じられる。
さて、阿武隈川の阿武隈について。
この名も平安時代から使われた地名だが、当時の説明に関する確実な史料は少ない。したがって、後の研究者の推定に頼ることになる。
平安時代には「あふくまがわ」としてのその名が出ているが、漢字表記では「安福麻」「合曲」「遇隅」等が当てられた(地名では、後に当て字として漢字表記が行われる場合が多い)。
もし「隈」の字に意味があるとすれば、川の蛇行や曲がりを表しているのではないかという説がある。その他、古語の音の変化で説明する説、古い民族語に由来するという説、そしてアイヌ語によるという等がある。
次に相馬市の相馬について。
千葉氏第3代当主千葉常胤が下総国(現在の茨城県と千葉県)を支配下に治め、相馬御厨(そうまみくりや:相馬郡にあった伊勢神宮の荘園)を次男の師常に与え、これが相馬師常と名乗った。ちなみに御厨とは、神に供える食物を調理するところを指す。
相馬義胤(陸奥相馬氏第2代当主)が軍功によって陸奥国行方郡(現在の福島県相馬郡)に地頭職を得、11代目の相馬重胤が行方郡に土着した。
相馬氏の支配は、鎌倉時代から江戸時代末期まで続いた。
ところで、相馬には有名な「相馬 野馬追祭り」があるので、個人的には相馬と野馬の「馬」の関係に興味が湧く。
「野馬追」の始まりは、平安時代中期、平将門(相馬小次郎)が下総国葛飾郡小金ヶ原(現在の千葉県松戸・流山付近)の牧場で野馬を捕らえて、御神馬(ごしんめ)として神前に奉納したことが由来とされている。
江戸時代になると、第16代当主相馬利胤が居城を中村城(現在の相馬中村神社)に移し、以降明治時代になるまで相馬氏の居城となった。
第19代当主相馬忠胤は、断続的に馬を放ってきた原野に牧場を整備し、そこで野馬追を行うことにした。これが野馬追として現在まで引き継がれている。
残念ながら、相馬と野馬の「馬」は単なる偶然と考えられる。
いわき市について。
奈良時代には「石城」とも書かれ、「いわき」の名はかなり古い時代から使われていたようである。時代により、石城、岩城、磐城といった表記がある。
戦国時代には、岩城常隆が飯野平城を築き、この地域の政治と経済の中心となった。
関ヶ原の戦いの後、徳川家康の命を受けた鳥居忠政が1602年に磐城平城を築いたとされる。
ちなみにこれは、仙台の伊達氏への備えでもあった。
ところで私の中学時代には、社会科の教科書に本州最大の炭田として常磐炭田(炭鉱)の記載があった。日本の近代化や戦後復興を支えたと説明されていたのを思い出す。
なおこの炭鉱の坑道から温泉が湧き出し、当時炭鉱の労働者を悩ませたが、後にこの温泉を利用し、保養施設、常磐ハワイアンセンター(現・スパリゾートハワイアンズ)が建設され、一世を風靡した。
現在のいわき市は1966年の合併でできた新しい市名である。
その際、古い地名の流れを残しつつ、特定の旧市名に見えないよう、漢字ではなくひらがなの「いわき」が採用されたとのこと。
その他、個人的に気になる地名について。
勿来(なこそ)は前出のいわき市南部の地名で、常陸国と陸奥国の境にあった古代の関所跡「勿来関(なこそのせき)」を指すことが多い。
白河の関、念珠ヶ関と並ぶ「奥州三関」の一つとされる古い関所である。
意味としては、古文でよく引用される、動詞の前後に「な」「そ」を置いて禁止をあらわす「な来そ」、つまり来る勿れ(来てはいけない、来ないでください)と説明される。
では、何に対して「勿来」なのか。
よく言われるのが、「蝦夷よ来る勿れ」である(実は私もそう思い込んでいた)。
しかし、関に関する古文献にも「蝦夷よ来る勿れ」との記録は見られない。 和歌や随筆にも「蝦夷よ来る勿れ」の意味での引用は全く表れない。
また複数の地方史関係者が、
「暴れる蝦夷がいわきにいなかったのに、蝦夷よ来る勿れ という意味のなこそを和歌に詠うのはおかしいではないか。なこそはもっと北方なはず」と力説している。
現在では、勿来の地名の由来は、本来の勿来の意味ではないと考えられている。
「勿来」は古くは「武来」「武久」とも書かれていた。
「武来」は「武者が来る」という意味の地名で、平安時代に武者が集まった地であったことに由来するとされている。
他の説として、「勿来」は「武久」から転訛したもので、「武久」の語源は不明だが、人名に由来するものではないか、というもの。
なんだかスッキリとはしないが、少なくとも蝦夷に対しての「来るな」でないことだけは確かなようである。
最後に三春町。
福島県中通り中部に位置し、田村郡に属する町。
「三春」という名の由来は、梅・桃・桜の花が一度に咲き誇り「三つの春が同時に来る」ということからその名がついたとされている。
特に桜は、日本三大桜のひとつとして名高い「三春滝桜」をはじめ、町指定の天然記念物「大桜」や「八十内かもん桜」などもそれぞれに圧倒的な美しさを誇っている。
私が仙台で学生時代を過ごした頃、梅、桃、桜の開花時期が関東に比べ近寄っていた記憶がある。
東北では、冬から春、秋から冬の変化がシグモイドカーブのようにやってくる。
それが東北地方の風情なのかもしれない。
長く寒い冬からやっと解放され、市民はゴザを持って花見会、そして晩秋にはその開放感の終焉を惜しむようにゴザを持って川原で芋煮会、そしてその後の長い冬に備える、それ故東北地方には三春の季節感がある。






