そうだったのか語源㉛  -音楽用語 その1-

 特に音楽に造詣が深いわけではない。でも、とにかくクラシックが好きだ。

 拙宅のオーディオ(かつてはステレオと言った)は、特に凝ったものではない。25年ほど前に購入したLuxman L-580というプリメインアンプを、数回オーバホールしながら現在も現役で使っている。オーディオに関心のない方にはどうでもいい話である。

 ちなみにaudio=オーディオは、audience=聞き手、聴衆と同源である。

 AUDIという自動車メーカーがあるが、これもaudioと同源である。

 創設者のアウグスト・ホルヒは、社名をつける際、自分の名前であるホルヒ=Horch(ドイツ語で「聞く」の意)の同義のラテン語、Audiを使ったとされている。

 ところで、普段何気なく聞いたり使ったりしている音楽用語にも、興味深い言葉があるので、触れてみたい。

 Music=ミュージックの語源は、音楽、舞踏など芸能の神、Mousa=ムーサから。ムーサがつかさどる技芸をmousicae=ムーシケーと呼び、ここからラテン語のmusica=ムジカが派生し、ミュージックの語源となった。

 次に、「歌」は英語ではsong=ソング。

 フランス語ではchanson=シャンソン、イタリア語でcanzone=カンツォーネ、スペイン語でcansion=カンシオンとなる。

 これらは、ラテン語で「歌う」「賛美する」を意味するcanto=カントに由来するとされている。

 ちなみに、オペラや独唱で使われるベルカント唱法も、イタリア語の Bel Cantoつまり「美しい歌(歌唱)」の意味から。

 これらには共通して「はねる音」、つまり撥音(はつおん)が含まれており、語源の同一性が感じられる。

 ところで、日本語では、「うた」に「歌」「唱」「唄」「譜」「詩」「詠」「吟」等の漢字が当てられている(実際にはまだある)。

「歌」は最も広義に使われている。

「唱」は、声をあげて歌う(となえる)。

「唄」は、ことばに旋律やリズムをつけて声に出すものやその言葉を指す。

「譜」は、音楽の曲節を符号で表したもの、楽譜。

「詩」は、「唄」とほぼ同意だが、より言葉に重きを置いていると考えられる。

「詠」は、詩歌を作ること、あるいは作った詩歌。声を長く引き、節をつけて詩歌を歌う事。

「吟」は、声に出して詩や歌を歌うこと、作ること。 

 以上、かなり細かい。

 さて、クラシック音楽とはいかに。

 Wikipediaによれば、クラシック音楽(Classical Music)」という用語は19世紀までは使われていなかったらしい。その頃、J.S.バッハやベートーベンの時代の音楽を復活させようという試みがなされ、他の音楽と区別し、「古典的」を意味するクラシック(classical)という言葉が使われたそうである。ちなみに、

初めてオックスフォード英語辞典で「クラシック音楽」というものが扱われたのは1836年のことだとか。

 しかしそうだとすると、「クラシックの現代曲」というジャンル名は、その名称自体が内部矛盾している。

 そこで、こう考えてはいかがだろうか。

 クラシック音楽は、宗教音楽や声楽、器楽曲や室内楽、交響曲etc.と、いろんな様式に分類されている。そういったクラシック音楽の様式の流れをくんだ現代曲と考えれば、腑に落ちなくもない。

 他方、オックスフォード英語辞典でclassic やclassicalを引いても、class=分類、種類との関連性は見つからないものの、主観的にはまんざら無関係とは思われないのである。

 つまり、器楽曲や室内楽曲、交響曲のようにclassified=きちんと分類された音楽という意味からclassical musicになったという解釈もできるような気がするが、諸賢の見解ははいかに。

 次に、バロック音楽とは16世紀末から18世紀中頃までのヨーロッパ音楽を指す。個人的に好きなトマス・タリス、ウィリアム・バード等に代表されるルネサンス音楽と、ハイドン、モーツァルト、ベートーベンといった古典派音楽の間に位置する。バッハ、ヘンデル、テレマン、ヴィヴァルディ、パーセル等がその代表とされる。この時代に、近代的な和声法や長調、短調の体系、そして通奏低音を基本とした作曲技法が確立された。

 baroque(仏) =バロックとは、元々はポルトガル語やスペイン語のbarroco(バローコ)=ゆがんだ真珠から派生した言葉だとか。

 フランス語では、「奇妙な」「風変りな」といった意味のようである。

 現在では、荘厳で宗教的なイメージのバロック音楽が、当時は異端に感じられたというのは、なかなか興味深い。

 日本でいえば、仏教が全盛の時代にキリスト教が入ってきたような感じだろうか。

 次に、西洋音楽における歌手の声域区分について。

 まずsoprano=ソプラノ(伊)は、ラテン語の「最も高い、はなはだ上の、最も外の」という意味のsupremusから。英語のsupreme やsuperと同源である。

 alto=アルトの語源はラテン語のaltus(高い)から。

 中世の多声楽曲で、alto は基本となる声部tenore =テノールよりも高い男声の声部を指していたが、いつの間にか女声の低音域へと変化していった。

 ではそのテノールとは。

 ラテン語で「保つ」「維持する」を意味するtenere=テネレから派生して、テノールと呼ばれるようになったと言われている。

 英語のsustainable(持続可能) の動詞sustain(状態を持続させる)や、maintenance(整備)の動詞maintain(状態を維持する)などの言葉の-tainは「〜を保つ」の意味をもった接尾語で、これもテノールと同じ語源の言葉である。

 何を「保つ」のかというと、「主旋律を保つ」ことで、元々グレゴリオ聖歌の長く延ばして歌う部分を指し、その声部を担当していたからと言われている。

 baritone=バリトンは、ギリシア語の「低い音の」の意のbarytonosが語源である。初め(16世紀)はbass=バスと同義に用いられ,最も低い声部を指していたが、のちにバスと区別された。

 ちなみに英語では、スペルはbassで「ベイス」と発音する。 おそらくbase=ベース(基底、底)と同源かと思われる。

 ここまでで、かなりの誌面を費やしてしまった。

 さて話を進め、まずは馴染みの交響曲から。

 symphony=交響曲は、symとphonyから成っている。

 symはsympathy=同情、共鳴、同感のsym、phonyはphone=

音、音声の同源、つまり「交響」とは実に上手な直訳なのである。

 ちょっと難解なのが、concerto=コンチェルト(協奏曲)。

 「独奏楽器あるいは独奏楽器群とオーケストラ(管弦楽)のための楽曲」と定義されている。

 最後が-oなので、イタリア語の男性名詞だということは想像に難くない。

 が、そのイタリア語では音楽会=コンチェルト 、そして協奏曲も同じくコンチェルトと発音される 。

 ラテン語のconcertare=コンチェルターレ(音を合わせる)に由来している。つまり、コンサートと協奏曲は同源ということである。

 con-は「共に」「協-」、certoは「認識」や「決定」の意がある。

 英語のcertein=確認する、確信する と同源と思われる。

 英語では、ピアノ協奏曲はpiano concertoとイタリア語に近い表記となる。

 concertoには、「論争する、競争する」という意味もあるが、一方で「協調する」という意味もある。「独奏楽器(群)とオーケストラとのかけ合い」というのが元の意味であろう。では、音楽会のコンサートは?となるが、なかなか明快な解答が見つからない。音楽会で協奏曲がよく演奏されたため、音楽会の代名詞となったのではなかろうか。

 divertimento=ディベルティメントは、喜(嬉)遊曲と和訳されている。

 concertoと同様、英語でもイタリア語と同じスペルで、母音で終わっている。

 英語のdiversion=気晴らし、娯楽と同義で、「喜遊」の字を当てたものと考えられる。器楽組曲で、明るく軽妙で、深刻さを避けた楽曲を指す。ちなみに、医学用語でdiverticulumは憩室(消化管の一部にできた袋状の陥入)と和訳されているが、これも同源であろう。(消化管の)流れから小さな路地のように引っ込み、ほっとできるような(流れから外れた)部分という意味合いからではないだろうか。

 似たものでserenade=セレナードがあるが、こちらは小夜曲と和訳されている。前者が室内演奏用であるのに対し後者は屋外演奏用とされている。

 セレナードはもともと、男性が夜、女性のいる窓辺に向かって女性を口説くための曲であった。serenadeはラテン語のserenus=平穏な、が語源とされている。世の中が平穏でないと、こんな口説き方はできないからだろうか。

 そのうち、夜に野外で演奏される曲全般を指すようになった。

 モーツァルトのEine Kleine Nachtmusik=アイネ・クライネ・ナハトムジークK.525は、小夜曲をそのままドイツ語にしたもので、モーツァルト自身が目録に書き加えたとされている。

 nocturne=ノクターンは、夜想曲と和訳されている。夜の情緒をテーマにした叙情的な曲のジャンル。語源はラテン語のnox=ノクス(夜)から、その複数形が「ノクティス」これが英語化したものである。因みにフランス語では「ノクチュルヌ」と発音する。

 さて、ballade=バラードは譚詩曲と和訳され、その名の通り世俗の叙情歌で、詩的な側面もある。

 面白いところでは、capriccio=カプリッチョ。和訳では奇想曲。

 Wikipediaでは「形式が一定せず自由な機知に富む曲想」と解説されている。かなりアバウトな定義である。

 英語、仏語ではcaprice=カプリースと発音され、「気まぐれな」と和訳されている。 以前、イタリア人の患者に、カプリッチョとはどんな意味か尋ねてみた。彼が挙げた例として、「家に帰ってみたら子供が室内を散らかし放題にしていて驚いた、そんな感じ」と、説明してくれた。下手な英語で、「beyond expecting?」と聞き返したら「so!」と言ってくれた。現代語では「うそっ!」と言った感じだろうか。カプリッチョとは、そこまで極端ではないにしろ、「何があっても構わない曲」といったところではないだろうか。

そうだったのか語源㉚ -美しい日本語 その他-

美しい日本語が続くが、今回は徒然なるままに思い当たる言葉として、まずは「面影」について。

 「面」は表(おもて)で、そのままの見える顔そのものを指し、一方「影」は光の当たらない暗い部分を指す。つまり、なにか実物とは違う間接的な像、つまりそこに想像力の入り込む余地があるように思われる。これが転じて、「目の前にあるものから思い出される様子」や「記憶の中にある顔かたち」を意味するようになったと考えられる。深い言葉である。

 ちなみに、英語ではone’s face(顔について)image traceなどがその訳として当てられているが、これらの単語の中に、日本語の「面影」のような微妙な意味合いが含まれているように感じ取れないのは、私が単に英語に造詣がないためだろうか。

 日本語的に美しい言葉に「ひとしお」がある。

 もともとの状態に比べ、さらに程度が増すことを表す言葉である。

 漢字では「一入」と書くが、これは染物を一度染料に浸すことが語源とされている。染料に浸すたびに色が濃く鮮やかになっていくことから「一入」で、二回浸すことを「再入(ふたしお)」、さらに何度も浸すことを「八入(やすお)」と言うそうである。

 次は、日本語の真髄のような言葉、「ゆかしい」について。

 「ゆかし」という古語は「行かし」から来ており、「行かし」とは「そこに行ってみたい、知りたい」が本意で、心がそこに惹かれる様を表現している。現代では「奥ゆかしい」という使われ方がほとんどだが、その通り「奥まで行ってみたい、奥義まで知りたい」という意味である。全てをさらけ出しては、さらに知る由もなく興味が止まってしまう。一部分しか見せない、知らせないがためにそこに想像力が働く余地がある、これは日本画にも通じる余白の世界で、日本人ならではの感性ではないだろうか。

 西洋画は背景を含め、全て彩色する。音楽も、音符が表現するものが全てである(もちろん、解釈によって異なる部分もあるが)。それが全て、眼前の視覚、聴覚等、五感に訴えるものが全てであり、人間が感覚的に捉えたものが絶対的な真実であるという、ルネッサンス期の西洋文化の真髄たるものが凛として存在する。絶対的な真実を探求する知的好奇心がルネッサンス文化を作ったと言っても、あながち的外れではあるまい。  

 それに比べると、日本の文化はやはり根本的に違うように思える。

 以前にも触れたが、左右非対称の美、未完成の美、つまり変化、発展する余地を残した美が日本文化にはあるような気がする。余白を残し、墨の濃淡のみで情景を表現する水墨画や回遊式庭園、建築では桂離宮の美しさはまさにこの代表と言えまいか。

 次に「さりげない」という言葉について。これも、先の「ゆかし」と通じる、日本人の感性を象徴するような言葉である。

 「さりげ」は本来は「然りげ」と書き、「さ」と「ありげ」から転じた言葉で、「そのようでありそうな」「(いかにも)それらしい」という意味である。

 そこから「さりげない」は、意図を感じさせないように行う様子をいう。さらに、これといった目的を持たない、何気ない様子を表現することもある。

 最近では、意図はあるもののそれを感じさせない、あるいはそれを悟らさせない巧妙な仕草を指すようにも思える。

 さて、「よろしく」という言葉は日常的に実に多くの場面で使われ、意味も一筋縄ではいかない。これはもう、美しいというより難しい日本語の範疇に入るものであろう。この言葉は副詞だが、元となる形容詞の「よろしい」から。

 これは漢字では「宜しい」と書く。広義では「よい」だが、「結構だ」「好ましい」から、「許容できる(かまわない)」「ちょうどよい(適当だ)」「承知した」等、色々な使われ方をする。共通するのは、及第であるという概念だろうか。

 そこから派生した「よろしく」は、「適当に(うまく)」だが、人に何かを頼むときに添える言葉でもある。「◯◯さんによろしく」のように、相手に、別の人への好意をうまく伝えてもらう場合にも使われる。やや変わったところでは、上につく名詞に続けて、「いかにもそれらしく」の意味で使われることもある。

 最後の使い方以外は、「よろしい」から派生した言葉であることは理解できる。

 歌に出てくる言葉にも美しいものがある。

 「埴生の宿」の「埴生」とはこれいかに。

 「埴生」は、「埴(はに)」のある土地を指す。「埴」は「埴輪」からも想像できるように、土、あるいは粘土を指し、床も畳もなく土がむき出しになったいわば土間だけの状態で、そのような粗末な家を「埴生の宿」と表現した。「埴生の宿も我が宿、玉の装い羨(うらや)まじ」と続く。後半は、「豪華な装飾も決して羨ましくはない」という意味である。実はこの曲、イングランド民謡の「Home! Sweet Home!」(日本語訳:楽しき我が家)が原曲である。この歌詞は直訳ではなく意訳で、日本語としても美しい歌詞となっている。

「蛍の光」もスコットランド民謡「Auld Lang Syne」(スコットランド語)が原曲で、英訳では「times gone by」で、「過ぎ去りし懐かしき昔」などと和訳されている。「蛍の光」が別れの歌であるのに対し、「Auld Lang Syne」は旧友との再会を喜び、昔を懐かしむ歌詞となっている。

 さて、この「蛍の光」の歌詞は4番まであるが、一般的には2番までが歌われる。

 1番は、

「螢の光窓の雪、書(ふみ)讀む月日重ねつゝ、何時(いつ)しか年もすぎの戸を、開けてぞ今朝は、別れ行く」

 2番は、

「止まるも行くも限りとて、互(かたみ)に思ふ千萬(ちよろず)の、心の端を一言に、幸(さき)くと許(ばか)り、歌ふなり」

 1番でわかりにくいのは、「何時しか年もすぎの戸を」ではないだろうか。もっと絞れば「すぎ」の部分で、これは「いつしか年月も過ぎてしまった」と「杉の戸を開けて」の掛詞である。檜(ヒノキ)の戸では洒落にならないのである。

 2番では、「限りとて」は「今日限りである」の意、次の「互に思ふ千萬の心の端を」は「お互いを思う何千何万の気持ちを」、「幸くと許り」は「どうか無事でいてねとの思いで」となる。

 次に、「イロハニホヘト—」について。

 物事の順番を表すのに、「123—」(数詞)「abc—」(アルファベット順)、そして日本では「アイウエオ—」(50音順)「イロハニホヘト—」等がある。

 前の3つは順番として規則性を感じるが、「イロハニホヘト—」はやや異質ではないだろうか。イロハ順と言われている順番である。

 これは、平安時代末期に流行した「いろは歌」がもととなっている。「いろは歌」とは、七五を4回繰り返す歌謡形式に則り、さらに仮名一字を1回ずつ使うという制約の下で作られている。

 江戸時代までは、一般的にはイロハ順が使われていた(50音順は、主に学者らの間で使われていたそうである)。ちなみに現在では、公文書には50音順を使うことと定められている。

 イロハは音名(階名)にも当てはめられ、イタリア式表記の「Do Re Mi Fa Sol La Si」(ド レ ミ ファ ソラ シ)、英語式表記の「C D E F G A B」を日本では「ハニホヘトイロ」とした。ハ長調、ト短調といった具合に。

 さて、「イロハ—」の全文は、

「いろはにほへとちりぬるをわかよたれそつねならむうゐのおくやまけふこえてあさきゆめみしゑひもせすん」で、元歌は、

「いろはにほへど ちりぬるを わがよたれぞ つねならむ うゐのおくやま けふこえて あさきゆめみじ ゑひもせず」である。

 イロハ順は濁点を取っている。元歌を漢字を入れて表わすと、

「色は匂へど散りぬるを 我が世誰ぞ常ならむ 有為の奥山今日越えて 浅き夢見じ酔ひもせず」

 最後の「ん」は使われていない1文字を入れて、48文字とした。

 歌の意味は、

「色は匂へど散りぬるを」→「香り豊かで色鮮やかな花も、いずれは散ってしまう」

「我が世誰ぞ常ならむ」→「この世に生きる誰しもが、いつまでも変わらないことなぞない」

「有為の奥山今日越えて」→「無常で有為転変(=有為無常:常に変化しとどまるところを知らない)の迷い、その奥深い山を今乗り越えていく」

「浅き夢見じ酔ひもせず」→「悟りの世界に至ればはかない夢など見ることなく、仮想の世界に酔うこともない安らかな心境である」

となる。まるで平家物語の冒頭の「祇園精舎の鐘の声—」のようで、実に深い悟りの境地が込められている。「大乗仏教の悟りを表した歌」との解釈もある。 

 しかも、一語の重複もなく読まれていることに驚嘆するばかりで、ただ順番を表わすだけに使われるには、あまりにもったいない。 

そうだったのか語源㉙    -続々・美しい日本語-

 最近の日本列島は洪水や氾濫、鉄砲水等、水による被害が多くなっている。温暖化の象徴的な現象なのかもしれない。

 それでも、世界的にみれば水が比較的容易、安価に手に入る日本において、その源である雨について。 

 この雨には実に様々な表現があり、ある辞書によると1200ほどあるとか。

 いくつか、目についた表現を取り上げてみたい。

 気象予報でもポピュラーな「にわか雨」は、急に降り出して短時間で止む雨のことをいう。     

 では似た表現で「通り雨」とは。さっと降ってすぐに止む雨と説明されているが、にわか雨との違いは降ったり止んだりを繰り返す、つまり断続的なものが「通り雨」となっている。ちなみに気象用語ではこの表現は使われず「時雨(しぐれ)」という。

 「にわか雨」「通り雨」とも、積乱雲から突然降り出す「驟雨(しゅうう)」という雨の範疇に入る。  

 「五月雨(さみだれ)」は、旧暦の5月に降る長雨、つまり現在の梅雨を指す。

 ついでに「さみだれ式」とは、この雨のように、途中で中断を挟みながらもだらだらと続く様子を言う。 

 「土砂降り」が、大粒の雨が激しく降る、いわゆる豪雨をさすことには異論はなかろう。あとは「土砂」だが、ひとつには土砂を跳ね飛ばすような勢いからという説と、擬態語の「ドサッ」と「降る」を組み合わせたもので、「土砂」は当て字とする説がある。

 雨と雪が混ざって降るものを「みぞれ」といい、漢字では「霙」と書く。雨冠は空から降るものを表し、旁の「英」は花や花びらを意味することから、花びらのように雨よりゆっくり降ってくる様を指しているものと考えられる。

 ちなみに、「氷雨(ひさめ)」とは冬季に降る冷たい雨を指すが、雹(ひょう)や霰(あられ)といった空から降る氷の粒を指すこともある。

 霧雨(きりさめ)は文字通り、霧のような細かい雨(厳密な気象用語では雨滴の直径が0.5mm未満)を指すが、別名小糠雨(こぬかあめ)とも呼ばれる。

 さて、「夕立」は夏の午後から夕方にかけて降る激しい雨を言う。

 もともとは、雨に限らず風や波、雲などが夕方に起こることを「夕立つ(ゆうだつ)」と言い、それが名詞化したという説が有力である。

 ところで、日が照っているのに急に降り出す雨のことを「天気雨」、あるいは「狐の嫁入り」、日照雨(ひでりあめ)と言う。

 この曰くありげな「狐の嫁入り」だが、一般的には、夜の山中や川原などで無数の狐火(冬から春先にかけての夜間,野原や山間に多く見られる奇怪な火)が一列に連なって提灯行列のように見えることをいい、狐が婚礼のために提灯を灯しているという伝説がある。昔は、夜に提灯行列などがあると、それは大抵が他の土地からやって来る嫁入りの行列だったいう。一方、近所で嫁入りなどがあると、誰でも事前にそのことを知っているので、予定にない提灯行列は、狐が嫁入りの真似をして人を化かしていると言われていたようである。

 つまり、予測なしに、あるいは予測できずに降ることがこの伝説にちなんだのか、あるいは晴れているのに雨が降るという、狐につままれた様を指すのか詳細は定かではないが、根拠として全くの見当外れではあるまい。

 梅雨(つゆ)も日本らしい言葉だが、起源はどうやら中国らしい。

 梅雨は、春から夏への季節の変わり目に停滞前線(梅雨前線)の影響で雨や曇りの日が続く気象現象を言う。中国の長江下流域で梅の実が熟す頃に降る雨が語源との説が有力である。

 日本ではこの他に、梅雨に似た長雨に三つ名前がついている。

 菜種梅雨(なたねづゆ)、すすき梅雨、山茶花梅雨(さざんかづゆ)と呼ばれている。

 順に、菜種梅雨は菜の花の咲く頃の長雨を指すが、いろんな花の咲く時期と重なるので催花雨(さいかう)とも呼ばれる。日本的な美しい命名である。

 次のすすき梅雨は比較的時期の幅があり、8月下旬から10月上旬までの長雨を指す。

 すすきの季節に降る長雨という意味だが、「秋の長雨」あるいは秋霖(しゅうりん)の別名もある。

 最後の山茶花梅雨は晩秋から初冬、つまり11月下旬から12月上旬に降る長雨を言う。名の通り、山茶花の花の咲く頃の長雨の意である。名前に「花」がつくものの、この長雨は気温も下がり日も短くなる頃に降る雨で、心なしかうら寂しい響きがある。

 これらはどれも、日本的季節感のにじむ呼び名である。 

 その他、感謝を込めた雨の呼び名もある。

 慈雨、あるいは「恵みの雨」は、万物を潤し育てる雨を言う。別に「甘露の雨」の表現もある。

 「干天の慈雨」とは、日照り続きの時に降るありがたい雨の意だが、転じて、困っている時に差し伸べられる救いの手の比喩としても使われる。

 個人的には今回のメインのテーマと思っている「別れの言葉」について。

 状況を問わず、最も頻用される別れの言葉は「さようなら」。

 「然様(さよう)」は「然様でございます=そのようです、そうです」のような表現にも使用されるので、前に起きた特別なことを表現するというよりは、前提として起きたことを含めてのクッション(言葉の印象を和らげる)言葉的な意味合いで使用されることが多いようである。

 ということで、別れの挨拶である「さようなら」つまり「然様なら」は、「用事が完了したので」や、「そろそろいい区切りなので」というような意味合いで使われ、より現代的な口語に言い換えるならば、「そろそろバイバイね~」「じゃーね」的なニュアンスになるのであろう。

 いずれにしても、元になる「なら」は仮定条件として使われる言葉である。

 「じゃー」の語源である「では」も同義である。

 その意味では、「では、さようなら」は、仮定条件が重複しているので、文法的には誤りと言えよう。

 さらに、より古い表現では「さらば」があるが、これも「さ、あらば(そうであるならば)」が語源で、やはり仮定条件からの派生である。

 これらの言葉から類推するに、日本語では単刀直入な表現は「はしたない」という文化があったようで、「別れる」「帰る」という本題をはっきり表現せず、仮定条件の言葉で婉曲に表現することを好んだのではなかろうか。このような文化は、良くも悪くも日本のディベートや政治においても色濃く残っているように思う。

 これら日本語の表現に共通するのは、刹那的というか、単にその時の別れの挨拶でしかない、ということである。

 ちなみに英語では[see you again]が一般的だが、[good by]も同様に使われる。

[good by]は[Godbwye]の略語、さらに元を辿れば[God by with you]が語源、つまり、「神が汝とともにありますように」あるいは「神のご加護を」の意で、いかにもキリスト教色の濃い言葉である。

 少なくとも、先の日本語には相手の将来を慮る意があるようには思えない。

 その思いやりの意を含む日本語としては、「お元気で」や古くは「お達者で」、あるいは手紙で常用される「ご自愛ください」が使われる。また、少々上品な言葉「ご機嫌よう」も別れの言葉で、「ご機嫌よくお過ごしください」を略した言葉である。

 さらに丁寧な言葉では「ご機嫌麗しゅう」がある。これもその後に、「お過ごしください」等が続いたのが略されたものだと思われる。別れや手紙の文末に使われ、意味としては「気分良くお過ごしください」といったところか。

 似たところでは、手紙の文頭や挨拶に使われる「ご機嫌いかがですか」は、現在でも常用される相手の健康を気遣った表現である。

 さらに同様な意味を含んだ挨拶の言葉としては、一般的な「お元気ですか」の他に、「お達者」「ご健勝」や「つつが無い」という表現が使われることがある。後者は「恙無い」と書き、病気、災難などがなく日々を送っている様を言う。

 もともと「恙」の意味は、「ダニ、病気、災難」で、「ツツガムシ」とはケダニを意味する。童謡「ふるさと」にも「つつが無しや友がき」というフレーズがあるが、要するに元気で平穏無事ですか?という意味である。同様に最近ではほとんど使われない言葉に「息災」がある。

 「息災なく」や「息災でしたか」「息災でなにより」といった使われ方をする。

 現在、日常的には「無病息災」という4文字熟語での使われ方が圧倒的に多い。

 「息災」の意味は、

 1.仏の力によって災害や病気などの災いを消滅させること

 2.身にさわりのないこと。達者。無事

となっている。

 もともとは、修行する人の煩悩を取り払う仏教用語が元となっている。

 ちなみに「息」には「やむ、しずめる」の意があり、意訳すれば「災いを鎮める」となる。

 「ご機嫌麗しゅう」で使われた「麗しい」という言葉について。

 一般的には、「美しい」という言葉がこの意味で使われている。

 辞書には、

 ① (外面的に)魅力的で美しい。気品があってきれいだ。

 ② (精神的に)心あたたまるような感じだ。

 ③ きげんがよい。晴れ晴れしている。

とある。この中で、③ だけが「美しい」に置き換えるのにやや抵抗がある。

 ただ一方で、「おいしい」に「美味しい」という漢字が当てられることがある。

 ここから察するに、女子の名前で「よしこ」の漢字に「好子」や「美子」が使われるように、「美しい」にも好ましい、あるいは好感が持てるという意味合いがあり、使われる機会は多くはないものの、③ もまんざら本来の使い方から外れてはいないように思える。

 要するに、「麗しい」は「美しい」に対し、やや格調高い、あるいは古風な言葉と言えるのかもしれない。

 美しい日本語は大事にしたいものである。

そうだったのか語源㉗ -美しい日本語 その1-

 日本人の耳にだけそう響くのだろうか、音(おん)として響きの美しい言葉を聞くとき、日本の文化を誇りに思い、その言葉の成り立ちに想いを馳せる。   

まずは、時の移ろいに関するものから触れてみたい。

テレビ番組のタイトルなどで、古都のことをわざわざ「いにしえの都」という。

 響きの綺麗な日本語だと思うが、「いにしえ」の語源は、「往 (い) にし方 (へ) 」から来ており、直訳すれば「行(往)ってしまった古い時代」ということになろうか。ちなみにこの言葉は「去(い)にしへ」とも書き、故人のことも指す。

 「とこしえ」は漢字では「永久」が当てられる。「常し方(へ)」あるいは「長し方(へ)」が語源と思われる。

 ちなみに「とわ」は「永久」「永遠」を当てるが、これは「常(とこ)」(接頭)=いつも変わらない、永遠である」の意を表す語から来ている。「とこしえ」の「え」は「いにしえ」同様、「え(あるいは(へ))(接尾語)」=「方」でその方向、向きの意を表す。「ゆくえ」「しりえ」「いにしえ」と同じ使い方である。つまり、「とこしえ」と「いにしえ」は過去と将来という意味で対(つい)である。

 「あけぼの」は、「明け」と「ぼの(ほの)」からできた言葉で、「仄々(ほのぼの)と明けていく」あるいは、「仄(ほの)かな明け」の意で、夜のしじまから東の空がほのかに明るくなっていく様を表している。日本の感性を感じる。

 一方で、これに似た言葉で「あかつき(暁)」という表現もある。これは、「あかとき(明時)」が変化した言葉で、夜が明ける時を指し、ほぼ同じ意味で使われる。

 日の出の「あけぼの」に対して、日の入りに近い表現で「たそがれ(黄昏)」がある。これは、夕焼けの赤みの残るモメントを指す言葉である。

 実は、古くは「たそかれ」と言われ、「誰 (た) そ彼 (かれ) は」、つまり「あの人は誰だろう?」と、日暮れて人の顔の見分けがつきにくい時間帯を指す。

転じて、人生の盛りを過ぎた頃を指すこともある。これもなかなか美しい日本語である。

 これに近い言葉で、「ひともし頃」という表現がある。「火点し(ひともし)」とは灯火をともすことを指し、つまり暗くなって人工的な照明がないと生活に支障をきたすような時間帯を指す。

 「訪れる」とはあまりに日常語で、特に語源など考えもしないかもしれない。

 えてして日常用語とはそんなものであろう。

 では、「訪れ」は「おとずれ」と読むが、これはどこから来たのだろうか。

 音は、音波というように空気の振動である。風が吹けば音が生じるが、こういった自然現象を古来の人たちは神の来訪と感じたようである。これを、音を連れて神が来訪するので、音連れ(おとづれ)と言った。これが「訪れ」の語源である。 

 人が来訪する時も衣服が擦れる、衣擦れや足音など「音連れ」なのである。

 さて、「うたかた」とは、はかなく消えやすいものといった意味である。

 漢字では「泡沫」が当てられている。これには多くの語源や由来がある。

 「ウクタマカタ(浮玉形)」の転、「ウキテエガタキモノ(浮きて得がたきもの)」の略、「ワガタ(輪型)」の「ワ」の延音「ウタ」、「ウツカタ(空形)」の転など、多くの説がある。

 水面に浮かぶ泡を指すが、「水の泡」という使われ方から、消えやすくはかないもののたとえとして用いられている。

 実は、漢字の「泡沫(ほうまつ)」は当て字である。

 ちなみに、このように漢字2文字以上をまとめて訓読みすることを、熟字訓(じゅくじくん)と呼ぶ。

 一般に「当て字」と呼ばれているものの中には、多くの熟字訓が含まれている。1946年に当用漢字が制定されたとき、「当て字はかな書きにする」という方針が打ち出され、その結果、熟字訓の語源の漢字はあまり用いられなくなった。一方で、もとの漢字には言葉本来の意味が表現されており、言葉の意味を理解するという面ではメリットも多いだが。

 閑話休題。

 「夢うつつ」、「うつつを抜かす」という言葉がある。

 これらの引用例から、「うつつ」とは夢を見ている状態、あるいは現代の言い方では、バーチャルな状態を表していると誤解を招くかもしれない。

 意外にも、「うつつ」には漢字の「現」が当てられている。

 つまり、(死んだ状態に対して)現実に生きている状態、現存を意味する。

 その他、気が確かな状態、意識の正常な状態、つまり正気を指す。

 「うつつ」の語源は,諸説あるらしいが、ウツシ(顕)の語幹のウツから派生したとの説もある。

 音が似ているところで、「うつせみ」という言葉がある。

 この世に生きている人、あるいは現世、この世といった意味で用いられる。

 現在では、雄略天皇(5世紀後半)条にある「ウツシオミ」という言葉が語源であるというのがほぼ通説となっている。この「ウツシオミ」とは、雄略天皇が人の姿で現れた葛城(かつらぎ)の一言主の大神に対し、「ウツシオミであるので神であると気付かなかった」と言ったもの。このウツシを「現」とすることは諸説一致しているが、オミの意味については「臣」の字を当てる説があるものの定説とはなっていない。

「空蝉」「虚蝉」は後世にできた当て字だが、地上に現れてからの寿命の短い蝉や蝉の抜け殻の意にも用いられ、虚しいものというニュアンスを持つようになった。時代の終末思想、末世思想が「うつせみ」に「空蝉」とあてさせたのだろうか、時代背景を感じさせる。

 その他、現身(うつしみ)とする説もある。

 さて、「そこはかと」は、「そこはかとなく」という否定語が続く形で多く使われる。

 元々は「其処 (そこ) は彼 (か) と」と書き、「どこそことはっきりとは」、あるいは「確かには」という意味である。

 次に「風=ふう」について。

 「ローマ」に対して「ロマンティック」という形容詞があり、「ローマ風の」あるいは「ロマン主義」「ロマン派」「ローマ様式の」「ローマに通じる」と和訳されているが、まさしくこれと同じ表現である。

 日常語として意識なく頻繁に使っている。現代語の「–っぽい」がこれに当たるのではないだろうか。

「風」は、「洋風」「現代風」というように、名詞や形容詞のあとに付けて方法や様子、様式、性格等を表現する。もともとは、気まぐれな風が吹くように、あまり堅いことに拘泥せず、言いたいことをストレートに言わず、オブラートに包むように、やや曖昧さをもたせて表現する場合に用いる。私説ではあるが、風が吹くように、どこかから影響を受けてそれになびくという意味合いもあるのではないかと思われる。いずれにしても実に和風な言語である。と言いながら、図らずも「風」を使ってしまうが、それだけ「風」が使いやすい便利な言葉なのであろう。

 「こうしてください」ではなく、「こういうふう(風)にしてください」と言うと、表現が柔らかくなる。「このように」「こんな感じ」「これみたいな」という表現に類似している。

 先に出た「洋風」も西洋そのものではなく、西洋の雰囲気、あるいは様式をもった、という意味で使われる。

「風情」「風格」「気っ風(きっぷ)」といった言葉にも、断定せず醸し出す雰囲気といった意味合いが感じ取れる。 

 事ほどさように、日本語には、「風」「光」「音」といったものが雰囲気の表現として使われる場合が多い。

 「風景」と同様に「光景」という言葉も用いられる。「風光明媚」や「観光」にも「光」は使われる。「光り輝く」景色だからか、あるいは「光があるからこそ見える」景色だからか、正確な根拠はわかりかねるが、そう外れてはいまい。

 一方「威光」や「後光」では、「光」はありがたさや威厳を表していると考えられる。

 さて日本語では、ある感覚器の表現を別の感覚として使うことがよくある。

 「暖色」という言葉は、視覚を温度感覚で表現、「明るい音」は聴覚を視覚で、「軽やかな響き」は聴覚を重量感覚で表現している。

 私の大好きなワインでは、その味わいの表現として、「重い」「軽い」という重量感覚で表現している。舌で重量が測定できるわけがないが、呑んべいの味覚としては非常にわかりやすい。  

 「苦い経験」「甘い生活」では、人生を味覚で表現している。これは日本語に限った表現ではないが、そのあたりの詳細はここでは割愛させていただく。  

 次に、先にも出たが「しじま」には「無言」「黙」「静寂」の字が当てられる。

 「しず」あるいは「しじ」(=静寂)と「ま(=時間)」からの成語という説がある。「静」と「間」がそれに当たろう。

 一方、しじま(黙)の語源には、口をシジメル(縮める)シジマル(縮まる)の意があるという説もある。そこから「静寂」の意が派生したとも言われている。ちなみに、しじま(黙)と貝の蜆(しじみ)は「縮む」が共通の語源とされている。

 「たおやか」とは、姿・形・動作がしなやかで優しいさまをさす。「たお」は「たわむ」から派生した言葉である。この語源は「硬いものが曲がった形になる」「弧を描く」という意味の「撓む(たわむ)」からきており、その意味から基本的に女性の所作や木の枝などに対して用いられる。

 「木漏れ日」も日本的な美しい表現で、その名の通り、木陰から漏れる陽の光を指す。個人的には、学生時代に過ごした仙台の青葉通りや定禅寺通りのけやき並木を歩いた時の光の移ろいを思い出す。青春の不安に満ちた精神状態と重なって思い出される。時々、無性に仙台に戻ってみたいという衝動にかられる。やや感傷が入ってしまったこと、ご容赦願いたい。

 演歌の歌詞によくある「移り香」。英語では、「a lingering (faint) fragrance [scent]」とある。物に移り残った香、残香、遺薫などと和訳される。香、香織、薫、馨等、名前にも多く使われている。源氏物語の「匂宮」「薫大将」も嗅覚に由来する。匂いで季節を感じるように、古来より、いかに日本人の嗅覚がその文化に根付いているかが想像できる。

 さて、「はしたない」とは、礼儀に外れていて品がない、あるいは上品ではないといった意味で使われる。「はした(半端)」と「なし」から構成された語で、「はした」は「はんぱ」とも読み、一定の数量やまとまりとなるには足りない数や部分を指す。「なし」は否定語の「無し」ではなく、前の言葉を強調する時に用いられる。「あどけない」「せわしない」などの「ない」も同様の使い方である。つまり「はしたなし」は、「中途半端な」を強調したのが原義である。

 「世知辛い」とは、世渡りが難しい、生きずらいといった意味で用いられる。

 この言葉は実は仏教語が語源となっている。

 「世知」とは、俗世間を生きるための智慧、つまり世渡り術を指す。「辛い」は「つらい」とも読み、英語のdifficultの同義で、生きにくい、生きずらいといった意味となる。

 では「如才ない」の如才とは。ちなみに本来は如在と書く。

 語源は、論語の「祭如在、祭神如神在(祭ることいますが如くし、神を祭ること神いますが如くす)」である。

 意味は、「先祖を祭るには先祖が目の前にいるかのように、神を祭るには神が目の前にいるかのように心を込めて祭られた」。

 これがいつしか、「形ばかりの敬意」「上辺(うわべ)の敬意」「形式的」といった意味に変化して使われるようになり、「如才」は「なおざりな様子」「手抜きをして気がきかない様子」を表すようなった。

 今日では「如才ない」と後ろに否定語をつけて使われることが多くなり、「抜かりがない」あるいは「気の利いた」と肯定的な表現として用いられる。

 「暮れ泥む」は「くれなずむ」と読む。

 「暮れなずむ」というのは、日が暮れそうでなかなか暮れないでいる状態、つまり日が暮れかかってから真っ暗になるまでの時間が長いことを表す。「暮れなずむ」を「(すでに)日が暮れた」という意味で使うのは本来の使い方ではない。いわば、先に触れた、「黄昏時」と同義語ととらえてよかろう。

そうだったのか語源㉖   -数に関する言葉-

 人の指の数が左右で計10本だったから10進法が発達したと言われている。

 仮に、合計12本だったらもっと文明は進歩したのではないかとも言われている。

 12進法というのがある。時刻や方位に使われる場合が多いが、たしかに円に関する場合、10より12のほうが使いやすい。円を10等分するのは結構難しいが、4等分、6等分は簡単で、つまりその倍数である12等分は比較的簡単である。しかも10の約数は1,2,5,10しかないが、12では1,2,3,4,6,12と多い。

 さて、漢字由来の数詞から派生した言葉には大袈裟な、あるいは比喩的に強調した表現が目立つ。

 「万一」あるいは「万が一」とは、「万に一つ程度のほんのわずかな可能性のあること」が直訳だが、日常的には「ひょっとしたら」「もしかしたら」くらいの意味に使っている。1/100は百分率では1%なので、「万が一」とは0.01%、つまり限りなくo%に近いが、実際に使っている実感としては確率的にはもっと大きいのではなかろうか。

 「白髪三千丈」とは、原典は李白の「秋浦歌」で、長年の憂いが重なって白髪が非常に長く伸びたことを誇張して表現したもので、日常的には「心に憂いや心配事が積もること」を例えている。「丈」とは、馬の前足から肩の高さとされているので1.2〜1.5m、つまり3000丈とは3600mから4500mとなる。かなり大袈裟であろう。

 「千差万別」は、いろいろなものにはそれぞれ相違や差異があることの例えとして使われているが、宋の時代の道原による仏書「景徳伝灯録」の禅問答に由来しているようである。これに比べ、類義の日本語の熟語「十人十色」はなんとも穏やかというか、文字通りでハッタリの微塵も感じられない。

 中国戦国時代の道家である列子由来の「千変万化」も意味こそ違えど似た表現である。「千差千別」でもよさそうだが、「千」の次に「万」というさらに大きな単位を使うことで、多いことをさらに強調する狙いがあると思われる。

 さらに「千載一遇」とは、直訳すれば「千年に一度出会うかどうかのチャンス」の意で、晋代の袁宏の著「三国名臣序賛」が出典とされている。

 「万国」「万人」「万病」「万障」というように、「万」は訓読みで「よろず」と読むように、非常に数が多いことの表現として用いられる。

「万策尽きる」の「万策」や「万事休す」の「万事」も同様の使われ方である。

 さて、英語で数に関する曖昧な数詞で、「a few —」というのがある。量では「a little—」という表現がそれに当たる。日本語では「数 —」を当てている。では、「数 —」とは具体的にいくつを指すのか。「二三の」と考える方と「五六の」と考える方がいる。これも時代とともに変遷するようである。

 1967年11月、当時の佐藤栄作首相のもと、日米首脳会談が行われ、沖縄返還のメドを両三年以内(先方のコメントではwithin a few years)につけることで合意した。2~3年以内に返還することを約束したのではなく、数年以内に返還時期を決めるという内容だった。結果的に1972年に本土返還が実現したが、やはりこの場合、「a few years」は日本側の思惑とは裏腹に「5〜6年」と解釈するほうが妥当だったのではなかろうか。

 いずれにしても、「数—」という曖昧な表現は、使う側にとっては責任を曖昧にするという意味で便利だが、両者の間に誤解や約束自体の瑕疵を生じる恐れがあることも事実である。

 ところで、我が日本語の数詞で、うんちくのあるものは如何。

 とっかかりに常用の言葉である「ろくでなし」を取り上げてみたい。

 この「ろく」は数の6ではなく、通例として「碌」の字が当てられているが、実はこれも当て字である。

 本来は「陸」である。勾配のない平らな屋根のことを「陸(ろく)屋根」というが、「陸」は土地が平らなことから、物や性格が平らで真っ直ぐなことを指す。そこから性格が真っ直ぐでないことを「陸(ろく)でなし」と言うようになったそうな。

 歌舞伎の用語が語源とされるものに、「七変化」がある。一般的に「物事がくるくる変わる」「素早く変化する」といった意味で使われる。

 もともとは歌舞伎舞踊の世界で使われている言葉で、「変化舞踊(へんげぶよう)」からの派生語である。ちなみに、「変化」を「へんか」と読むのは漢音、「へんげ」は呉音である。

 「変化舞踊」とは、いくつかの小品舞踊を組み合わせて構成されたもので、同じ踊り手が次々に扮装を変えて異なる役柄を連続して踊り分けるものを言う。

 少ないもので「三変化」、多いものだと「十二変化」まであるが、「五変化」や「七変化」で構成されるものが最も多かったため、日常用語になったようである。

 さて「八方美人」とは、誰に対しても上手に立ち回る人を指す比喩である。

 「八方」とは、東西南北とその間の45度の方位を入れたものである。

 「八方塞がり」も逃げ道のないことを表すが、「四方」より「八方」のほうがより全方位的なニュアンスが強くなる。その意味では、先の流れからすると「四面楚歌」という比喩は、古代中国の表現としては随分謙虚に思えるがいかがだろうか。

 「八面六臂」 とは、仏像などで八つの顔と六本の腕を持っていることを意味し、多才で一人で何人分もの活躍をするたとえに引用される。

 話はやや逸脱するが、奇数は日本文化にとって色々な意味でバランスがよいと思われる節がある。西洋の左右対称文化に対し、日本文化は概ね左右非対称文化といえよう。日本の城には左右対称なものは少なく、金閣寺(鹿苑寺金閣)、銀閣寺(慈照寺銀閣)も左右非対称、神社の狛犬は、口を開いている阿形と口を閉じている吽形が左右にあって、これも非対称。同様に、仁王門の阿形と吽形もしかり、庭園や書院造りも完全な非対称である。

 例外として、古代建築では五重塔は建坪に対し高さがあるため、重心のバランスから左右対称、あるいは回転対称とする必然性があった。一方、国会議事堂や迎賓館はほぼ左右対称だが、これは列強に追いつくべく、西洋建築を模倣したためと考えられる。

 その他、俳句は5-7-5、短歌は5-7-5-7-7、都々逸(どどいつ)は7-7-7-5と、奇数の句の集合体である。

 古来からの仏教建築では、舎利を納める五重塔が有名だが、その他、優美でリズム感のある薬師寺の東塔、西塔も三重塔である。

 その薬師寺の本尊である薬師三尊も、中央に薬師如来、左右に非対称の日光菩薩と月光菩薩を随え3体で構成されている。

 同じく、法隆寺の釈迦三尊も中央に釈迦如来、左右に両脇侍(きょうじ)像を配しているが、これも左右非対称である。

 実は、これは古代中国の陰陽道の影響と考えられる。

 陰陽道では、奇数が陽で偶数が陰となっている。西洋文化の影響を受けた現代の感覚からするとやや違和感がある。

 しかし音楽のリズムを例にすると、通常一拍目が強く二拍目が弱い(この逆を裏拍という)。ここから奇数が陽であると理解するに無理はない。

 つまり陽が正で陰が負と考えられ、尊いこと、あるいはめでたいことを表現するのに陽を用い、その逆を陰とした。

 もっとも、「八」を末広がりと形容したり、先に触れた双璧や六歌仙、四天王など、偶数をよしとする例外もある。

 いずれにしても、日本文化は無常や時や形の移ろい、ひいては不完全なものに美を感じる文化とも言える。

 これに対し、西洋文化は偶数文化と表現できよう。

 パリのルーブル博物館、凱旋門、シャイヨー宮、ロワール渓谷のシャンボール城、ロンドンの大英博物館、バッキンガム宮殿、ベルリンのブランデンブルク門、ウィーンのシェーンブルン宮殿、アメリカ連邦議会議事堂、ホワイトハウス、イタリア庭園等々、左右対称の建築物は枚挙にいとまがない。ちょっと古風な西洋の部屋のしつらえでも、マントルピースを中央にして、絵や写真を左右対称に飾った光景を目にすることも多いのではなかろうか。

 日本では、左右対称の古い建築物といえば京都の平等院鳳凰堂ほか数えるほどである。これは、「この世をば わが世とぞ思ふ望月の かけたることもなしと思へば」と詠んだ藤原氏一族の世界観からすれば、完全無欠、つまり欠けてはいけないという理想論の具現化したものといえよう。

 別の見方をすると、日本文化が自然界に依存、あるいは自然界と共存する文化であるのに対し、西洋文化は自然を支配する文化とも言えるようである。 

 これは、それぞれ民族の置かれた環境の違いに依拠していると考えられる。

 紀元前から西洋・中国の小麦農業は牧畜を伴い、人口増加につれ森林を伐採、開墾し、作付け面積を増やし家畜を増加させていくので、自ずと自然は破壊される。こういう生業からは、人間は自然界を「支配する」と考える文化が生まれやすいのではなかろうか。

 人が作るものは、左右対称の同じ物が幾つでも容易に作れるので、偶数が馴染みやすい。ところが、日本の縄文人の生業は、魚猟・採集、弥生時代は稲作・養蚕が主。これは、人は自然界に頼らないと生存できないので、自然の循環との共生を大切にする生業を選択した結果ではないかと考えられる。自然界を観察すると、左右対称のものはごく稀である。このような自然を崇拝する日本人の心性から、「奇数」の文化が生まれたという見方もできよう。

 閑話休題。

 デジタル=digitalの語源については、語源⑩「アナログとデジタル」を参照されたい。 

 さて、ローマ数字のⅤはアラビア数字の5だが、これは片方の掌を広げた形、Ⅹはそれを二つ上下に合わせた形で10を表現したとされている。

 12345678910
ギリシャ語mono モノdi ジtri トリtetra テトラpenta ペンタhexa ヘキサheptaヘプタocta オクタnona ノナdeca デカ
ラテン語ūnus               ウーヌスduo                  ドゥオtrēs                 トレースquattuor            クァットゥオルquīnque           クィーンクェsex                  セクスseptem           セプテムoctō                 オクトーnovem            ノウェムdecem             デケム

 化学用語では、数詞としてギリシャ語がよく使われている。

 ジメチル=dimethyl の「ジ」やトリニトロトルエン=trinitrotolueneの「トリ」、テトラサイクリン=tetracyclineの「テトラ」はその例である。

 モノラル=monaural 、モノレール=monorail、モノローグ=monologue、等の「モノ」はギリシャ語の「1」を表すmono-から派生しており、日本語では「単一」、「独」といった字が当てられている。

 ペンタゴン=pentagonは5角形の意味だが、建物の形からthe Pentagonは米国の国防総省を指す。函館の五稜郭もいわば和製pentagonである。

 最近流行りのDHA=docosahexaenoic acidはドコサヘキサエン酸と和訳されるが、hexa-=6つの二重結合を含むdocosa-=22個の炭素鎖をもつカルボン酸の意味である。

 ヘプタン=C7H16は炭素鎖の7からつけられた液体の名前である。

 また、「オクタ」はオクトパス=octopus やオクタン=octane、オクターヴ=octave(8度音程) の派生語に使われている。

 「ノナ」はnonagon=9角形などに使われるが、「ノナ」から派生した「ナノ」のほうがなじみ深い。ナノテクノロジー=nanotechnologyはナノメートル(1×10-9m)レベルの物質を扱う技術を指す。

 「デカ」はデカメートル=decameter(10メートル)の語源であるが、日本ではあまり使われない。100年をcenturyというのに対し、10年をdecadeというが、これも日本ではあまり馴染みがない。

 しかし、ボッカチョ作「デカメロン」=十日物語や、いまでは12個を意味するダース=dozenもdeca-から派生した言葉である。

 さて、次にラテン語の数詞の派生語について。

 ūnusからuni-という言葉ができ、ユニフォーム=uniformやユニーク=unique、UN=国連のユニオン=union、ユニクロ=UNIQLO等が挙げられる。

 ひとつ、唯一、単一、同一といった意味がある。

 「ウニコ」というブランドがあるが、この社名はスペイン語で、「唯一、ユニーク」を意味するunicoに由来している。磁器などでも、大量生産したものに対し、「一点もの」を意味するunicoという言葉がよく使われる。

 ちなみに、ユニクロの社名はUNIQUE CLOTHING WAREHOUSEの略だが、そうであればUNICLOのはずだが、登録の際、何かの手違いでCがQになったものの、それがかえって面白いとそのままUNIQLOの商標になったそうな。

 デュエット=duetやデュオ=duoはもちろんふたつ、ふたりの意味のduoから派生しているが、意外にもジレンマ=dilemmaもふたつの矛盾することが同時に起きている様を表している。

 このduo-以外に、2を意味するラテン語の接頭辞「bi-」の英語読みとして、「バイ」というのがある。

 バイリンガル=bilingualやバイメタル=bimetal(サーモスタットに使われている熱膨張率の異なる2枚の金属を張り合わせたもの)、またバイアスロン=biathlon(ふたつの競技を合わせたもの)、ひいてはバイシィクル=bicycle(輪=cycleをふたつ繋いだもの)も派生語である。エヴィデンスは確認できないが、個人的には、副を意味する英語の接頭辞by-、例としてside by sideやbypass等があるが、日本語では「並」「並んで」が相当し、bi-と同じ語源ではないかと思われる。

 trēsはギリシャ語のtriと似ていて、たとえば3人組のトリオ=trio、三角形=triangleやトライアスロン=triathlon(3種の競技を合わせたもの)などの派生語がある。

 quattuorは、四重奏のカルテット=quartet 、4輪駆動の車のクワトロ=quatro、英語の1/4を表すクォーター=quarter 等の語源となっている。

 quīnqueはなかなか派生語が浮かばないが、五重奏のクィンテット=quintet

はその派生語である。歯科関係の出版社でクィンテッセンス=Quintessenceがあるが、これは直訳すれば「5つの元素(要素)」だが、ギリシャ語の四大元素「空気・火・水・土」に続く、ラテン語で「第5の元素(要素)」を意味する。

 septemは7、octōは8を意味し、ともに7番目の月=September、8番目の月=October の語源だが、現在ではそれぞれ9月、10月を指す。

 一説に、ジュリアス・シーザー=Julius Caesarが自身の誕生月の7月=Julyを、そしてその後継者のアウグストゥス(オクタヴィアヌス)=Augustusの誕生月の8月=Augustをそれまでの10カ月に入れたため、2カ月ずつずれたというのがあるが、これはどうやら誤りのようである。

 現在の暦の元になっているのは、紀元前8世紀頃のロムルス暦。この暦では、1年は3月=Marchから始まる10カ月だった。これには、当時の主要産業である農作業の始まりに合わせたとの説がある。それによると、Septemberは文字通り7番目の、Octoberは8番目の月だった。しかしその後、太陽の周期に合わせて12の月があるヌマ暦が使われ、1年の始まりに1月と2月の2つの月が加わった。そのため、双方とも2つずつずれて7月→9月、8月→10月となったというのが有力である。

 10を意味するdecemの派生はギリシャ語のdecaに準ずるがこれは先に触れたので割愛する。

 数詞に関する語源は数々あり、数え上げればきりがない。

そうだったのか語源㉕   -動物にまつわる言葉 その2-

テーマの対象が思いの外広かったので、急遽2回に分けた。

今回はいわば番外編なので、整理しにくいものを雑駁ながら挙げてみよう。

その前に、何故大人になると動物から植物に関心が移る傾向が多いのか、考えてみたい。

動物は動きが比較的俊敏、あるいは確認しやすい、一方植物は反応が緩慢、あるいはわかりにくいという点では、まずはコンセンサスが得られよう。

自分のことを振り返ってみると、こちらで何か働きかけをして、即座に反応を確認、あるいはそれによる満足を得ようとするのが、子供ではないだろうか。

誤解を承知で言うならば、そういった経験を何度となく繰り返しているうちに、その後の変化に予測が働き、意外性を排除するようになるのが大人ということではなかろうか。

また、3歳にとっての1年は人生の1/3であるのに、私の例で言えば当年66歳にとっての1年は1/66である。

分母が大きい分、この分数の値、つまり変化量は小さくなる。年齢を重ねるにつれ、人間が保守的になるのは、ある意味生理的にも整合性があるのかもしれない。

逆に、歳をとっても冒険的革新的な生き方をしているのは、精神的に青年をつら抜いているとも言える。

人間保守的、あるいは保身的になったらそれはある意味死に近づいたということなのかもしれない。

閑話休題。

さて、リスは英語ではsquirrelだが、これには動詞で「ため込む、隠す」という意味がある。おそらく、リスが頬袋に木の実などをため込む様子からできた動詞だと考えられる。

ちょっと発音が似ている言葉に(やや強引か)、スキャロップ=scallop、日本語ではホタテ貝がある。

scallopはその他、波型模様、カーテンやテーブルクロスの扇型模様、そして歯科分野では歯と歯肉の境目の波型模様をも指す。ホタテ貝の貝殻の縁の形状から派生した意味だと思われる。

ホタテ貝から、話は水の中に移る。

軟体動物のタコは英語でoctopusだが、これはラテン語のocto=8とpous=足からなり、直訳は「8本足」ということになる。オクターヴやガソリンのオクタンも8が語源となっている。

「海老で鯛を釣る」とは、「わずかな手間(資本)で大きな利益を得る」意味だが、エビも高価では?と思わないだろうか。実はこの場合のエビは、伊勢エビなどではなく、餌に使う安い小エビを指す。

「鯖を読む」とは、「数をごまかす」という意味に使われる。

これは江戸時代、足が早く(=腐りやすく)大量に獲れた安価なサバを数えるのに、時間がかけられないため、適当に数えたところからできた諺である。

ついでに、「足が早い」とは。

「脚=足」は、「雨脚」「日脚」「火脚」等に使われるように、物事が時間とともに変化していく様を表す。足で移動することから時間の移動、つまり経過にも使われるようになったようである。つまり、「足が早い」とは、「新鮮な状態から腐敗するまでの時間が短い」となったのであろう。

海外に目をやると、イタリアにサルディニア(イタリア語: Sardegna)という島がある。この周辺の海では昔からイワシがよく獲れた。そのため、イワシの英語名sardine=サーディンはこの島の名に由来しているとか。

魚関連で、服地にヘリンボーン-herringboneという模様がある。V字形や長方形を縦横に連続して組合せた柄だが、これは開きにした魚の骨の形状に似ているところから、ニシン=herringの骨=boneという意味からつけられた呼び名である。

服地の話のついでに、ドスキンという生地がある。昔の軍服などに使われていた、目のつんだビロードのような光沢の厚手の織物を指す。doeskinと書くが、前回㉔で触れたdoe=雌ジカの(なめし)skin=皮のことであるが、一般的にはこの雌ジカの皮に似せて作られた厚地紡毛織物をいう。

ちなみに、moleskin=モールスキンは厚手の綿織物のことで、mole=モグラの皮のような肌触りからつけられた。個人的には、キウイフルーツの感触に似ていると思うがいかがか。

その他、動物の毛皮を使ったものではsealskinがあるが、これはオットセイやアシカの毛皮を指す。

英語のtunaは、スズキ目サバ科マグロ属のマグロやカツオを指す。ちなみに、sea chicken=シーチキンは日本のある会社の商品ブランド名であるが、マグロの食感が鶏のささみに似ていることからつけられたとされるが、まさに言い得て妙である。

話は細菌の名前に移る。

食中毒の原因菌であるサルモネラ菌=Salmonellaは、発見した細菌学者、Daniel Salmon=ダニエル・サーモンにちなんで名付けられた。

サーモンはもちろんサケ目の魚サケのことである。だから、サーモンさんは日本語では鮭さんである。

サーモンのスペルはsalmonで、-l-はサイレントで発音しない。

通常、細菌の命名には、発見者の名前に接尾語として-ellaをつけることが多い。

Salmonに-ellaをつけSalmonellaとなり、この場合は-l-はサイレントではなくなり、サルモネラと発音する。

ちなみに赤痢菌はShigellaというが、これは発見者の志賀潔のShigaに-ellaをつけた命名である。

クレブシエラ(Klebsiella pneumoniae)という肺炎の原因菌は、発見者であるドイツの細菌学者Edwin Klebs=エドウィン・クレブスの名をとった命名であるが、これも-ellaがついている。ちなみにKlebs=クレブスは、ドイツ語で悪性腫瘍を意味するが、疾病であるものの、これは発見者とは関係がないらしい。

ついでに、がんは英語でcancer というが、ドイツ語のKlebs同様、カニのことである。ギリシャ語の「カルチノウス」が語源で、これは乳がんにおいて、ちょうどカニが手足を広げたような硬いしこりを表面から触れる様を表現したものされている。

さて、カニは漢字で「蟹」と書き、甲殻類なのに「虫」がついている。

同様にヘビは漢字で蛇、カエルは蛙と書く。これらはなぜ虫編か。

実は、「虫」という字は、ヘビが鎌首をもたげた形からできた象形文字である。それゆえ、ヘビの仲間である爬虫類(ここにも虫が出てくる)の生物を表すのに、この字が使われている。つまり、うねうね、くねくねしたもの、あるいは足の多いものに爬虫類のイメージが当てられ、虫編がついている。蛙(カエル)や先に出た蛸(タコ)等もその例である。

ちなみに虹に虫編がついているのは、天を渡る龍(ヘビの仲間)のイメージからつけられたものと考えられている。

では、いわゆる昆虫の名前に使われている「虫」はというと、本来は「蟲」の字が使われていた。虫がうじゃうじゃ蠕いているイメージを表したと考えられる。それが略されて「虫」となった。

引き続き虫にまつわる話題を。

最近では、フリマと呼ばれるフリーマーケット。自由に出品できるからfree marketと思いきや、実はスペルが全く違う。正しくはflea marketである。このような誤解を生じるのは、l とrの発音を正しく区別できない日本人の残念なところである。fleaは節足動物のあのノミのことで、つまり「蚤の市」のことである。ではなぜノミなのか。

時代は遡り、フランスの第2帝政時代(1852-1870)に、パリの中心街を軍隊が行進出来るように大通りにしようと再開発が行われた。それにより、スラム街や古い商店は取り壊された。売り場を追われた商人たち(大半は中古品を売っていた)はパリの北部、 ポルト・ド・クリニャンクール(Porte de Clignancourt)で市を立てることを許可され, 1860年に初めて売店が登場した。要するに、中古品を売っていたのでノミがいるだろうということから、やがて人々はその市を marche aux puces(market of flea) 「蚤の市」と呼ぶようになったというのが名前のいわれである。

似たものついでに、バッタもんとは「正規の流通ルートで仕入れたものではないもの」あるいは偽物を指す。

この「バッタ」には多くの説があるが、説得力のあるものを幾つか紹介したい。

不況などでバタバタと倒産した商店の品物を、一括で大量に安く買う業者を「バッタ屋」といい、そこからバッタもん(物)というようになったという説、

バッタがいそうな道端で拾ってきたような物を売るからという説、場当たり(バッタ)的に入手した物を得るからという説、バッタのようにあちこちに店を移転するからという説等。それぞれさもありなんという感がする。

空を飛ぶ点では似ているセミ。意外なことにカメムシ目セミ科の昆虫。

ミンミンゼミ、ニイニイゼミとか、鳴き声から命名されているものはわかりますい。

一方アブラゼミは、羽根の感じが油紙に似ているからという説や、鳴き声が油を熱したときに撥ねる音に似ているからという説がある。

どことなく物悲しさを感じるヒグラシの鳴き声。子どもの頃、山で聞くこの鳴き声が夏休みの終わりを予感させ、一抹の寂しさを覚えた。

ヒグラシとは、日暮れ時に鳴くことから「日暮らし」と名付けられたそうである。

羽根があるついでに、嫌われ者のゴキブリについて。

明治時代までは「ゴキカブリ」と呼ばれていた。漢字では御器噛と書く。今でも関西では「ゴッカブリ」と呼ぶ地域もあるようだ。これは何にでもかぶりつくという意味で、蓋つきのお椀(=御器)をかじる虫という意味から来ている。ゴキブリの異名には「コガネムシ(=黄金虫)」というのもあり、「コガネムシは金持ちだ」という童謡の「コガネムシ」はゴキブリを指し、ゴキブリが増えることは財産家の証しという言い伝えがあったようである。

話はより上空を飛ぶ鳥に移る。

トビ職(鳶職)とは、トビのように優雅に高いところを飛び回るからついた名前ではない。彼らが持っている鳶口に由来する。鳶口とは、トビのくちばしに似た爪を先端に付けた長い棒のことで、木を引き寄せたり消火作業等に使われていた。

「獲物になる」「食い物にされる」ことを、「カモになる」「カモにする」という例えはどこからきたのか。

カモの代表格であるマガモは、形も大きく味も良く、さらに数も多かったためとても捕まえやすく、料理にはもってこいの材料だったことからこの表現が生まれたようである。

また、鴨肉は多少の癖があるため、甘みのある冬ネギと合わせると相性が良かったことから、良い話にさらに好条件がつくことを「カモがネギ背負ってくる」と言うようになったとか。

さて、鳥にやや似ているコウモリについて。

「あいつはコウモリだから」といった比喩に使われることがある。

これは、イソップ童話の「卑怯なコウモリ」からの引用である。獣一族と鳥一族の戦争で、前者が優勢のときは「私は全身に毛が生えているから獣の仲間です」と言い、後者が優勢似なると「私には羽があるから鳥の仲間です」と言って、最後に双方から卑怯者扱いされたという話から、態度のはっきりしない卑怯者を指す比喩となった。

ちなみにウィルスの自然宿主によくコウモリが挙げられるが、行動範囲が広いこと、冬に冬眠しウィルスを温存させやすいこと、温度変化の少ない不潔な環境に暮らすこと等が原因とされている。

それにしても、COVID-19の1日も早い収束を願うばかりである。

最後になぜか羊羹について(実は何を隠そう私の好物である)。

「羊羹」の「羹」は訓読みで「あつもの」と読み、とろみのある汁物を指す。中国では「羊羹」という言葉は羊の肉やゼラチンを使ったスープを示す。

日本には、鎌倉から室町時代に中国に留学した禅僧によって点心(食事と食事の間に食べる間食)の一つとしてもたらされた。しかし、禅僧は肉食が禁じられていたため、小豆や小麦粉、葛粉などの植物性の材料を使い、羊肉に見立てた料理がつくられたそうである。

そうだったのか語源㉔   -動物にまつわる言葉 その1-

今回は、昆虫も含め動物をターゲットとしてみたい。

そもそも植物に対する動物とは、と言う前に、まずは両者の共通点を確認しておきたい。

単刀直入に言うと、糖を燃焼させることにより代謝に必要なエネルギーを得ること、である。

違いは、植物はこのエネルギー源である糖を自らの代謝システムで作り出すことができるのに対し、一方の動物は、他の生物(植物、生物)を摂取し同化(吸収し、栄養とする)することで、そこから得た糖をエネルギーとする。

まずは、人間にとって馴染みのある動物の代表、イヌから始めたい。

「犬」という漢字は、耳を立てたイヌを横から見た姿を表したれっきとした象形文字である。似ているものの「大」とは全く関係がない。

犬死という言葉がある。

イヌは古来より、「家臣、家来」に意味を持っていた。

家臣は忠義のため、時として主君のために死ななくてはならなかった。

一方主君、あるいはひとかどの武士は、そう簡単には死ねない。

「ひとかどの武士は、そんな家来のような死に方はできない」という意味から、「家来のような死に方」を犬死と言うようになったそうである。たぶんにヒエラルキーの匂いがする。

このように、「イヌ」には(主君から)一段下に見た意味で使うことがある。

イヌツゲ、イヌタデ、イヌマキ、イヌビワ等、本来の植物から見て役に立たない、あるいは劣っているという意味で用いられるようである。一説には、「否(いな)」から「イヌ」に転化したとも。

次に、同様に馴染みのあるウマにまつわる言葉について。

「馬耳東風」にある馬とはいかに。

前者は、中国唐の詩人李白の「世人之を聞けば皆頭を掉(ふ)り、東風の馬耳を射るが如き有り」という詩に由来している。東風とは春風のことで、人は春風が吹けば寒い冬が去って暖かくなると思って喜ぶが、 馬は耳をなでる春風に何も感じないという意味である。ウマが本当に春風を感じないかは定かではない。

同様の意味で「馬の耳に念仏」という諺があるが、ありがたい念仏を馬に聞かせても理解できないから無意味ということだろうが、それならウマでなくてもネコやブタでも良さそうなものである。と思いきや、似たようなものに「猫に小判」「豚に真珠」というのがあった。組み合わせは、「馬に小判」でもまんざら見当違いとは言えまい。

タヌキ、キツネは、昔話や童話にもよく登場する。

これらの動物を比較対象とした時、どんなイメージが浮かぶだろうか。

双方ともイヌ科の動物だが、タヌキはお人好しで少し間がぬけている、一方のキツネは小利口で意地悪なイメージだろうか。顔の形と体つき、そして身のこなし方から来るのかもしれない(タヌキはたれ目ではないが、目の周りの模様でそう見えるだけ)。

タヌキは漢字で獣偏に里と書くが、雑食性でまさに里山といった、人間のテリトリーに近いところに棲息する。一方のキツネの語源は諸説あり、その一つは、「きつ」は鳴き声から、「ね」は接尾語的に添えられたものとされる。また、「き」は「臭」、「つ」は助詞、「ね」は「ゑぬ(犬)」が転じたもので、臭い犬の意とする説、「きつね(黄猫)」の意とする説、体が黄色いことから「きつね(黄恒)」とする説など、諸説ある。

日本の神話ではキツネは神聖なもの、イソップではキツネは狡猾なもの、といった固定概念はあるようだ。

神道では、「神使はしめ」と言ってキツネを稲荷神の使いの動物としている。このへんから、キツネは昔から特殊な能力を持っている動物として扱われている。「狐憑き」などは、このあたりと関係ありそうである。

さて、馬鹿とは「梵語のmoha =慕何(痴)、またはmahallaka =摩訶羅(無智)の転で、僧侶が隠語として用いたことによるという」と説明されている。

ただ、なぜmoha =慕何、mahallaka =摩訶羅が、バカになるのかという疑問は存在する。他にも、漢字で「破家」と書き、これは家財を破るの意で、家財を破るほどの愚かなことの意からという説である。また、中国の史書『史記』には、秦(しん)の始皇帝の死後に丞相(じょうしょう)となった宦官(かんがん)の趙高(ちょうこう)が、おのれの権勢を試すために、二世皇帝に鹿を献じて馬だと言い張り、群臣の反応を見たという話によるという説もある。

さて、やや堅苦しい故事で、「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」というのがある。「えんじゃく いずくんぞ こうこくの こころざしを しらんや」と読む。

中国前漢時代(紀元前206年~8年)の歴史家・司馬 遷(しばりょう)が編集した歴史書で、正史「二十四史」の「史記(しき)」に残っている。

「燕雀」とはツバメとスズメで庶民を指し、「鴻鵠」とはコウノトリとハクチョウのことで大鳥を象徴でしている。要するに、ある地位にいる者の気持ちや志は、庶民には理解できまいといった、これも多分にヒエラルキーの匂いのする諺である。

ある政権が任期の終焉を迎え、実績が伴わなくなると、レームダック=lame duckという表現が使われる。直訳すると「足の不自由なアヒル」であるが、役立たずの政治家や、死に体を表す。もともとは、ロンドンの株式市場で大損した人を指したらしいが、足が悪く群れについて行けず、外敵の餌となる運命のアヒルを例えたもので、「先が見えている」というニュアンスが感じられる。

身代わりになることをスケープコート=scapegoatという。

scapegoatは “the goat allowed to escape”、直訳すると「追放されたヤギ」となるが、贖罪(しょくざい)のヤギを指す。古代ユダヤでは贖罪の日にヤギに人々の罪を負わせ, 野に放ったことからできた言葉である。

似ている言葉にsacrifice=生贄(いけにえ)という言葉があるが、厳密には身代わりとは異なり、「捧げる、神聖なものとして拝する、不死にする」という意味のラテン語“sacrare”に由来している。

チキン=chickenは鶏で、特に若鶏やヒヨコを指すが、形がそれと分かれば鶏肉も指す。

ちなみに英語では、動物のオスとメスで、呼び名が異なる場合がある。

雄鶏はcock(あるいはrooster)で雌鶏はhen、クジャクもオスはpeacockでメスはpeahen、ライオンもメスライオンはlioness、牛のオスはox(あるいはbull)、メスはcowとなる。

また、有名なミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」の「ドレミの歌」の一節「Doe, a deer, a female deer」でも、雄ジカはdeer(あるいはシカの総称)で雌ジカはdoeとなっている。これが「ドレミ」の「ド」である。

bullが出たついでに、金融業界で使われる言葉に、ブル(bull)とベア(bear)というのがある。ブルは雄牛の意で、角を下から上に突き上げることから上昇相場を表し、一方のベアはクマで、爪を上から下に振り下ろすことから下落相場を表す。ちなみに、春闘で聞くベアとは「ベースアップ」の日本語独自の略語である。

日本語のワニに相当する英語には、クロコダイル= crocodileとアリゲーター=alligator、そしてガビアル(ガビエル)=gavial=がある。

クロコダイルが大型のワニ、アリゲーターはそれより小型のワニ、ガビアルは口の細長いワニを指す。さらにクロコダイルとアリゲーターの違いを言えば、鼻先がV字に尖っている、牙が顎から飛び出している、体を持ち上げて歩くのがクロコダイル、鼻先が丸みを帯びている、牙が顎の中に収まっている、そして体を引きずって歩くのがアリゲーターとなっている。だが、ワニと遭遇しパニックになっているとき、パッと見ただけでどのワニかすぐに区別できるかは疑問である。「ワニ図らんや」である。

同じく川に生息する動物にカバがいる。

カバは英語で hippopotamus だが、お恥ずかしい話、これまでずっとhypopotamusだと思い込んでいた。己の過ちを他に転嫁してはならないが、これは学生時代、解剖学で視床下部をhypothalamusと学んだことによる弊害である。hypo-は下の意、thalamusは視床を指す。potamosはギリシャ語で川の意で、川の下(中)に棲んでいるからと、勘違いしていた。実はhipposは馬で「川に棲む馬」という意味のようである。日本語でも漢字で「河馬」と書く。ちなみに、英語ではカバのことを通称hippoと呼ぶ。

ちなみに、脳に記憶に関わる「海馬」(イタリア語:hippocampus)という部分がある、hippoはウマ、campusは海の怪物を指し、つまり前がウマで後ろが魚の怪物のことで、この後半の形が似ているところから名付けられたようである。別に、海馬はタツノオトシゴ、またトド等アシカ科の動物の総称を指す場合もある。

怪物との関係は微妙であるが、dinosaur=恐竜について。

ギリシャ語の”deinos” (巨大な)と “sauros”(トカゲ、あるいは爬虫類)からの造語である。

日本語では、「とんでもなく(恐ろしく)偉大なは虫類」と命名した。 その「恐ろしく」という副詞が、「恐ろしい」という形容詞にすり替えられて、「恐竜」という言葉が生まれた。

ここの名前では、「–ザウルス」という接尾語がつく場合は、dinosaurの形容詞がついた名前と考えれば良い。

一方で、「—ドン」という接尾語の場合は、ギリシャ語のodont=歯に由来し、歯に関係しているものが多い。

イグアノドンは、「イグアナの歯」という意味で、その歯の形がイグアナのそれに似ているために命名されたという。

ちなみに翼竜のプテラノドン=ラテン pteranodonも名前にodon-が入るが、この場合は少し意味が異なる。ギリシャ語のpteron=翼と否定辞のan-、「歯」のodont-とから成っているため、プテラノドンは「翼はあるが歯はない恐竜」という意味である。ちなみに解剖学では、頭蓋骨の蝶形骨翼状突起はラテン語でProcessus Pterygoideusで、pteronと同源である。

その他、トリケラトプスなど、「—オプス」とつくものも多く存在している。こちらは、ōps =顔を意味しており、顔に特徴があるのが共通点だといえる。

トリケラトプスは、ギリシャ語のtri-=3、kéras=ケラス、ōps=オプスという3つの語から成り、「3つの角の顔」という意味である。

角質のことを「ケラチン」というのは、ケラスと同源である。

恐竜と繋がりがあるとすれば大きいところだろうか、工事現場の重機の名で、あまりに日常に溶け込みすぎて、語源が意外なものがある。

まずクレーン。英語ではcraneと書き、元々は鳥のツルのことである。確かに腕の部分がツルの首、資材をつかむ部分がツルのくちばし、長い腕がツルの首に似ている。

そしてキャタピラ。ブルドーザーなどのタイヤにあたる部分だが、日本語では無限軌道という。その意味ではタイヤも無限軌道の一つと言えなくもないが、ここで拘泥するのはやめよう。英語でcaterpillarと書き、元は毛虫、イモムシのことである。イモムシの無数の足が動くのに似ているので合点がいく。

指で長さを測るとき、親指と人差し指をコンパスのようにして広げては閉じてを繰り返す。ちなみに私の場合は17cmである。これとよく似た動きをする虫を、日本語では尺取り虫という。英語でもinchwormという。ウォームギアのwormもイモムシやミミズのことで、確かに動きは似ている。

さて、蝶は英語でバタフライ=butterflyというが、このバターとは何を意味するのか。

諸説あるが、魔女が蝶の姿になってバターやミルクを盗むという一説、また蝶の排泄物の色がバターに似ているからという説もある。

前者にはロマンを感じ、後者には現実的な観察眼を感じる。

欧米人は、とにかく百獣の王ライオンが好きらしい。

先にも触れたが、英語圏ではオスとメスで呼び方が異なり、ライオン一般とオスライオンはlion、めすはlionessである。

Leo-はネコ科の動物を指すらしい。ヒョウはleopardだが、ダ・ビンチも含め、とにかく欧米ではLeonard Leopold Leonid等、Leo-という、ライオンにちなんだ名前がとにかく多い。強さや権威の象徴といえよう。

ライオンと並んで、欧米でよく使われる名前に、ハトがある。

日本でも鳩山、鳩といった名字があるにはあるが、さほど多くはない。

が、日本のことを大和と称するように、コロンビアという名は、アメリカの別称・雅称として多用されている。これは、アメリカ大陸の発見者、クリストファー・コロンブスに由来する。語源のColomboは、イタリア語で「ハト」を意味する単語である。

その他、「コロンビア」は国名やアメリカのコロンビア特別区にも、また、スリランカの首都、そしてドラマの「刑事コロンボ」にも派生語は使われている。平和のシンボルとして名付けられたのではないだろうか。

ただ、スリランカのコロンボの場合、名称の由来はシンハラ語で「マンゴーの樹の茂る海岸」を意味する「Kola-amba-thota」がポルトガル語でのクリストファー・コロンブスの名であるコロンボに置換えられたものだという。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そうだったのか語源㉓   -植物にまつわる言葉-

 今回は、植物にまつわる名前に触れてみたい。ガーデニングが趣味の私ゆえ、少々話が長くなりそうな気がする。いや、少々では済まない気がする。ご容赦を。

まず、ここ前橋にゆかりのある植物から、桑(クワ)について。

前橋近郊は古くから養蚕が盛んで、上毛カルタでも「県都前橋糸の町」と謳われているように、前橋は絹糸の集積地だった。

かつては、カイコの餌となる桑はいたるところで栽培されていて、小学校の児童が学校からの帰りしな、桑の実であるドドメ(英語ではマルベリー)を摘んで口の周りをそれこそドドメ色にしていたものだった。ドドメというと今では桑の実を指す名前となっているが、実は桑という植物自体を指す名前だったようである。

桑は地中深く根を張り土をしっかり掴むため、川の土手に決壊防止のために植えられたそうで、土手桑と呼ばれていた(桑の種類かもしれない)。つまり、土留め、ドドメとなったようである。

「葦」「芦」「葭」「蘆」の漢字が当てられているヨシ。屋根を葺く材料にも使われる。実はアシとも読む。パスカルが「人間は考える葦である」と言ったアシである。「アシ」が「悪し」に通ずるのを忌み嫌って「ヨシ」と言うようになったそうな。

さて次に、他のものから連想してつけられた植物の名前を幾つか挙げてみたい。

まずはスミレ。

花は独特の形で、ラッパのような形の花を横向きかやや斜め下向きにつける。5枚の花びらは大きさが同じではなく、下側の1枚が大きいので花の形は左右対称になる。つまり、多くの花のような回転対称ではない。この花の形が大工さんが使う墨入れ(墨壺)を思わせることから、墨入れ→スミレとなったいう説を牧野富太郎が唱え、広く一般に流布している。定説とは言えないようであるが、しかしよく似ている。

次にハス。古名ではハチス。

これは、ハスの花托(花柄の上端にあって,花弁めしべなどをつける部分)が蜂の巣の形に似ていることからとされている。ハスはその転訛。ジョウロの先の部分もこれに似ているので、ハス口という。

ハスに触れたついでに、レンゲについて。

レンゲとは一般的に草原に咲くレンゲ草のことを指す。

このレンゲは、蓮華あるいは蓮花と書き、つまり小さいながら花の形がハスのそれに似ているところから来ている。ちなみに、童謡の「ひらいたひらいた」に出てくる「レンゲの花」とはレンゲ草ではなくハスの花のことで、早朝に花を開き、昼には閉じてしまうハスの生態を歌っている。

余談ながら、レンゲ草は最近あまり見かけなくなったが、代わって草原でよく見かけるシロツメクサ、いわゆるクローバー。レンゲ草と同じくマメ科の植物で、白いが花の形はレンゲ草によく似ている。原産地はヨーロッパで、江戸時代にオランダから輸入したギヤマン(ガラス器)の箱に乾燥したこの草をクッション材として入れてあったため、この名が付けられたそうである。つまり、漢字では白詰草である。

他に形が似ているところから命名された植物としては、カエデ、ナツメ(棗)、ビワ、ギボウシ等がある。

カエデはカエルの手に似ていることから「カエルデ」と呼ばれ、それが転訛したものとされている。

ビワ(枇杷)は、意外にもサクラやウメと同じバラ科の植物である。ただし、これらと異なるのは常緑樹であること。

植物のビワは、実は楽器のビワの形に似ていることから付けられた名前だそうである。

楽器の琵琶(びわ)はヨーロッパの楽器リュートと起源が同じく、形もよく似ている。

2世紀頃に書かれた中国の字書「釈名(しゃくみょう)」に以下のように記載されている。ちなみに釈名は語源の字書である。

「枇杷はもと胡(こ)(中央アジア)の地に出(い)づ。前に押してひくのを枇(び)といい、手前にひくのを杷(は)という」

ピインとはね、パアンとかきならすのでピパ。これがピハ→ビワと変化したといわれている。

琵琶の胴(どう)が木でつくられるので木偏をつけて「枇杷」と書き、のちに琴の一種というので「琴(こと)」の字の上をそろえて「琵琶」と書くようになったという。

植物のビワが楽器の琵琶から独立して「枇杷」と表記されるようになったのは、5~6世紀頃ではないかと言われている。まさに枇杷が栽培されだした頃と同じ時期である。湖の琵琶湖も琵琶に似た形に由来している。

ジキタリスは、「そうだったのか!語源⑩ −常用の外来語 その2− アナログとデジタル」で触れているが、花の形がdigit=指の形に似ていることに由来している。詳しくは、語源⑩を参照されたい。

蕾の形が、橋の柱の頭部についている宝珠形のギボシという装飾に似ていることから名付けられたギボウシ。欧米に輸出され、ホスタの名前で園芸植物といて重宝されている。他に、葱帽子(ネギボウシ)から転訛したという説も。

ナツメは、夏に入って芽が出ることに由来するそう。ちなみにナツメヤシは果実の形が似ていることから。

茶道具の棗(なつめ)は抹茶を入れる容器だが、その形がナツメの実に似ていることから、名付けられたと言われている。

私は、「あの子はだあれ、だれでしょね、なんなんナツメの花の下—」の歌に妙に興味を惹かれ、庭にナツメの木を植えている。サクランボのような実は愛らしいが、それに似合わぬ鋭いトゲに閉口する。

さて、誰でもご存知、タンポポの名前の由来には諸説ある。

一つは、種の冠毛(かんもう)が丸く集まっている様子が、綿を丸めて布などで包んだ「たんぽ」に似ていることから、「たんぽ穂」となり、それが転訛したという説。

他に、田んぼのあぜ道などによく生えていることから、昔は「田菜」と呼ばれていて、その「たな」が「たん」に変化し、それが綿毛がほほけることから「ほほ」と結びついてたんぽぽになったという説もある。

さらに、たんぽぽの茎の両端を細かく裂くと、反り返って鼓のような形になることから、別名「鼓草(つつみぐさ)」と呼ばれていたり、鼓をたたいたときの「タンタン、ポンポン」という音がたんぽぽの名前の由来になったという説も。

やや似ているところでペンペングサは、春の七草の一つであるナズナの別名である。

まずナズナだが、名前の由来は諸説ある。

早春に開花して夏になると枯れることから「夏無き菜」、つまり夏無(なつな)から変化したという説、撫でたいほど小さく可愛い花(菜)の意味の「撫で菜(なでな)」から転訛したという説、あるいは朝鮮古語のナジから「ナジ菜」となり変化したなどの説がある。

ペンペングサはシャミセングサの別名の通り、花の下にたくさんついている実の形が三角形で、三味線のバチの形をしているところから名付けられた。

カタバミは既出のシロツメクサ、つまりクローバーによく似ているが、カタバミ科の植物で別物である。葉は、ハートが3枚先でくっついた整った形をしている。

ところが、私のようにガーデニングが趣味の人間にとっては、繁殖力が強く、また深くまで根の張る厄介者でもある。

変わった名前だが、夜になると葉が折れたように閉じられる生態から、葉が半分食べられてように見えるため「片喰み」が転じて名がついたそうである。

さて、カタバミは日本の5大家紋の一つに引用されている。武家の間ではその強い繁殖力が、子孫繁栄、家の永続の象徴とされたようである。

飲み物の「チャ」は、茶と漢字で書かないと変である。実は、ツバキ科の常緑樹チャノキの葉を加工した飲み物を茶という。

さて、茶色は英語ではbrownだが、茶の葉は緑greenである。これは、茶葉を染料として布を染めるといわゆる茶色になるため、「茶で染めた布の色」を茶色と呼ぶようになったと考えられている。

17世紀、オランダの東インド会社は中国からお茶を輸入したが、その拠点だった福建省の方言でお茶を「テー」と呼んでいたのがteaの語源とか。その後、イギリス、フランス等もオランダからお茶を買ったため、この言葉が広まったようである。ちなみにフランス語ではthé「テ」、ドイツ語ではTee「テー」となる。

広東省由来の発音は「チャ」に近く、要するに、「テー」と「チャ」が世界中に広まったわけであるが、teaも「チャ」と発音できなくもない。

オミナエシは、秋の七草の一つとして古来より鑑賞の対象として親しまれてきた。漢字では「女郎花」と書くが、女郎とは平安時代、高貴な女性を指す言葉であった。茎がすっきり細く伸び、その先に小さな黄色の花をたくさんつける様が高貴な女性のイメージだったのだろうか。しかしこれでは由来としての面白みに欠ける。

こんな説もある。

オミナエシは女飯(おんなめし)が転訛したもので、これは黄色の花を粟飯に見立てての名であり、それに対してよく似たオトコエシという植物は白い花をつけるが、これを白飯に見立ててオトコメシとしたという説である。いにしえの男尊女卑の文化が感じられ、興味深い。

静御前が、「しづやしづ 賤(しず)のをだまきくり返し—」と謳ったとされるオダマキの花は、花びら同士を立体的に組み合わせたような、不思議な美しい形をしている。漢字では苧環と書き、「苧(お)」という繊維を丸く巻き付けたもの「苧玉(おだま)」に花の形が似ているところから、「苧(お)」、「玉(たま)」、「巻き(まき)」が「苧環」となり、オダマキと呼ばれるようになった。

別名、イトクリソウ(糸繰草)とも呼ばれている。

さて、一風変わったところでは、イヌノフグリ、オオイヌノフグリはオオバコ科の植物だが、果実の形が雄犬の「フグリ」、つまり陰嚢に似ていることからそう名付けられた。意外な発想に感服する。

クチナシは春のジンチョウゲ、秋のキンモクセイと並び、3大香木のひとつに挙げられている。初夏に咲く白い花の甘い香りは独特で、この葉につくアゲハチョウの幼虫をよく見る。漢字では梔子と書くが、この果実は黄色の染料に用いられ、食品の添加物にもなっている。この果実は熟しても裂開しないところから「口がない」、そこからクチナシの名が付けられている。ちなみに、庭木として栽培されているものの多くはオオヤエクチナシで、花は豪華だが実はつけない。

そして3大香木のひとつジンチョウゲはジンチョウゲ科の常緑低木で、漢字では沈丁花と書く。この香りは春の訪れを感じさせるが、この香りが沈香(じんこう:ジンチョウゲ科の常緑香木の幹に人為的に傷をつけ、そこから分泌される樹脂を採取したもの。水に沈むことから沈水香とも。高級品は伽羅=きやらと呼ばれる)という香料に似ており、また十字型の花が丁子(クローブ)に似ていることに由来する。

春から晩秋にかけて咲くキンポウゲ科のクレマチス。日本では鉄線と呼ばれるものがその一種である。鉄線のように頑丈なツルを絡ませながら成長していく姿からこう名づけられたそうだが、実際にはツルはかなり繊細で容易に折れてしまう。扱いにはご注意を。

一方クレマチスの名は、ギリシャ語で「つる」や「巻き上げ」の意を持つ「klema」がラテン語に変わって、「つる性植物」を表す「Clematis」という名前がついたといわれる。英語で「登る」を意味するclimbから、つる性植物を絡まって登ることからclimber(クライマー)と呼ぶが、おそらく同源であろう。

ワスレナグサ(忘れな草)とは、ずいぶんと感情移入した命名のように響く。漢字では漢文調に「勿忘草」と書き、小さな青やピンク、あるいは白い花を無数に咲かせるムラサキ科の一年草である。

日本語名がしっくりくるが、実は「私を忘れないで」という意味の英語名「forget-me-not」、ドイツ語名「Vergissmeinnicht」の訳である。一説には秘話に由来する。

昔、ドナウ川沿いを騎士ルドルフと恋人ベルタが散歩していた。ベルタは、ドナウ川の急流の川岸に青い小さな花を見つけ、「あの花が欲しい」と言った。ルドルフは花を摘むが、その瞬間足を滑らせ、急流に飲み込まれる。もはやこれまでと思ったルドルフはベルタに花を投げ、「私のことを忘れないで」と叫びながら流れに飲まれていった。ベルタは生涯ルドルフのことを忘れず、毎年この花が咲くと部屋に飾ったとのこと。

もう一つの説はもっと古く、エデンの園でのお話。

エデンの園に咲く花に、アダムが全て名前をつけたと思っていたら一つだけつけ忘れた花があった。この花の名前を忘れないようにとワスレナグサと名付けたとのこと。

ヤナギはヤナギ科の落葉樹の総称を指すが、名の由来は「弓矢の矢を作る木」の意味で、「矢の木」から転訛したものとされている。ちなみに、ニシキギ科のマユミは、弓の材料として使われたためにその名がついた。

ところで、ヤナギには漢字で「柳」と「楊」と書くものがある。

「柳」は、旁が「流れるようにすべる」ことを表し、また形がいかにも風に揺れているように見える通り、枝が垂れ下がる落葉高木のシダレヤナギを指す。

一方の「楊」の旁は「上がる」ことを意味し、枝が上に伸びるカワヤナギやネコヤナギなどの落葉低木を指す。

さて、楊枝(ようじ)には楊の字がついている。もともとは、現在のように先が尖ったものではなく、楊の樹木の枝の先端をかみ砕いて繊維を出して歯ブラシ状にした房楊枝を指していた。ちなみに、ヤナギの樹皮には解熱鎮痛作用のある「サリシン」という成分があり、薬木としても利用される。

タケノコの本来の意味は文字通り「竹の子」で、イネ科タケ亜科タケ類のタケ(竹)の若芽を指す。

茹でたタケノコが食卓に並ぶと日本人なら春を実感するであろう。

タケノコは漢字一字で筍と書く。竹冠に旁は旬で、この旬は10日を意味する。なので月の最初の10日を上旬、次の10日を中旬、そして後の10日を下旬と呼ぶ。タケノコは成長が早く、地上に顔を出して10日でタケになるため、中国ではこの字が当てられたとか。「今が旬」などという場合、本来は最も適した10日前後を指していたのかもしれない。そのためか、食材としての旬のタケノコを筍と呼ぶという説もあるが、個人的には先の説のほうがピンとくる。

次に取り上げるのはラン。

漢字で蘭と書くこの植物には大きく分けて、地面に生える地生ランと他の植物に付着して生きる着生ランとがある。ちなみに着生ランは、他の植物に埋め尽くされた地球にあとから登場したいわゆる新参者ゆえ、生きるための特別な機能を持っており、単子葉植物の中で最も進化した植物とも言われている。カトレアやコチョウランがこの部類に入る。これらの根はよく空気中にはみ出していることがあるが、この根は、地中にあらずとも水分を吸収する機能がある。

さて、ランは英語ではorchid(オーキッド)で、ギリシア語の睾丸を意味する「ορχις (orchis)」が語源であるが、これはランの塊茎(バルブ=茎のもとの膨らんだ部分)が睾丸に似ていることに由来するそうである。花ではなくそこに目が行くとは。

Wikipediaには、ランの花の特徴として、

「花は左右相称で両性,子房は下位,この子房の部分が普通 180度ねじれ,花は上下転倒している。外花被,内花被はともに3枚,内花被のうち正面の1片は普通特異な形と色彩をもち唇弁と呼ばれ,後方に距を伸ばすこともある。おしべとめしべは合生して特有のずい柱をつくり,おしべは1本,まれに2本だけ完全で他は退化する。」と書かれている。植物の中でもかなりの変わり者である。ちなみにコチョウランは胡蝶蘭と書くが、学名ではPhalaenopsis(ファレノプシス)で、ギリシャ語で「ファライノ(蛾)」と「オプシス(似る)」から、蛾に似た花といった意味だろうか。

スィートピーは、まめ科れんりそう属のつる性1年草で、日本語では麝香連理草=じゃこうれんりそうと呼ばれる。

学名のLathyrus odoratusにodor-がついていることから、香りが特徴とされていることがわかる。

甘い香りなので英語ではSweet pea=甘い豆と命名されているが、実には毒があるのでくれぐれも食べないように。

さて、突然ではあるが、菓子のマシュマロは甘くあの食感がなんとも幸福感に満ちている。マシュマロとは、「メレンゲにシロップを加え、ゼリーで固めて粉をまぶした菓子の名」とされている。

実はこの菓子の名前は、原料となったアオイ科のウスベニタチアオイの英語名、marsh mallow に因んでいる。ハーブの一種で、私もベランダで10年来栽培している。花は小さく実に地味だが、マシュマロの起源だと思うと、やはり夢を感じてしまう。

mallowとは葵=アオイ、つまり徳川家の御紋のモデルになっている植物である。もとはこの植物の根を古代エジプトの王族がすりつぶしてのど薬として使っていたそうである。現代のマシュマロの製法では、この植物は使われない。

「根をすりつぶした」ことから、当然mashed potato=マッシュポテトのmashだろうと思い込んでいたら、実はmashではなくmarsh=沼だった。つまりmarsh mallowは沼地に生えるアオイの意味だった。

ワレモコウ(吾亦紅)は、意外にもバラ科の植物。

サクラ、ウメ、ナシをはじめ、世にバラ科の植物は実に多い。

でも、ワレモコウは見た目にはとてもバラ科とは想像しにくい。

名前の由来は、根の香りがインドにある木香(もっこう)に似ており、「吾の(日本の)木香」という意味で吾木香(ワレモコウ)となった説、また織田信長の家紋でもあった「木瓜紋」が割れた形に似ていることから、「割木瓜」(ワレモコウ)となったという説などが有力とされている。

木香の名は、モッコウバラにも使われている。モッコウバラには白と黄色があり、白の方が香りが強いとされているが、黄色とて十分なボリュームに育てば、それなりに香り立つ。一方のワレモコウからはどうしたことか、ほとんど香りは感じられない。

もうひとつ、木の幹のことを英語でtrunk=トランクという。

ちなみに、同種の英語にstem=ステムがあるが、樹木より草などに使われ、日本語では茎(くき)に近いようである。ワイングラスのベースから立ち上がる細い部分もステムという。

さて、旅行用の大型鞄(かばん)も、またクルマの荷室のこともトランクという。物入れに関係していることはおおかた想像がつく。

起源は定かではないが、大きな木の幹をある長さに切って、内部をくり抜き、それを物入れとして使ったのが語源のようである。木の幹から作ったcontainer=コンテナといったところか。

trunks=トランクス はpants同様、複数形になってはいるが、体の幹、つまり体幹部に着ける衣類という意味からであろう。

最後に当院の名前にも使われている「青葉」等、植物の緑はなぜ青と表現されるのか。

奈良時代、平安時代、日本語には色を表す形容詞が、「白し」、「赤し」、「青し」、「黒し」の4つしかなく、この4色で全ての色を表現していた。そのため、緑という概念が希薄で、一方青(あを)が表す色の範囲はとても広く、一般的には「白と黒の間」とされていた。狭く見積もっても、緑、青、藍あたりの色を全て表している。したがって、緑であっても、青菜、青竹、青物となるわけである。

 

そうだったのか語源㉒  -方位について-

今回は、方位にまつわる言葉について触れてみたい。

まず方位には、一つの分類として絶対方位(absolute orientation)と相対方位(relative orientation)がある。

ここで用いられるorientation=オリエンテーションのorientには方位、方向付けの意味がある。

orientは東、あるいは東アジアを指すことが多いが、もともと東の方角や太陽の出る方角を指して使われており、そこから現代では動詞で「正しい位置に置く」といった使われ方をするようになったようである。

「日出ずる処」ではないが、古来より日中に活動する人類にとって、まずは日の出の方角が方位としての基準となったことは頷ける(ヨーロッパでも中世の大部分の広域地図は東を上にして描かれていたという)。

ちなみに、orienteering=オリエンテーリングも語源は同じで、コンパスと地図で方位を確認しながらゴールを目指す競技ということになる。

絶対方位とは、誰からみても決まっている方位(方向)で客観的であり、一方の相対方位とは基準とする位置によって変わる方向で主観的ともいえる。前者は東西南北と上下で、左右は後者となる。

まず、一般的に地図は北を上にして描かれている。少なくとも現在の日本では。

一般的にと言ったのは、北を上にしない描かれ方も少なからずあるためである。

ここでは、北を上にすることが一般化した理由について触れてみたい。

古くからヨーロッパでは、夜間は北極星を頼りに位置方角を確認していた。14~15世紀頃、地中海航路の探索において、方位磁石(指針は常に北を指す)が重用されるようになった。特に航海の際には羅針盤と地図との対比のため、利便性から北を上にする必要があった。日本の地図の表記はこれに従ったものと言われている(他にも諸説あり)。

地図は北を上(水平面に置いた場合の前方)に描かれているため、北へ向かうのを「北上」、逆に南へ向かうのを「南下」と表現するようになった。つまりこれらの熟語は、地図の描き方が世界的にほぼ確定した近世になってできた言葉である。

次に東西南北について。

この、あまりにも当たり前に使っている方位だが、例えば日本語を知らない外国人にどう説明したらよいだろうか。「東」は先ほどのorientの説明でよかろう。当然「西」は太陽の沈む方角となる。ある国語辞典には、「南」は「日の出るほうに向かって右の方角」と説明されており、英英辞典でも同様の説明となっている。ではここで使われている相対方位の「右」はどう説明されているか。先ほどの国語辞典には、「東を向いたときの南に当たるほう」と記されている。

しかし、これだと「右」も「南」もわからない相手には伝わらない。「右」とは、「日の出るほうを向いたときに、その後太陽が進んでいくほう」としてはいかがだろうか。

ちなみに「南蛮」「東夷」といった漢字表記については、「そうだったのか語源⑭ −国名都市名その2 漢字表記−」で触れているのでここでは割愛したい。

次に、方位が使われている熟語を取り上げてみたい。

まず「敗北」にはなぜ北という字が使われているのだろうか。

勝負に負けて北の方角に逃げたからではない。

「北」にはもともと背を向けるという意味がある。「北」は太陽の方向に対し背を向ける方角という意味である。ちなみにこの「背」にも「北」が使われており、体の後ろ側を意味している。つまり「敗北」とは、勝負に負けて相手に背を向けて退くことを意味している。

次に、「教え導く」意味の「指南」には「南」の字が使われている。

この語源は、古代中国の「指南車」に由来する。「指南車」とは、戦場で南の方角を示すために作られた「歯車からくり」で、上に載っている仙人の人形が常に南を指すように作られていた。なぜ指す方角が南かというと、中国古来の思想に「天子は南に面する」というものがあり、それに基づいたものとされている。先に触れたorientの発想とは別の文化の匂いを感じる。

さて、日本の地名に、上下がつくものが多い。

「上」を「かみ」と読む場合、川上と川下、上の句と下の句のように、もともと連続したものの最初の部分を指す。

まず「上=かみ」の意味について。

お上(おかみ)、つまり朝廷のある所を中心としていた頃の表現で、京都を指す。関西を上方(かみがた)というのはここからきている。

また、京都の中でも上京区(かみぎょうく)、下京区(しもぎょうく)と呼ぶように、大内裏に近い北のほうを上(かみ)という。ちなみに、全国にも「北」のことを「上(かみ)」と表現する場合があるが、京都の例に由来するのか、あるいは先に触れた地図の上(うえ)だからか、はたまた川上の方角だからか、勉強不足のためわかりかねる。

次に京都以外から見た場合、より京都に近い所に上(かみ)という形容詞をつける。上野(かみつけ)は下野(しもつけ)より、そして上越は下越より京都に近い。

絶対方位の「上下」が、ここでは相対方位的に使われているのも興味深い。

似たような表現で、「前後」が使われる場合もある。

例えば、備前、備中、備後の順に、そして越前、越中、越後の順に京都から遠ざかる。

ちなみに、現在の千葉県に当たる上総と下総では、下総が上総より北にあり、しかも京都に近い。これは、かつては三浦半島から上総のある房総半島へ船で渡る海路が主要な交通手段だったため、上総のほうが下総より京都に近かったことによる。

現在、首都である東京を中心として、路線の方向を「上り(のぼり)」「下り(くだり)」と表現するのと同様の概念といえる。

さて、官職をそれまでよりも低い位置に下げられることを左遷という。「遷」は「遷移」「遷都」のように場所を移す(移される)意味である。

この「左」は、古くから中国では右を尊んで上位とし、左を下位とする風習からこのように使われた。ちなみに、西洋も同様の風習(右を「正しい」「正式な」の意味のrightというのはこれが語源とか)だが、日本では逆に左を右の上位とする風習がある。「左上・右下(さじょう・うげ)」とは日本の伝統礼法の一つで、「左を上位、右を下位」とする風習を指す。したがって左大臣は右大臣より高位なのである。佐藤という苗字が多いのもこのせいだとか。

ご存知の方も多いと思うが、先に出た京都だが、「右京」「左京」は、都の北にあった大内裏の位置から南に向かって都を見て、右、左、と名づけられたので、一般的な地図上では、右と左の位置関係が逆、つまり右が西、左が東になっている。

政治思想の世界にも、右翼と左翼という表現がある。

Wikipediaには、「伝統的な意味では、進歩派(革新、革命)勢力を左翼(左派)、保守勢力を右翼(右派)と呼ぶが、具体的な思想や範囲は時代や立場や視点により変化する。」と記されている。

この呼び方の起源は、フランス革命期の議会の席順において、議長席から見て右に「保守、穏健派」、左に「共和、革新派」と、左右に分かれて座っていたことによる。

現在では、政治的スペクトルはより複雑化し、保守、革新共に右派、左派が存在し、さらに分野により左派が右派的になったり、またその逆の場合もある。

その他、「家業が左前になる」という表現があるが、この「左前」とはいかに。

和服の着方で、相手から見て、左の衽 (おくみ)=襟の下の部分 を上にして着ることを指す。普通の着方と反対で、死者の装束に用いる。ここから、運が傾いたり、経済的に苦しくなるといった、萎える様を表すようになった。

最後に、「右肩上がり」について。

グラフの線が右に向かって上がっていく形から、後になるほど数値が高くなること。あるいは後になるほど状態がよくなることで、これは感覚的に理解しやすい。

二次元空間で、横線はX軸、縦線はY軸と呼ばれるが、時間経過に対する変化量を表す場合、一般的にX軸が時間経過、Y軸が変化量を表すことが多い。

「右肩上がり」とはその名の通り、時間の経過とともに、Y軸の数値が大きくなることから、折れ線グラフでも棒グラフでも見ての通り「右肩上がり」となるわけである。

そうだったのか語源㉑ -訓読みが同じで異なる漢字(同訓異義語)-

副題のごとく、日本語には訓読みは同じで意味として共通部分はあるものの、異なる漢字が使われるものがある。これを同訓異義、あるいは同訓異字というが、その数はかなり多い。

日本語は、多くの言語の中でもとりわけ語彙(ボキャブラリー)が多いことが、その理由の一つであろう。そのため、駄洒落も生みやすい。

とにかくその数といったら膨大なのだが、幾つか例として取り上げ、それぞれの意味の違いを考えてみたい。

まず、以前の回でも触れたことがあるが、ある場所で生活することを「すむ」という。「住む」は最も広義で使われるが、人偏があるので、もともとは人が生活する場合に用いた。一方で「棲む」は、鳥や獣が巣を作って生活する場合に使われる。「棲息」という熟語からも理解できよう。

目で知覚することを「みる」という。最も広義では「見る」が使われるが、英語ではseeが該当するようである。

ある場所に出かけて見て楽しむ場合、「観る」が当てられる。「見物」や「鑑賞」の意に近い。熟語としては「観光」「観戦」「観覧」等があり、英語ではenjoy( seeing)だろうか。

「視る」は、より神経を集中して見る意味で、「凝視」「注視」の熟語があり、英語ではwatchが近い。

「診る」は医療用語として日常的に使われるが、見て判断、評価するという意味で、医療で使われることが多い。英語のexamineが相当するが、奇しくもseeもこの意味で使われることがある。

「看る」も同じく医療の分野で使われるが、こちらは、悪くならないように気を配る、見守るという意味合いが強く、英語ではcareが近い。

「きく」にも、「聞く」、「聴く」、そして「訊く」がある。

広義で使われるのはもちろん「聞く」で、英語のhearに当たる。「聴く」はより意識的に集中する様で「耳を傾ける」で英語のlistenが、そして「訊く」はたずねて答えを求める意で英語ではaskが当てはまる。

次に、「あける」という言葉では、「開ける」「空ける」「明ける」が思いつく。これらに共通しているのは、空間ができるというニュアンスである。

「開ける」は、門構(もんがまえ)がある様に、閉ざされていたものが開いて新たな空間ができること、「空ける」は、埋められていた物が除かれ空間ができること、そして「明ける」は闇で覆われていたものがなくなり、日が差して明るくなることを表している。

英語では順に、open, empty, break(あるいはdawn)が相当する。

「とる」も、実に多くの漢字が当てられている。

一般的には「取る」が広義で使われ、保持したり自分のものにすることを表している。

「捕る」は(手で)捕まえること、「摂る」は「摂取」などの熟語に使われ、食べること、体内に取り込むことを指す。

また、「穫る」は禾偏より農作物などを収穫すること、「獲る」は獣偏より狩りや漁で獲物を捕まえることを指す。

「採る」は、集める、採集する、選ぶといった意味を持つ。

さらに、「撮る」は写真や映画を撮影すること、「録る」は画像や音で記録することなので比較的新しい使い方といえよう。

「盗る」は、他人のものを奪って自分のものとすること、そして「執る」は手に持って使う、あるいは行うといった意味である。

「おす」にも、「押す」「推す」「捺す」「圧す」がある。

手偏の字が多いことから、それぞれ何がしかの力が関与していることがうかがえる。

最も一般的なのが「押す」で、物に手や指先をあてがって、前方に力を加える行為を指す。

「推す」は、適当な人(物)として薦めることを指すが、「推進」のように、「押す」と同様の意味もある。また、「推し量る」「推進」のように、時間的、方向的な前方への力を感じとれる。

「捺す」は、「捺印」のように上から力や重みを加えることをいう。

「圧す」は、力や権威などで押さえつけることを意味する。

やや使い分けしにくい言葉に「すすめる」がある。

「進める」「勧める」「薦める」「奨める」「推める」といった漢字が当てられるが、これらにも「おす」と類似し、前方に動かすという共通概念がある。

「進める」は広義で、英語ではdrive、advanceあるいはforwardが当てはまる。

「推める」も「推進」で使われるようにほぼ同義だが、手偏があり手で押して前に進めるというニュアンスがより感じられる。

「勧める」は、相手にあることをするように働きかけるの意(英語ではrecommendあるいはsuggest)、「薦める」は人や物の良い点を挙げ、相手に採用を促す意、「奨める」は、励まして奮い立たせる、つまり背中を押すといった意がある。

さて、「かえる」にも、「変える」「代える」「替える」「換える」「帰る」「返る」「反る」等がある。

「変える」は状態を変化させること、場所を移動すること(英語ではchange)、「代える」は熟語にあるように代用する、代理とすること(substituteあるいはreplace)、「替える」は同種の物と入れかえること、それに対し「換える」は、別の物と取りかえることを意味する(change, exchange ,replace, convert)。

以上とは明らかに意味の違いはあるが、「帰る」「返る」「反る」は自動詞で、共通しているのは、ベクトルが逆になるニュアンスが含まれていることであろう。

「帰る」は、「往復」の「往」に対する「復」であり、「もとのところに戻る」の、「返る」は「物がもとに戻る、もとの状態に戻る」の、そして「反る」は「反動」「反発」で使われるように「向きが逆になる」の意である。

「さわる」もなかなか興味深く、「触る」と「障る」がある。

前者は、触れる、接触するという意味、後者は邪魔になる、あるいは害になるという意味である。ちなみに「キザ」という言葉は、「気に障る」「気障り」からできた俗語である。「気分を害する」というのは、感覚的に不快になるわけだから、直接間接の差はあれど、不快な感触と無関係ではなかろう。

ちなみに、「話の触り」といったときの「触り」とは最初の部分ではなく、話の聞きどころを指す。

「いう」にも大きく三つある。

「言う」は、考えや行為を言葉にして表現すること、自分の言葉で表現すること(sayあるいはtell)、「云う」は既存の論旨や他人の言葉を引用すること(state)、「謂う」は、特定の課題について自分で考え意見を述べることと説明されるが、これに関しては残念ながらいまひとつクリアーな説明ができない。

「おもう」では、一般的には「思う」が使われる。

「思」は、「田」と「心」から成り、「田」は幼児の脳を表し、「心」は心臓を表す。つまり「思う」は頭と心で感じるという意味である。

「想う」は、「相」と「心」から成り、「相」は木を対象として見ることを表し、これと「心」とで、「ある対象のことを心で考える」という意味になる。「思う」と比較し、より対象がはっきりとした、あるいは強い感情が込められていると考えられる。「念う」には、心を一つのことに集中させる意味があり、「念じる」と使われるように、一心に思い入れるといった意味がある。

「憶う」は、「記憶」といった使い方からわかるように、かつての事物を忘れないでいたり思い出すといった意味で用いる。英語のsouvenirがニュアンスとして近いかもしれない。

「惟う」は、「隹」が鳥を表す通り、思い巡らすといったニュアンスがある。

最後に、あまり使われないが「慮う」は、「おもんばかる」と読むように、深く思考する意味で使われることがある。

「かける」にも、「掛ける」と「架ける」、そして「懸ける」と「賭ける」がある。

「掛ける」は「ひっかける、上から物を置く」という最も広義で用いるのに対し、「架ける」は物と物の間を渡す場合(歯科のブリッジは架橋義歯と和訳される)、「賭ける」は金銭等賭け事に関する場合、「懸ける」は捧げる、託すといった意味合いで用いる。

「しずめる」は比較的違いが明確で、「静める」は音や声を静かにさせること、「沈める」は水中に没すること、「鎮める」は「鎮圧」という熟語にもある通り、(なんらかの力により)騒動や混乱をおさめることをいう。

逆に何が共通しているかだが、三者とも動きのあるものの勢いを抑える、落ち着かせるといったニュアンスが感じ取れる。

「あう」では、「合う」は二つ以上のものが一つになる、一致するの意(fitあるいはsuit)、「会う」は、人、または何かとあるところで一緒になるの意(meetあるいはsee)、「逢う」は「会う」と類義だが特に親しい関係にある場合に使われる。「遭う」も「会う」と類義だが、嫌な人、あるいは欲しない事柄と偶然あう、つまり「出くわす」(encounter)といった意味で使われる。

「こす」にも「越す」と「超す」がある。

前者が、場所や点、時間を過ぎて向こうへ行くことを表し、後者がある一定の数量や基準、限界を上回ることを表す。換言すれば、前者が水平的な位置の移動であるのに対し、後者は上下的な位置の移動とも表現できる。

ちなみに「漉す」「濾す」は、液体等に混じった不要物、不純物を紙、布、フィルター等で取り除くことを指すので、濾されたものはそこを通過するという意味では、「越す」と同源ではないかとも考えられる。

次に、形容詞の例として「かたい」を取り上げてみる。

「かたい」にも「固い」「硬い」「堅い」があるが、これらは反対語で比較するとわかりやすい。

「固い」は「ゆるい」の(例:固い絆)、「硬い」は「やわらかい」の(例:硬いパン)、そして「堅い」は「もろい」の反対語である(例:堅強)。

ついでに「やわらかい」では、「柔らかい」は曲げても折れない、ふわっとした、あるいはしなやかであること、「軟らかい」はぐにゃりとした、手ごたえがないといったニュアンスがある。したがって、柔道は決して「軟道」ではないのである。

次に、名詞の同訓異義語について。

「あし」にも、「足」と「脚」がある。

一般的には「足」を使う場合が多いが、両者を分ける場合は、くるぶしから先の部分には「足」(foot)を、膝から下の部分、あるいは足全体を指す場合には「脚」(leg)を使う。「馬脚を現す」はこちらである。上肢でいえば、それぞれ「手」と「腕」がこれに相当する。

「町」と「街」の違いは、前者が主に家々が密集している場所、地域(town)を指すのに対し、後者は商店やビルが立ち並んでいる道筋(通り)を指す(street)。別の言い方をすれば、前者が面を表すのに対し、後者は「街道」というように線を表すといってもいいかもしれない。

「木」と「樹」の違い。

「木」は自然の状態で生えている樹木もさすが、同時に材木になったもの、材木として使われたものも指す。

一方の「樹」は、生きている樹木にしか使われない。

「なか」も、「中」はある範囲の内側でinsideの意、「仲」は人間関係について使われるのでrelationshipの、「央」は真ん中(あたり)でcenterの意味に近い。このあたりは、音の異なる英語による説明のなんと明快なことか。

「かげ」にも、「影」と「陰」「蔭」「翳」等がある。

最初の「影」は、光が物体に遮られ、その光源と反対側にできる黒い部分を指す。一方「陰」は物体に遮られ、光や風雨が当たらないところを表し、「陽」の対意語である。

英語では、前者がshadow、後者がbehind、あるいはshadeが相当する。

「蔭」は草冠がつくように、草木のかげを指し、そこから派生し人からの恩恵をも表す。

「翳」は「羽」の字があるように、鳥の羽などで扇型にし柄をつけたものを指す。これで貴族が顔などを隠し、視線を遮るのに用いた。

差と叉について。

「交差」と書く場合と「交叉」と書く場合がある。

2本以上の線状のものが、1点で重なることを指す。

本来は「叉」で英語ではcrossが相当するが、この字が当用漢字にないため、「差」を当てている。

ただ、「差」は英語ではdifferenceで、違いやズレをあらわす漢字なので、「交差」という言葉は本来の意味とはかなり違い、私見ではあみだくじの図形を連想させる。画数の簡単な「叉」くらい、当用漢字にしても良さそうなものである。

最後に「のり」という音は実に奥が深い。

論語の中では、年齢を表す言葉として「不惑」というのが有名である。40歳を指す言葉だが、「四十にして惑わず」からきている。ちなみに、70歳という年齢の表現として、「七十にして心の欲する所に従いて矩を踰えず」というものがある。

この「矩」は「のり」と読むが、同音には「則」「法」「憲」「規」「紀」「倫」「典」等、たくさんある。この言葉の深遠さは、人の名前に多く使われていることからも想像に難くない。

まず、「矩」は矩尺(かねじゃく)のことで、かぎ型(直角)の定規を指す。

「法」は、解字からみると「水+鹿と馬に似た獣の姿+去(引っ込める)」で、「池の中の島に珍獣を押し込めて、外に出られないようにしたさま」と解説されている。

「憲」は「かぶせる物+目」から成り、目の上にかぶせて、勝手な言動を抑える「わく」を示している。ちなみに。憲法は権力者の権力の逸脱を許さないための法律である。最近、拡大解釈されていることが気がかりである。

さて、「規」は「矢+見」で、直線の棒を松葉型にくみ、その幅を半径として円を描いて見るという作業を指す。コンパスを連想すればよさそうである。

「則」は「刀+鼎(かなえ)の略形」で、鼎(金属の器)にスープや肉を入れ、すぐそばにナイフを添えたさまを指すようである。

「紀」は、「糸+(音符)己」で、糸のはじめを求め、目印をつけ、そこから巻く、織るといった動作を指す。「風紀」などに使われている。

「倫」は、「集める印+冊」の会意文字で、短冊状の竹札を集めてきちんと整理するさまを指す。

「典」は、「倫」と似ており冊の原形とされている。ずっしりとした書物を平らに陳列するさまを意味している。

これら多くの「のり」に共通しているのは、要するに「きちんとする」というニュアンスではないだろうか。そして「規則」「法則」「法規」「憲法」等、これら同士の熟語もよく使われるが、これも相応に意味あることだと思う。

決められたこと、守らなければならないこと、けじめをきっちりすること、そういった意味合いが込められているように思えてならない。

ちなみに先に述べた論語の70歳を表す言葉は、「70歳になると、自分の好き勝手に生きても、人の道から外れることはない」という意味で、私もこの先そう生きていきたいものだと我が不徳を認めながらも、半分ため息交じりで納得する次第である。

その他、「波」と「浪」、「海」と「洋」、「岡」と「丘」、「磨く」と「研く」、「森」と「杜」、「里」と「郷」等、まだまだ枚挙にいとまがないが、それぞれ微妙な意味の違いを調べてみるにつけ、同訓異義語は実に興味深い。