そうだったのか語源㉖   -数に関する言葉-

 人の指の数が左右で計10本だったから10進法が発達したと言われている。

 仮に、合計12本だったらもっと文明は進歩したのではないかとも言われている。

 12進法というのがある。時刻や方位に使われる場合が多いが、たしかに円に関する場合、10より12のほうが使いやすい。円を10等分するのは結構難しいが、4等分、6等分は簡単で、つまりその倍数である12等分は比較的簡単である。しかも10の約数は1,2,5,10しかないが、12では1,2,3,4,6,12と多い。

 さて、漢字由来の数詞から派生した言葉には大袈裟な、あるいは比喩的に強調した表現が目立つ。

 「万一」あるいは「万が一」とは、「万に一つ程度のほんのわずかな可能性のあること」が直訳だが、日常的には「ひょっとしたら」「もしかしたら」くらいの意味に使っている。1/100は百分率では1%なので、「万が一」とは0.01%、つまり限りなくo%に近いが、実際に使っている実感としては確率的にはもっと大きいのではなかろうか。

 「白髪三千丈」とは、原典は李白の「秋浦歌」で、長年の憂いが重なって白髪が非常に長く伸びたことを誇張して表現したもので、日常的には「心に憂いや心配事が積もること」を例えている。「丈」とは、馬の前足から肩の高さとされているので1.2〜1.5m、つまり3000丈とは3600mから4500mとなる。かなり大袈裟であろう。

 「千差万別」は、いろいろなものにはそれぞれ相違や差異があることの例えとして使われているが、宋の時代の道原による仏書「景徳伝灯録」の禅問答に由来しているようである。これに比べ、類義の日本語の熟語「十人十色」はなんとも穏やかというか、文字通りでハッタリの微塵も感じられない。

 中国戦国時代の道家である列子由来の「千変万化」も意味こそ違えど似た表現である。「千差千別」でもよさそうだが、「千」の次に「万」というさらに大きな単位を使うことで、多いことをさらに強調する狙いがあると思われる。

 さらに「千載一遇」とは、直訳すれば「千年に一度出会うかどうかのチャンス」の意で、晋代の袁宏の著「三国名臣序賛」が出典とされている。

 「万国」「万人」「万病」「万障」というように、「万」は訓読みで「よろず」と読むように、非常に数が多いことの表現として用いられる。

「万策尽きる」の「万策」や「万事休す」の「万事」も同様の使われ方である。

 さて、英語で数に関する曖昧な数詞で、「a few —」というのがある。量では「a little—」という表現がそれに当たる。日本語では「数 —」を当てている。では、「数 —」とは具体的にいくつを指すのか。「二三の」と考える方と「五六の」と考える方がいる。これも時代とともに変遷するようである。

 1967年11月、当時の佐藤栄作首相のもと、日米首脳会談が行われ、沖縄返還のメドを両三年以内(先方のコメントではwithin a few years)につけることで合意した。2~3年以内に返還することを約束したのではなく、数年以内に返還時期を決めるという内容だった。結果的に1972年に本土返還が実現したが、やはりこの場合、「a few years」は日本側の思惑とは裏腹に「5〜6年」と解釈するほうが妥当だったのではなかろうか。

 いずれにしても、「数—」という曖昧な表現は、使う側にとっては責任を曖昧にするという意味で便利だが、両者の間に誤解や約束自体の瑕疵を生じる恐れがあることも事実である。

 ところで、我が日本語の数詞で、うんちくのあるものは如何。

 とっかかりに常用の言葉である「ろくでなし」を取り上げてみたい。

 この「ろく」は数の6ではなく、通例として「碌」の字が当てられているが、実はこれも当て字である。

 本来は「陸」である。勾配のない平らな屋根のことを「陸(ろく)屋根」というが、「陸」は土地が平らなことから、物や性格が平らで真っ直ぐなことを指す。そこから性格が真っ直ぐでないことを「陸(ろく)でなし」と言うようになったそうな。

 歌舞伎の用語が語源とされるものに、「七変化」がある。一般的に「物事がくるくる変わる」「素早く変化する」といった意味で使われる。

 もともとは歌舞伎舞踊の世界で使われている言葉で、「変化舞踊(へんげぶよう)」からの派生語である。ちなみに、「変化」を「へんか」と読むのは漢音、「へんげ」は呉音である。

 「変化舞踊」とは、いくつかの小品舞踊を組み合わせて構成されたもので、同じ踊り手が次々に扮装を変えて異なる役柄を連続して踊り分けるものを言う。

 少ないもので「三変化」、多いものだと「十二変化」まであるが、「五変化」や「七変化」で構成されるものが最も多かったため、日常用語になったようである。

 さて「八方美人」とは、誰に対しても上手に立ち回る人を指す比喩である。

 「八方」とは、東西南北とその間の45度の方位を入れたものである。

 「八方塞がり」も逃げ道のないことを表すが、「四方」より「八方」のほうがより全方位的なニュアンスが強くなる。その意味では、先の流れからすると「四面楚歌」という比喩は、古代中国の表現としては随分謙虚に思えるがいかがだろうか。

 「八面六臂」 とは、仏像などで八つの顔と六本の腕を持っていることを意味し、多才で一人で何人分もの活躍をするたとえに引用される。

 話はやや逸脱するが、奇数は日本文化にとって色々な意味でバランスがよいと思われる節がある。西洋の左右対称文化に対し、日本文化は概ね左右非対称文化といえよう。日本の城には左右対称なものは少なく、金閣寺(鹿苑寺金閣)、銀閣寺(慈照寺銀閣)も左右非対称、神社の狛犬は、口を開いている阿形と口を閉じている吽形が左右にあって、これも非対称。同様に、仁王門の阿形と吽形もしかり、庭園や書院造りも完全な非対称である。

 例外として、国会議事堂や迎賓館はほぼ左右対称だが、これは列強に追いつくべく、西洋建築を模倣したためであろう。

 その他、俳句は5-7-5、短歌は5-7-5-7-7、都々逸(どどいつ)は7-7-7-5と、奇数の句の集合体である。

 古来からの仏教建築では、舎利を納める五重塔が有名だが、その他、優美でリズム感のある薬師寺の東塔、西塔も三重塔である。

 その薬師寺の本尊である薬師三尊も、中央に薬師如来、左右に非対称の日光菩薩と月光菩薩を随え3体で構成されている。

 同じく、法隆寺の釈迦三尊も中央に釈迦如来、左右に両脇侍(きょうじ)像を配している。これも左右非対称である。

 実は、これは古代中国の陰陽道の影響と考えられる。

 陰陽道では、奇数が陽で偶数が陰となっている。西洋文化の影響を受けた現代の感覚からするとやや違和感がある。

 しかし音楽のリズムを例にすると、通常一拍目が強く二拍目が弱い(この逆を裏拍という)。ここから奇数が陽であると理解するに無理はない。

 つまり陽が正で陰が負と考えられ、尊いこと、あるいはめでたいことを表現するのに陽を用い、その逆を陰とした。

 もっとも、「八」を末広がりと形容したり、先に触れた双璧や六歌仙、四天王など、偶数をよしとする例外もある。

 いずれにしても、日本文化は無常や時や形の移ろい、ひいては不完全なものに美を感じる文化とも言える。

 これに対し、西洋文化は偶数文化と表現できよう。

 パリのルーブル博物館、凱旋門、シャイヨー宮、ロワール渓谷のシャンボール城、ロンドンの大英博物館、バッキンガム宮殿、ベルリンのブランデンブルク門、ウィーンのシェーンブルン宮殿、アメリカ連邦議会議事堂、ホワイトハウス、イタリア庭園等々、左右対称の建築物は枚挙にいとまがない。ちょっと古風な西洋の部屋のしつらえでも、マントルピースを中央にして、絵や写真を左右対称に飾った光景を目にすることも多いのではなかろうか。

 日本では、左右対称の古い建築物といえば京都の平等院鳳凰堂ほか数えるほどである。これは、「この世をば わが世とぞ思ふ望月の かけたることもなしと思へば」と詠んだ藤原氏一族の世界観からすれば、完全無欠、つまり欠けてはいけないのであろう。

 別の見方をすると、日本文化が自然界に依存、あるいは自然界と共存する文化であるのに対し、西洋文化は自然を支配する文化とも言えるようである。 

 これは、それぞれ民族の置かれた環境の違いに依拠していると考えられる。

 紀元前から西洋・中国の小麦農業は牧畜を伴い、人口増加につれ森林を伐採、開墾し、作付け面積を増やし家畜を増加させていくので、自ずと自然は破壊される。こういう生業からは、人間は自然界を「支配する対称」と考える文化が生まれやすいのではなかろうか。

 人が作るものは、左右対称の同じ物が幾つでも容易に作れるので、偶数が馴染みやすい。ところが、日本の縄文人の生業は、魚猟・採集、弥生時代は稲作・養蚕が主。これは、人は自然界に頼らないと生存できないので、自然の循環との共生を大切にする生業を選択した結果ではないかと考えられる。自然界を観察すると、左右対称のものはごく稀である。このような自然を崇拝する日本人の心性から、「奇数」の文化が生まれたという見方もできよう。

 閑話休題。

 デジタル=digitalの語源については、語源⑩「アナログとデジタル」を参照されたい。 

 さて、ローマ数字のⅤはアラビア数字の5だが、これは片方の掌を広げた形、Ⅹはそれを二つ上下に合わせた形で10を表現したとされている。

 12345678910
ギリシャ語mono モノdi ジtri トリtetra テトラpenta ペンタhexa ヘキサheptaヘプタocta オクタnona ノナdeca デカ
ラテン語ūnus               ウーヌスduo                  ドゥオtrēs                 トレースquattuor            クァットゥオルquīnque           クィーンクェsex                  セクスseptem           セプテムoctō                 オクトーnovem            ノウェムdecem             デケム

 化学用語では、数詞としてギリシャ語がよく使われている。

 ジメチル=dimethyl の「ジ」やトリニトロトルエン=trinitrotolueneの「トリ」、テトラサイクリン=tetracyclineの「テトラ」はその例である。

 モノラル=monaural 、モノレール=monorail、モノローグ=monologue、等の「モノ」はギリシャ語の「1」を表すmono-から派生しており、日本語では「単一」、「独」といった字が当てられている。

 ペンタゴン=pentagonは5角形の意味だが、建物の形からthe Pentagonは米国の国防総省を指す。

 DHA=docosahexaenoic acidはドコサヘキサエン酸と和訳されるが、hexa-=6つの二重結合を含むdocosa-=22個の炭素鎖をもつカルボン酸の意味である。

 ヘプタン=C7H16は炭素鎖の7からつけられた液体の名前である。

 また、「オクタ」はオクトパス=octopus やオクタン=octane、オクターヴ=octave(8度音程) の派生語に使われている。

 「ノナ」はnonagon=9角形などに使われるが、「ノナ」から派生した「ナノ」のほうがなじみ深い。ナノテクノロジー=nanotechnologyはナノメートル(1×10-9m)レベルの物質を扱い技術を指す。

 「デカ」はデカメートル=decameter(10メートル)の語源であるが、日本ではあまり使われない。100年をcenturyというのに対し、10年をdecadeというが、これも日本ではあまり馴染みがない。

 しかし、ボッカチョ作「デカメロン」=十日物語や、いまでは12個を意味するダース=dozenもここから派生した言葉である。

 さて、次にラテン語の数詞の派生語について。

 ūnusからuni-という言葉ができ、ユニフォーム=uniformやユニーク=unique、UN=国連のユニオン=union、ユニクロ=UNIQLO等が挙げられる。

 ひとつ、唯一、単一、同一といった意味がある。

 「ウニコ」というブランドがあるが、この社名はスペイン語で、「唯一、ユニーク」を意味するunicoに由来している。磁器などでも、大量生産したものに対し、「一点もの」を意味するunicoという言葉がよく使われる。

 ちなみに、ユニクロの社名はUNIQUE CLOTHING WAREHOUSEの略だが、そうであればUNICLOのはずだが、登録の際、何かの手違いでCがQになったものの、それがかえって面白いとそのままUNIQLOの商標になったそうな。

 デュエット=duetやデュオ=duoはもちろんふたつ、ふたりの意味のduoから派生しているが、意外にもジレンマ=dilemmaもふたつの矛盾することが同時に起きている様を表している。

 このduo-以外に、2を意味するラテン語の接頭辞「bi-」の英語読みとして、「バイ」というのがある。

 バイリンガル=bilingualやバイメタル=bimetal(サーモスタットに使われている熱膨張率の異なる2枚の金属を張り合わせたもの)、またバイアスロン=biathlon(ふたつの競技を合わせたもの)、ひいてはバイシィクル=bicycle(輪=cycleをふたつ繋いだもの)も派生語である。エヴィデンスは確認できないが、個人的には、副を意味する英語の接頭辞by-、例としてside by sideやbypass等があるが、日本語では「並」「並んで」が相当し、bi-と同じ語源ではないかと思われる。

 trēsはギリシャ語のtriと似ていて、たとえば3人組のトリオ=trio、三角形=triangleやトライアスロン=triathlon(3種の競技を合わせたもの)などの派生語がある。

 quattuorは、四重奏のカルテット=quartet 、4輪駆動の車のクワトロ=quatro、英語の1/4を表すクォーター=quarter 等の語源となっている。

 quīnqueはなかなか派生語が浮かばないが、五重奏のクィンテット=quintet

はその派生語である。歯科関係の出版社でクィンテッセンス=Quintessenceがあるが、これは直訳すれば「5つの元素(要素)」だが、ギリシャ語の四大元素「空気・火・水・土」に続く、ラテン語で「第5の元素(要素)」を意味する。

 septemは7、octōは8を意味し、ともに7番目の月=September、8番目の月=October の語源だが、現在ではそれぞれ9月、10月を指す。

 一説に、ジュリアス・シーザー=Julius Caesarが自身の誕生月の7月=Julyを、そしてその後継者のアウグストゥス(オクタヴィアヌス)=Augustusの誕生月の8月=Augustをそれまでの10カ月に入れたため、2カ月ずつずれたというのがあるが、これはどうやら誤りのようである。

 現在の暦の元になっているのは、紀元前8世紀頃のロムルス暦。この暦では、1年は3月=Marchから始まる10カ月だった。これには、当時の主要産業である農作業の始まりに合わせたとの説がある。それによると、Septemberは文字通り7番目の、Octoberは8番目の月だった。しかしその後、太陽の周期に合わせて12の月があるヌマ暦が使われ、1年の始まりに1月と2月の2つの月が加わった。そのため、双方とも2つずつずれて7月→9月、8月→10月となったというのが有力である。

 10を意味するdecemの派生はギリシャ語のdecaに準ずるがこれは先に触れたので割愛する。

 数詞に関する語源は数々あり、数え上げればきりがない。

そうだったのか語源㉕   -動物にまつわる言葉 その2-

テーマの対象が思いの外広かったので、急遽2回に分けた。

今回はいわば番外編なので、整理しにくいものを雑駁ながら挙げてみよう。

その前に、何故大人になると動物から植物に関心が移る傾向が多いのか、考えてみたい。

動物は動きが比較的俊敏、あるいは確認しやすい、一方植物は反応が緩慢、あるいはわかりにくいという点では、まずはコンセンサスが得られよう。

自分のことを振り返ってみると、こちらで何か働きかけをして、即座に反応を確認、あるいはそれによる満足を得ようとするのが、子供ではないだろうか。

誤解を承知で言うならば、そういった経験を何度となく繰り返しているうちに、その後の変化に予測が働き、意外性を排除するようになるのが大人ということではなかろうか。

また、3歳にとっての1年は人生の1/3であるのに、私の例で言えば当年66歳にとっての1年は1/66である。

分母が大きい分、この分数の値、つまり変化量は小さくなる。年齢を重ねるにつれ、人間が保守的になるのは、ある意味生理的にも整合性があるのかもしれない。

逆に、歳をとっても冒険的革新的な生き方をしているのは、精神的に青年をつら抜いているとも言える。

人間保守的、あるいは保身的になったらそれはある意味死に近づいたということなのかもしれない。

閑話休題。

さて、リスは英語ではsquirrelだが、これには動詞で「ため込む、隠す」という意味がある。おそらく、リスが頬袋に木の実などをため込む様子からできた動詞だと考えられる。

ちょっと発音が似ている言葉に(やや強引か)、スキャロップ=scallop、日本語ではホタテ貝がある。

scallopはその他、波型模様、カーテンやテーブルクロスの扇型模様、そして歯科分野では歯と歯肉の境目の波型模様をも指す。ホタテ貝の貝殻の縁の形状から派生した意味だと思われる。

ホタテ貝から、話は水の中に移る。

軟体動物のタコは英語でoctopusだが、これはラテン語のocto=8とpous=足からなり、直訳は「8本足」ということになる。オクターヴやガソリンのオクタンも8が語源となっている。

「海老で鯛を釣る」とは、「わずかな手間(資本)で大きな利益を得る」意味だが、エビも高価では?と思わないだろうか。実はこの場合のエビは、伊勢エビなどではなく、餌に使う安い小エビを指す。

「鯖を読む」とは、「数をごまかす」という意味に使われる。

これは江戸時代、足が早く(=腐りやすく)大量に獲れた安価なサバを数えるのに、時間がかけられないため、適当に数えたところからできた諺である。

ついでに、「足が早い」とは。

「脚=足」は、「雨脚」「日脚」「火脚」等に使われるように、物事が時間とともに変化していく様を表す。足で移動することから時間の移動、つまり経過にも使われるようになったようである。つまり、「足が早い」とは、「新鮮な状態から腐敗するまでの時間が短い」となったのであろう。

海外に目をやると、イタリアにサルディニア(イタリア語: Sardegna)という島がある。この周辺の海では昔からイワシがよく獲れた。そのため、イワシの英語名sardine=サーディンはこの島の名に由来しているとか。

魚関連で、服地にヘリンボーン-herringboneという模様がある。V字形や長方形を縦横に連続して組合せた柄だが、これは開きにした魚の骨の形状に似ているところから、ニシン=herringの骨=boneという意味からつけられた呼び名である。

服地の話のついでに、ドスキンという生地がある。昔の軍服などに使われていた、目のつんだビロードのような光沢の厚手の織物を指す。doeskinと書くが、前回㉔で触れたdoe=雌ジカの(なめし)skin=皮のことであるが、一般的にはこの雌ジカの皮に似せて作られた厚地紡毛織物をいう。

ちなみに、moleskin=モールスキンは厚手の綿織物のことで、mole=モグラの皮のような肌触りからつけられた。個人的には、キウイフルーツの感触に似ていると思うがいかがか。

その他、動物の毛皮を使ったものではsealskinがあるが、これはオットセイやアシカの毛皮を指す。

英語のtunaは、スズキ目サバ科マグロ属のマグロやカツオを指す。ちなみに、sea chicken=シーチキンは日本のある会社の商品ブランド名であるが、マグロの食感が鶏のささみに似ていることからつけられたとされるが、まさに言い得て妙である。

話は細菌の名前に移る。

食中毒の原因菌であるサルモネラ菌=Salmonellaは、発見した細菌学者、Daniel Salmon=ダニエル・サーモンにちなんで名付けられた。

サーモンはもちろんサケ目の魚サケのことである。だから、サーモンさんは日本語では鮭さんである。

サーモンのスペルはsalmonで、-l-はサイレントで発音しない。

通常、細菌の命名には、発見者の名前に接尾語として-ellaをつけることが多い。

Salmonに-ellaをつけSalmonellaとなり、この場合は-l-はサイレントではなくなり、サルモネラと発音する。

ちなみに赤痢菌はShigellaというが、これは発見者の志賀潔のShigaに-ellaをつけた命名である。

クレブシエラ(Klebsiella pneumoniae)という肺炎の原因菌は、発見者であるドイツの細菌学者Edwin Klebs=エドウィン・クレブスの名をとった命名であるが、これも-ellaがついている。ちなみにKlebs=クレブスは、ドイツ語で悪性腫瘍を意味するが、疾病であるものの、これは発見者とは関係がないらしい。

ついでに、がんは英語でcancer というが、ドイツ語のKlebs同様、カニのことである。ギリシャ語の「カルチノウス」が語源で、これは乳がんにおいて、ちょうどカニが手足を広げたような硬いしこりを表面から触れる様を表現したものされている。

さて、カニは漢字で「蟹」と書き、甲殻類なのに「虫」がついている。

同様にヘビは漢字で蛇、カエルは蛙と書く。これらはなぜ虫編か。

実は、「虫」という字は、ヘビが鎌首をもたげた形からできた象形文字である。それゆえ、ヘビの仲間である爬虫類(ここにも虫が出てくる)の生物を表すのに、この字が使われている。つまり、うねうね、くねくねしたもの、あるいは足の多いものに爬虫類のイメージが当てられ、虫編がついている。蛙(カエル)や先に出た蛸(タコ)等もその例である。

ちなみに虹に虫編がついているのは、天を渡る龍(ヘビの仲間)のイメージからつけられたものと考えられている。

では、いわゆる昆虫の名前に使われている「虫」はというと、本来は「蟲」の字が使われていた。虫がうじゃうじゃ蠕いているイメージを表したと考えられる。それが略されて「虫」となった。

引き続き虫にまつわる話題を。

最近では、フリマと呼ばれるフリーマーケット。自由に出品できるからfree marketと思いきや、実はスペルが全く違う。正しくはflea marketである。このような誤解を生じるのは、l とrの発音を正しく区別できない日本人の残念なところである。fleaは節足動物のあのノミのことで、つまり「蚤の市」のことである。ではなぜノミなのか。

時代は遡り、フランスの第2帝政時代(1852-1870)に、パリの中心街を軍隊が行進出来るように大通りにしようと再開発が行われた。それにより、スラム街や古い商店は取り壊された。売り場を追われた商人たち(大半は中古品を売っていた)はパリの北部、 ポルト・ド・クリニャンクール(Porte de Clignancourt)で市を立てることを許可され, 1860年に初めて売店が登場した。要するに、中古品を売っていたのでノミがいるだろうということから、やがて人々はその市を marche aux puces(market of flea) 「蚤の市」と呼ぶようになったというのが名前のいわれである。

似たものついでに、バッタもんとは「正規の流通ルートで仕入れたものではないもの」あるいは偽物を指す。

この「バッタ」には多くの説があるが、説得力のあるものを幾つか紹介したい。

不況などでバタバタと倒産した商店の品物を、一括で大量に安く買う業者を「バッタ屋」といい、そこからバッタもん(物)というようになったという説、

バッタがいそうな道端で拾ってきたような物を売るからという説、場当たり(バッタ)的に入手した物を得るからという説、バッタのようにあちこちに店を移転するからという説等。それぞれさもありなんという感がする。

空を飛ぶ点では似ているセミ。意外なことにカメムシ目セミ科の昆虫。

ミンミンゼミ、ニイニイゼミとか、鳴き声から命名されているものはわかりますい。

一方アブラゼミは、羽根の感じが油紙に似ているからという説や、鳴き声が油を熱したときに撥ねる音に似ているからという説がある。

どことなく物悲しさを感じるヒグラシの鳴き声。子どもの頃、山で聞くこの鳴き声が夏休みの終わりを予感させ、一抹の寂しさを覚えた。

ヒグラシとは、日暮れ時に鳴くことから「日暮らし」と名付けられたそうである。

羽根があるついでに、嫌われ者のゴキブリについて。

明治時代までは「ゴキカブリ」と呼ばれていた。漢字では御器噛と書く。今でも関西では「ゴッカブリ」と呼ぶ地域もあるようだ。これは何にでもかぶりつくという意味で、蓋つきのお椀(=御器)をかじる虫という意味から来ている。ゴキブリの異名には「コガネムシ(=黄金虫)」というのもあり、「コガネムシは金持ちだ」という童謡の「コガネムシ」はゴキブリを指し、ゴキブリが増えることは財産家の証しという言い伝えがあったようである。

話はより上空を飛ぶ鳥に移る。

トビ職(鳶職)とは、トビのように優雅に高いところを飛び回るからついた名前ではない。彼らが持っている鳶口に由来する。鳶口とは、トビのくちばしに似た爪を先端に付けた長い棒のことで、木を引き寄せたり消火作業等に使われていた。

「獲物になる」「食い物にされる」ことを、「カモになる」「カモにする」という例えはどこからきたのか。

カモの代表格であるマガモは、形も大きく味も良く、さらに数も多かったためとても捕まえやすく、料理にはもってこいの材料だったことからこの表現が生まれたようである。

また、鴨肉は多少の癖があるため、甘みのある冬ネギと合わせると相性が良かったことから、良い話にさらに好条件がつくことを「カモがネギ背負ってくる」と言うようになったとか。

さて、鳥にやや似ているコウモリについて。

「あいつはコウモリだから」といった比喩に使われることがある。

これは、イソップ童話の「卑怯なコウモリ」からの引用である。獣一族と鳥一族の戦争で、前者が優勢のときは「私は全身に毛が生えているから獣の仲間です」と言い、後者が優勢似なると「私には羽があるから鳥の仲間です」と言って、最後に双方から卑怯者扱いされたという話から、態度のはっきりしない卑怯者を指す比喩となった。

ちなみにウィルスの自然宿主によくコウモリが挙げられるが、行動範囲が広いこと、冬に冬眠しウィルスを温存させやすいこと、温度変化の少ない不潔な環境に暮らすこと等が原因とされている。

それにしても、COVID-19の1日も早い収束を願うばかりである。

最後になぜか羊羹について(実は何を隠そう私の好物である)。

「羊羹」の「羹」は訓読みで「あつもの」と読み、とろみのある汁物を指す。中国では「羊羹」という言葉は羊の肉やゼラチンを使ったスープを示す。

日本には、鎌倉から室町時代に中国に留学した禅僧によって点心(食事と食事の間に食べる間食)の一つとしてもたらされた。しかし、禅僧は肉食が禁じられていたため、小豆や小麦粉、葛粉などの植物性の材料を使い、羊肉に見立てた料理がつくられたそうである。

そうだったのか語源㉔   -動物にまつわる言葉 その1-

今回は、昆虫も含め動物をターゲットとしてみたい。

そもそも植物に対する動物とは、と言う前に、まずは両者の共通点を確認しておきたい。

単刀直入に言うと、糖を燃焼させることにより代謝に必要なエネルギーを得ること、である。

違いは、植物はこのエネルギー源である糖を自らの代謝システムで作り出すことができるのに対し、一方の動物は、他の生物(植物、生物)を摂取し同化(吸収し、栄養とする)することで、そこから得た糖をエネルギーとする。

まずは、人間にとって馴染みのある動物の代表、イヌから始めたい。

「犬」という漢字は、耳を立てたイヌを横から見た姿を表したれっきとした象形文字である。似ているものの「大」とは全く関係がない。

犬死という言葉がある。

イヌは古来より、「家臣、家来」に意味を持っていた。

家臣は忠義のため、時として主君のために死ななくてはならなかった。

一方主君、あるいはひとかどの武士は、そう簡単には死ねない。

「ひとかどの武士は、そんな家来のような死に方はできない」という意味から、「家来のような死に方」を犬死と言うようになったそうである。たぶんにヒエラルキーの匂いがする。

このように、「イヌ」には(主君から)一段下に見た意味で使うことがある。

イヌツゲ、イヌタデ、イヌマキ、イヌビワ等、本来の植物から見て役に立たない、あるいは劣っているという意味で用いられるようである。一説には、「否(いな)」から「イヌ」に転化したとも。

次に、同様に馴染みのあるウマにまつわる言葉について。

「馬耳東風」にある馬とはいかに。

前者は、中国唐の詩人李白の「世人之を聞けば皆頭を掉(ふ)り、東風の馬耳を射るが如き有り」という詩に由来している。東風とは春風のことで、人は春風が吹けば寒い冬が去って暖かくなると思って喜ぶが、 馬は耳をなでる春風に何も感じないという意味である。ウマが本当に春風を感じないかは定かではない。

同様の意味で「馬の耳に念仏」という諺があるが、ありがたい念仏を馬に聞かせても理解できないから無意味ということだろうが、それならウマでなくてもネコやブタでも良さそうなものである。と思いきや、似たようなものに「猫に小判」「豚に真珠」というのがあった。組み合わせは、「馬に小判」でもまんざら見当違いとは言えまい。

タヌキ、キツネは、昔話や童話にもよく登場する。

これらの動物を比較対象とした時、どんなイメージが浮かぶだろうか。

双方ともイヌ科の動物だが、タヌキはお人好しで少し間がぬけている、一方のキツネは小利口で意地悪なイメージだろうか。顔の形と体つき、そして身のこなし方から来るのかもしれない(タヌキはたれ目ではないが、目の周りの模様でそう見えるだけ)。

タヌキは漢字で獣偏に里と書くが、雑食性でまさに里山といった、人間のテリトリーに近いところに棲息する。一方のキツネの語源は諸説あり、その一つは、「きつ」は鳴き声から、「ね」は接尾語的に添えられたものとされる。また、「き」は「臭」、「つ」は助詞、「ね」は「ゑぬ(犬)」が転じたもので、臭い犬の意とする説、「きつね(黄猫)」の意とする説、体が黄色いことから「きつね(黄恒)」とする説など、諸説ある。

日本の神話ではキツネは神聖なもの、イソップではキツネは狡猾なもの、といった固定概念はあるようだ。

神道では、「神使はしめ」と言ってキツネを稲荷神の使いの動物としている。このへんから、キツネは昔から特殊な能力を持っている動物として扱われている。「狐憑き」などは、このあたりと関係ありそうである。

さて、馬鹿とは「梵語のmoha =慕何(痴)、またはmahallaka =摩訶羅(無智)の転で、僧侶が隠語として用いたことによるという」と説明されている。

ただ、なぜmoha =慕何、mahallaka =摩訶羅が、バカになるのかという疑問は存在する。他にも、漢字で「破家」と書き、これは家財を破るの意で、家財を破るほどの愚かなことの意からという説である。また、中国の史書『史記』には、秦(しん)の始皇帝の死後に丞相(じょうしょう)となった宦官(かんがん)の趙高(ちょうこう)が、おのれの権勢を試すために、二世皇帝に鹿を献じて馬だと言い張り、群臣の反応を見たという話によるという説もある。

さて、やや堅苦しい故事で、「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」というのがある。「えんじゃく いずくんぞ こうこくの こころざしを しらんや」と読む。

中国前漢時代(紀元前206年~8年)の歴史家・司馬 遷(しばりょう)が編集した歴史書で、正史「二十四史」の「史記(しき)」に残っている。

「燕雀」とはツバメとスズメで庶民を指し、「鴻鵠」とはコウノトリとハクチョウのことで大鳥を象徴でしている。要するに、ある地位にいる者の気持ちや志は、庶民には理解できまいといった、これも多分にヒエラルキーの匂いのする諺である。

ある政権が任期の終焉を迎え、実績が伴わなくなると、レームダック=lame duckという表現が使われる。直訳すると「足の不自由なアヒル」であるが、役立たずの政治家や、死に体を表す。もともとは、ロンドンの株式市場で大損した人を指したらしいが、足が悪く群れについて行けず、外敵の餌となる運命のアヒルを例えたもので、「先が見えている」というニュアンスが感じられる。

身代わりになることをスケープコート=scapegoatという。

scapegoatは “the goat allowed to escape”、直訳すると「追放されたヤギ」となるが、贖罪(しょくざい)のヤギを指す。古代ユダヤでは贖罪の日にヤギに人々の罪を負わせ, 野に放ったことからできた言葉である。

似ている言葉にsacrifice=生贄(いけにえ)という言葉があるが、厳密には身代わりとは異なり、「捧げる、神聖なものとして拝する、不死にする」という意味のラテン語“sacrare”に由来している。

チキン=chickenは鶏で、特に若鶏やヒヨコを指すが、形がそれと分かれば鶏肉も指す。

ちなみに英語では、動物のオスとメスで、呼び名が異なる場合がある。

雄鶏はcock(あるいはrooster)で雌鶏はhen、クジャクもオスはpeacockでメスはpeahen、ライオンもメスライオンはlioness、牛のオスはox(あるいはbull)、メスはcowとなる。

また、有名なミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」の「ドレミの歌」の一節「Doe, a deer, a female deer」でも、雄ジカはdeer(あるいはシカの総称)で雌ジカはdoeとなっている。これが「ドレミ」の「ド」である。

bullが出たついでに、金融業界で使われる言葉に、ブル(bull)とベア(bear)というのがある。ブルは雄牛の意で、角を下から上に突き上げることから上昇相場を表し、一方のベアはクマで、爪を上から下に振り下ろすことから下落相場を表す。ちなみに、春闘で聞くベアとは「ベースアップ」の日本語独自の略語である。

日本語のワニに相当する英語には、クロコダイル= crocodileとアリゲーター=alligator、そしてガビアル(ガビエル)=gavial=がある。

クロコダイルが大型のワニ、アリゲーターはそれより小型のワニ、ガビアルは口の細長いワニを指す。さらにクロコダイルとアリゲーターの違いを言えば、鼻先がV字に尖っている、牙が顎から飛び出している、体を持ち上げて歩くのがクロコダイル、鼻先が丸みを帯びている、牙が顎の中に収まっている、そして体を引きずって歩くのがアリゲーターとなっている。だが、ワニと遭遇しパニックになっているとき、パッと見ただけでどのワニかすぐに区別できるかは疑問である。「ワニ図らんや」である。

同じく川に生息する動物にカバがいる。

カバは英語で hippopotamus だが、お恥ずかしい話、これまでずっとhypopotamusだと思い込んでいた。己の過ちを他に転嫁してはならないが、これは学生時代、解剖学で視床下部をhypothalamusと学んだことによる弊害である。hypo-は下の意、thalamusは視床を指す。potamosはギリシャ語で川の意で、川の下(中)に棲んでいるからと、勘違いしていた。実はhipposは馬で「川に棲む馬」という意味のようである。日本語でも漢字で「河馬」と書く。ちなみに、英語ではカバのことを通称hippoと呼ぶ。

ちなみに、脳に記憶に関わる「海馬」(イタリア語:hippocampus)という部分がある、hippoはウマ、campusは海の怪物を指し、つまり前がウマで後ろが魚の怪物のことで、この後半の形が似ているところから名付けられたようである。別に、海馬はタツノオトシゴ、またトド等アシカ科の動物の総称を指す場合もある。

怪物との関係は微妙であるが、dinosaur=恐竜について。

ギリシャ語の”deinos” (巨大な)と “sauros”(トカゲ、あるいは爬虫類)からの造語である。

日本語では、「とんでもなく(恐ろしく)偉大なは虫類」と命名した。 その「恐ろしく」という副詞が、「恐ろしい」という形容詞にすり替えられて、「恐竜」という言葉が生まれた。

ここの名前では、「–ザウルス」という接尾語がつく場合は、dinosaurの形容詞がついた名前と考えれば良い。

一方で、「—ドン」という接尾語の場合は、ギリシャ語のodont=歯に由来し、歯に関係しているものが多い。

イグアノドンは、「イグアナの歯」という意味で、その歯の形がイグアナのそれに似ているために命名されたという。

ちなみに翼竜のプテラノドン=ラテン pteranodonも名前にodon-が入るが、この場合は少し意味が異なる。ギリシャ語のpteron=翼と否定辞のan-、「歯」のodont-とから成っているため、プテラノドンは「翼はあるが歯はない恐竜」という意味である。ちなみに解剖学では、頭蓋骨の蝶形骨翼状突起はラテン語でProcessus Pterygoideusで、pteronと同源である。

その他、トリケラトプスなど、「—オプス」とつくものも多く存在している。こちらは、ōps =顔を意味しており、顔に特徴があるのが共通点だといえる。

トリケラトプスは、ギリシャ語のtri-=3、kéras=ケラス、ōps=オプスという3つの語から成り、「3つの角の顔」という意味である。

角質のことを「ケラチン」というのは、ケラスと同源である。

恐竜と繋がりがあるとすれば大きいところだろうか、工事現場の重機の名で、あまりに日常に溶け込みすぎて、語源が意外なものがある。

まずクレーン。英語ではcraneと書き、元々は鳥のツルのことである。確かに腕の部分がツルの首、資材をつかむ部分がツルのくちばし、長い腕がツルの首に似ている。

そしてキャタピラ。ブルドーザーなどのタイヤにあたる部分だが、日本語では無限軌道という。その意味ではタイヤも無限軌道の一つと言えなくもないが、ここで拘泥するのはやめよう。英語でcaterpillarと書き、元は毛虫、イモムシのことである。イモムシの無数の足が動くのに似ているので合点がいく。

指で長さを測るとき、親指と人差し指をコンパスのようにして広げては閉じてを繰り返す。ちなみに私の場合は17cmである。これとよく似た動きをする虫を、日本語では尺取り虫という。英語でもinchwormという。ウォームギアのwormもイモムシやミミズのことで、確かに動きは似ている。

さて、蝶は英語でバタフライ=butterflyというが、このバターとは何を意味するのか。

諸説あるが、魔女が蝶の姿になってバターやミルクを盗むという一説、また蝶の排泄物の色がバターに似ているからという説もある。

前者にはロマンを感じ、後者には現実的な観察眼を感じる。

欧米人は、とにかく百獣の王ライオンが好きらしい。

先にも触れたが、英語圏ではオスとメスで呼び方が異なり、ライオン一般とオスライオンはlion、めすはlionessである。

Leo-はネコ科の動物を指すらしい。ヒョウはleopardだが、ダ・ビンチも含め、とにかく欧米ではLeonard Leopold Leonid等、Leo-という、ライオンにちなんだ名前がとにかく多い。強さや権威の象徴といえよう。

ライオンと並んで、欧米でよく使われる名前に、ハトがある。

日本でも鳩山、鳩といった名字があるにはあるが、さほど多くはない。

が、日本のことを大和と称するように、コロンビアという名は、アメリカの別称・雅称として多用されている。これは、アメリカ大陸の発見者、クリストファー・コロンブスに由来する。語源のColomboは、イタリア語で「ハト」を意味する単語である。

その他、「コロンビア」は国名やアメリカのコロンビア特別区にも、また、スリランカの首都、そしてドラマの「刑事コロンボ」にも派生語は使われている。平和のシンボルとして名付けられたのではないだろうか。

ただ、スリランカのコロンボの場合、名称の由来はシンハラ語で「マンゴーの樹の茂る海岸」を意味する「Kola-amba-thota」がポルトガル語でのクリストファー・コロンブスの名であるコロンボに置換えられたものだという。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そうだったのか語源㉓   -植物にまつわる言葉-

 今回は、植物にまつわる名前に触れてみたい。ガーデニングが趣味の私ゆえ、少々話が長くなりそうな気がする。いや、少々では済まない気がする。ご容赦を。

まず、ここ前橋にゆかりのある植物から、桑(クワ)について。

前橋近郊は古くから養蚕が盛んで、上毛カルタでも「県都前橋糸の町」と謳われているように、前橋は絹糸の集積地だった。

かつては、カイコの餌となる桑はいたるところで栽培されていて、小学校の児童が学校からの帰りしな、桑の実であるドドメ(英語ではマルベリー)を摘んで口の周りをそれこそドドメ色にしていたものだった。ドドメというと今では桑の実を指す名前となっているが、実は桑という植物自体を指す名前だったようである。

桑は地中深く根を張り土をしっかり掴むため、川の土手に決壊防止のために植えられたそうで、土手桑と呼ばれていた(桑の種類かもしれない)。つまり、土留め、ドドメとなったようである。

「葦」「芦」「葭」「蘆」の漢字が当てられているヨシ。屋根を葺く材料にも使われる。実はアシとも読む。パスカルが「人間は考える葦である」と言ったアシである。「アシ」が「悪し」に通ずるのを忌み嫌って「ヨシ」と言うようになったそうな。

さて次に、他のものから連想してつけられた植物の名前を幾つか挙げてみたい。

まずはスミレ。

花は独特の形で、ラッパのような形の花を横向きかやや斜め下向きにつける。5枚の花びらは大きさが同じではなく、下側の1枚が大きいので花の形は左右対称になる。つまり、多くの花のような回転対称ではない。この花の形が大工さんが使う墨入れ(墨壺)を思わせることから、墨入れ→スミレとなったいう説を牧野富太郎が唱え、広く一般に流布している。定説とは言えないようであるが、しかしよく似ている。

次にハス。古名ではハチス。

これは、ハスの花托(花柄の上端にあって,花弁めしべなどをつける部分)が蜂の巣の形に似ていることからとされている。ハスはその転訛。ジョウロの先の部分もこれに似ているので、ハス口という。

ハスに触れたついでに、レンゲについて。

レンゲとは一般的に草原に咲くレンゲ草のことを指す。

このレンゲは、蓮華あるいは蓮花と書き、つまり小さいながら花の形がハスのそれに似ているところから来ている。ちなみに、童謡の「ひらいたひらいた」に出てくる「レンゲの花」とはレンゲ草ではなくハスの花のことで、早朝に花を開き、昼には閉じてしまうハスの生態を歌っている。

余談ながら、レンゲ草は最近あまり見かけなくなったが、代わって草原でよく見かけるシロツメクサ、いわゆるクローバー。レンゲ草と同じくマメ科の植物で、白いが花の形はレンゲ草によく似ている。原産地はヨーロッパで、江戸時代にオランダから輸入したギヤマン(ガラス器)の箱に乾燥したこの草をクッション材として入れてあったため、この名が付けられたそうである。つまり、漢字では白詰草である。

他に形が似ているところから命名された植物としては、カエデ、ナツメ(棗)、ビワ、ギボウシ等がある。

カエデはカエルの手に似ていることから「カエルデ」と呼ばれ、それが転訛したものとされている。

ビワ(枇杷)は、意外にもサクラやウメと同じバラ科の植物である。ただし、これらと異なるのは常緑樹であること。

植物のビワは、実は楽器のビワの形に似ていることから付けられた名前だそうである。

楽器の琵琶(びわ)はヨーロッパの楽器リュートと起源が同じく、形もよく似ている。

2世紀頃に書かれた中国の字書「釈名(しゃくみょう)」に以下のように記載されている。ちなみに釈名は語源の字書である。

「枇杷はもと胡(こ)(中央アジア)の地に出(い)づ。前に押してひくのを枇(び)といい、手前にひくのを杷(は)という」

ピインとはね、パアンとかきならすのでピパ。これがピハ→ビワと変化したといわれている。

琵琶の胴(どう)が木でつくられるので木偏をつけて「枇杷」と書き、のちに琴の一種というので「琴(こと)」の字の上をそろえて「琵琶」と書くようになったという。

植物のビワが楽器の琵琶から独立して「枇杷」と表記されるようになったのは、5~6世紀頃ではないかと言われている。まさに枇杷が栽培されだした頃と同じ時期である。湖の琵琶湖も琵琶に似た形に由来している。

ジキタリスは、「そうだったのか!語源⑩ −常用の外来語 その2− アナログとデジタル」で触れているが、花の形がdigit=指の形に似ていることに由来している。詳しくは、語源⑩を参照されたい。

蕾の形が、橋の柱の頭部についている宝珠形のギボシという装飾に似ていることから名付けられたギボウシ。欧米に輸出され、ホスタの名前で園芸植物といて重宝されている。他に、葱帽子(ネギボウシ)から転訛したという説も。

ナツメは、夏に入って芽が出ることに由来するそう。ちなみにナツメヤシは果実の形が似ていることから。

茶道具の棗(なつめ)は抹茶を入れる容器だが、その形がナツメの実に似ていることから、名付けられたと言われている。

私は、「あの子はだあれ、だれでしょね、なんなんナツメの花の下—」の歌に妙に興味を惹かれ、庭にナツメの木を植えている。サクランボのような実は愛らしいが、それに似合わぬ鋭いトゲに閉口する。

さて、誰でもご存知、タンポポの名前の由来には諸説ある。

一つは、種の冠毛(かんもう)が丸く集まっている様子が、綿を丸めて布などで包んだ「たんぽ」に似ていることから、「たんぽ穂」となり、それが転訛したという説。

他に、田んぼのあぜ道などによく生えていることから、昔は「田菜」と呼ばれていて、その「たな」が「たん」に変化し、それが綿毛がほほけることから「ほほ」と結びついてたんぽぽになったという説もある。

さらに、たんぽぽの茎の両端を細かく裂くと、反り返って鼓のような形になることから、別名「鼓草(つつみぐさ)」と呼ばれていたり、鼓をたたいたときの「タンタン、ポンポン」という音がたんぽぽの名前の由来になったという説も。

やや似ているところでペンペングサは、春の七草の一つであるナズナの別名である。

まずナズナだが、名前の由来は諸説ある。

早春に開花して夏になると枯れることから「夏無き菜」、つまり夏無(なつな)から変化したという説、撫でたいほど小さく可愛い花(菜)の意味の「撫で菜(なでな)」から転訛したという説、あるいは朝鮮古語のナジから「ナジ菜」となり変化したなどの説がある。

ペンペングサはシャミセングサの別名の通り、花の下にたくさんついている実の形が三角形で、三味線のバチの形をしているところから名付けられた。

カタバミは既出のシロツメクサ、つまりクローバーによく似ているが、カタバミ科の植物で別物である。葉は、ハートが3枚先でくっついた整った形をしている。

ところが、私のようにガーデニングが趣味の人間にとっては、繁殖力が強く、また深くまで根の張る厄介者でもある。

変わった名前だが、夜になると葉が折れたように閉じられる生態から、葉が半分食べられてように見えるため「片喰み」が転じて名がついたそうである。

さて、カタバミは日本の5大家紋の一つに引用されている。武家の間ではその強い繁殖力が、子孫繁栄、家の永続の象徴とされたようである。

飲み物の「チャ」は、茶と漢字で書かないと変である。実は、ツバキ科の常緑樹チャノキの葉を加工した飲み物を茶という。

さて、茶色は英語ではbrownだが、茶の葉は緑greenである。これは、茶葉を染料として布を染めるといわゆる茶色になるため、「茶で染めた布の色」を茶色と呼ぶようになったと考えられている。

17世紀、オランダの東インド会社は中国からお茶を輸入したが、その拠点だった福建省の方言でお茶を「テー」と呼んでいたのがteaの語源とか。その後、イギリス、フランス等もオランダからお茶を買ったため、この言葉が広まったようである。ちなみにフランス語ではthé「テ」、ドイツ語ではTee「テー」となる。

広東省由来の発音は「チャ」に近く、要するに、「テー」と「チャ」が世界中に広まったわけであるが、teaも「チャ」と発音できなくもない。

オミナエシは、秋の七草の一つとして古来より鑑賞の対象として親しまれてきた。漢字では「女郎花」と書くが、女郎とは平安時代、高貴な女性を指す言葉であった。茎がすっきり細く伸び、その先に小さな黄色の花をたくさんつける様が高貴な女性のイメージだったのだろうか。しかしこれでは由来としての面白みに欠ける。

こんな説もある。

オミナエシは女飯(おんなめし)が転訛したもので、これは黄色の花を粟飯に見立てての名であり、それに対してよく似たオトコエシという植物は白い花をつけるが、これを白飯に見立ててオトコメシとしたという説である。いにしえの男尊女卑の文化が感じられ、興味深い。

静御前が、「しづやしづ 賤(しず)のをだまきくり返し—」と謳ったとされるオダマキの花は、花びら同士を立体的に組み合わせたような、不思議な美しい形をしている。漢字では苧環と書き、「苧(お)」という繊維を丸く巻き付けたもの「苧玉(おだま)」に花の形が似ているところから、「苧(お)」、「玉(たま)」、「巻き(まき)」が「苧環」となり、オダマキと呼ばれるようになった。

別名、イトクリソウ(糸繰草)とも呼ばれている。

さて、一風変わったところでは、イヌノフグリ、オオイヌノフグリはオオバコ科の植物だが、果実の形が雄犬の「フグリ」、つまり陰嚢に似ていることからそう名付けられた。意外な発想に感服する。

クチナシは春のジンチョウゲ、秋のキンモクセイと並び、3大香木のひとつに挙げられている。初夏に咲く白い花の甘い香りは独特で、この葉につくアゲハチョウの幼虫をよく見る。漢字では梔子と書くが、この果実は黄色の染料に用いられ、食品の添加物にもなっている。この果実は熟しても裂開しないところから「口がない」、そこからクチナシの名が付けられている。ちなみに、庭木として栽培されているものの多くはオオヤエクチナシで、花は豪華だが実はつけない。

そして3大香木のひとつジンチョウゲはジンチョウゲ科の常緑低木で、漢字では沈丁花と書く。この香りは春の訪れを感じさせるが、この香りが沈香(じんこう:ジンチョウゲ科の常緑香木の幹に人為的に傷をつけ、そこから分泌される樹脂を採取したもの。水に沈むことから沈水香とも。高級品は伽羅=きやらと呼ばれる)という香料に似ており、また十字型の花が丁子(クローブ)に似ていることに由来する。

春から晩秋にかけて咲くキンポウゲ科のクレマチス。日本では鉄線と呼ばれるものがその一種である。鉄線のように頑丈なツルを絡ませながら成長していく姿からこう名づけられたそうだが、実際にはツルはかなり繊細で容易に折れてしまう。扱いにはご注意を。

一方クレマチスの名は、ギリシャ語で「つる」や「巻き上げ」の意を持つ「klema」がラテン語に変わって、「つる性植物」を表す「Clematis」という名前がついたといわれる。英語で「登る」を意味するclimbから、つる性植物を絡まって登ることからclimber(クライマー)と呼ぶが、おそらく同源であろう。

ワスレナグサ(忘れな草)とは、ずいぶんと感情移入した命名のように響く。漢字では漢文調に「勿忘草」と書き、小さな青やピンク、あるいは白い花を無数に咲かせるムラサキ科の一年草である。

日本語名がしっくりくるが、実は「私を忘れないで」という意味の英語名「forget-me-not」、ドイツ語名「Vergissmeinnicht」の訳である。一説には秘話に由来する。

昔、ドナウ川沿いを騎士ルドルフと恋人ベルタが散歩していた。ベルタは、ドナウ川の急流の川岸に青い小さな花を見つけ、「あの花が欲しい」と言った。ルドルフは花を摘むが、その瞬間足を滑らせ、急流に飲み込まれる。もはやこれまでと思ったルドルフはベルタに花を投げ、「私のことを忘れないで」と叫びながら流れに飲まれていった。ベルタは生涯ルドルフのことを忘れず、毎年この花が咲くと部屋に飾ったとのこと。

もう一つの説はもっと古く、エデンの園でのお話。

エデンの園に咲く花に、アダムが全て名前をつけたと思っていたら一つだけつけ忘れた花があった。この花の名前を忘れないようにとワスレナグサと名付けたとのこと。

ヤナギはヤナギ科の落葉樹の総称を指すが、名の由来は「弓矢の矢を作る木」の意味で、「矢の木」から転訛したものとされている。ちなみに、ニシキギ科のマユミは、弓の材料として使われたためにその名がついた。

ところで、ヤナギには漢字で「柳」と「楊」と書くものがある。

「柳」は、旁が「流れるようにすべる」ことを表し、また形がいかにも風に揺れているように見える通り、枝が垂れ下がる落葉高木のシダレヤナギを指す。

一方の「楊」の旁は「上がる」ことを意味し、枝が上に伸びるカワヤナギやネコヤナギなどの落葉低木を指す。

さて、楊枝(ようじ)には楊の字がついている。もともとは、現在のように先が尖ったものではなく、楊の樹木の枝の先端をかみ砕いて繊維を出して歯ブラシ状にした房楊枝を指していた。ちなみに、ヤナギの樹皮には解熱鎮痛作用のある「サリシン」という成分があり、薬木としても利用される。

タケノコの本来の意味は文字通り「竹の子」で、イネ科タケ亜科タケ類のタケ(竹)の若芽を指す。

茹でたタケノコが食卓に並ぶと日本人なら春を実感するであろう。

タケノコは漢字一字で筍と書く。竹冠に旁は旬で、この旬は10日を意味する。なので月の最初の10日を上旬、次の10日を中旬、そして後の10日を下旬と呼ぶ。タケノコは成長が早く、地上に顔を出して10日でタケになるため、中国ではこの字が当てられたとか。「今が旬」などという場合、本来は最も適した10日前後を指していたのかもしれない。そのためか、食材としての旬のタケノコを筍と呼ぶという説もあるが、個人的には先の説のほうがピンとくる。

次に取り上げるのはラン。

漢字で蘭と書くこの植物には大きく分けて、地面に生える地生ランと他の植物に付着して生きる着生ランとがある。ちなみに着生ランは、他の植物に埋め尽くされた地球にあとから登場したいわゆる新参者ゆえ、生きるための特別な機能を持っており、単子葉植物の中で最も進化した植物とも言われている。カトレアやコチョウランがこの部類に入る。これらの根はよく空気中にはみ出していることがあるが、この根は、地中にあらずとも水分を吸収する機能がある。

さて、ランは英語ではorchid(オーキッド)で、ギリシア語の睾丸を意味する「ορχις (orchis)」が語源であるが、これはランの塊茎(バルブ=茎のもとの膨らんだ部分)が睾丸に似ていることに由来するそうである。花ではなくそこに目が行くとは。

Wikipediaには、ランの花の特徴として、

「花は左右相称で両性,子房は下位,この子房の部分が普通 180度ねじれ,花は上下転倒している。外花被,内花被はともに3枚,内花被のうち正面の1片は普通特異な形と色彩をもち唇弁と呼ばれ,後方に距を伸ばすこともある。おしべとめしべは合生して特有のずい柱をつくり,おしべは1本,まれに2本だけ完全で他は退化する。」と書かれている。植物の中でもかなりの変わり者である。ちなみにコチョウランは胡蝶蘭と書くが、学名ではPhalaenopsis(ファレノプシス)で、ギリシャ語で「ファライノ(蛾)」と「オプシス(似る)」から、蛾に似た花といった意味だろうか。

スィートピーは、まめ科れんりそう属のつる性1年草で、日本語では麝香連理草=じゃこうれんりそうと呼ばれる。

学名のLathyrus odoratusにodor-がついていることから、香りが特徴とされていることがわかる。

甘い香りなので英語ではSweet pea=甘い豆と命名されているが、実には毒があるのでくれぐれも食べないように。

さて、突然ではあるが、菓子のマシュマロは甘くあの食感がなんとも幸福感に満ちている。マシュマロとは、「メレンゲにシロップを加え、ゼリーで固めて粉をまぶした菓子の名」とされている。

実はこの菓子の名前は、原料となったアオイ科のウスベニタチアオイの英語名、marsh mallow に因んでいる。ハーブの一種で、私もベランダで10年来栽培している。花は小さく実に地味だが、マシュマロの起源だと思うと、やはり夢を感じてしまう。

mallowとは葵=アオイ、つまり徳川家の御紋のモデルになっている植物である。もとはこの植物の根を古代エジプトの王族がすりつぶしてのど薬として使っていたそうである。現代のマシュマロの製法では、この植物は使われない。

「根をすりつぶした」ことから、当然mashed potato=マッシュポテトのmashだろうと思い込んでいたら、実はmashではなくmarsh=沼だった。つまりmarsh mallowは沼地に生えるアオイの意味だった。

ワレモコウ(吾亦紅)は、意外にもバラ科の植物。

サクラ、ウメ、ナシをはじめ、世にバラ科の植物は実に多い。

でも、ワレモコウは見た目にはとてもバラ科とは想像しにくい。

名前の由来は、根の香りがインドにある木香(もっこう)に似ており、「吾の(日本の)木香」という意味で吾木香(ワレモコウ)となった説、また織田信長の家紋でもあった「木瓜紋」が割れた形に似ていることから、「割木瓜」(ワレモコウ)となったという説などが有力とされている。

木香の名は、モッコウバラにも使われている。モッコウバラには白と黄色があり、白の方が香りが強いとされているが、黄色とて十分なボリュームに育てば、それなりに香り立つ。一方のワレモコウからはどうしたことか、ほとんど香りは感じられない。

もうひとつ、木の幹のことを英語でtrunk=トランクという。

ちなみに、同種の英語にstem=ステムがあるが、樹木より草などに使われ、日本語では茎(くき)に近いようである。ワイングラスのベースから立ち上がる細い部分もステムという。

さて、旅行用の大型鞄(かばん)も、またクルマの荷室のこともトランクという。物入れに関係していることはおおかた想像がつく。

起源は定かではないが、大きな木の幹をある長さに切って、内部をくり抜き、それを物入れとして使ったのが語源のようである。木の幹から作ったcontainer=コンテナといったところか。

trunks=トランクス はpants同様、複数形になってはいるが、体の幹、つまり体幹部に着ける衣類という意味からであろう。

最後に当院の名前にも使われている「青葉」等、植物の緑はなぜ青と表現されるのか。

奈良時代、平安時代、日本語には色を表す形容詞が、「白し」、「赤し」、「青し」、「黒し」の4つしかなく、この4色で全ての色を表現していた。そのため、緑という概念が希薄で、一方青(あを)が表す色の範囲はとても広く、一般的には「白と黒の間」とされていた。狭く見積もっても、緑、青、藍あたりの色を全て表している。したがって、緑であっても、青菜、青竹、青物となるわけである。

 

そうだったのか語源㉒  -方位について-

今回は、方位にまつわる言葉について触れてみたい。

まず方位には、一つの分類として絶対方位(absolute orientation)と相対方位(relative orientation)がある。

ここで用いられるorientation=オリエンテーションのorientには方位、方向付けの意味がある。

orientは東、あるいは東アジアを指すことが多いが、もともと東の方角や太陽の出る方角を指して使われており、そこから現代では動詞で「正しい位置に置く」といった使われ方をするようになったようである。

「日出ずる処」ではないが、古来より日中に活動する人類にとって、まずは日の出の方角が方位としての基準となったことは頷ける(ヨーロッパでも中世の大部分の広域地図は東を上にして描かれていたという)。

ちなみに、orienteering=オリエンテーリングも語源は同じで、コンパスと地図で方位を確認しながらゴールを目指す競技ということになる。

絶対方位とは、誰からみても決まっている方位(方向)で客観的であり、一方の相対方位とは基準とする位置によって変わる方向で主観的ともいえる。前者は東西南北と上下で、左右は後者となる。

まず、一般的に地図は北を上にして描かれている。少なくとも現在の日本では。

一般的にと言ったのは、北を上にしない描かれ方も少なからずあるためである。

ここでは、北を上にすることが一般化した理由について触れてみたい。

古くからヨーロッパでは、夜間は北極星を頼りに位置方角を確認していた。14~15世紀頃、地中海航路の探索において、方位磁石(指針は常に北を指す)が重用されるようになった。特に航海の際には羅針盤と地図との対比のため、利便性から北を上にする必要があった。日本の地図の表記はこれに従ったものと言われている(他にも諸説あり)。

地図は北を上(水平面に置いた場合の前方)に描かれているため、北へ向かうのを「北上」、逆に南へ向かうのを「南下」と表現するようになった。つまりこれらの熟語は、地図の描き方が世界的にほぼ確定した近世になってできた言葉である。

次に東西南北について。

この、あまりにも当たり前に使っている方位だが、例えば日本語を知らない外国人にどう説明したらよいだろうか。「東」は先ほどのorientの説明でよかろう。当然「西」は太陽の沈む方角となる。ある国語辞典には、「南」は「日の出るほうに向かって右の方角」と説明されており、英英辞典でも同様の説明となっている。ではここで使われている相対方位の「右」はどう説明されているか。先ほどの国語辞典には、「東を向いたときの南に当たるほう」と記されている。

しかし、これだと「右」も「南」もわからない相手には伝わらない。「右」とは、「日の出るほうを向いたときに、その後太陽が進んでいくほう」としてはいかがだろうか。

ちなみに「南蛮」「東夷」といった漢字表記については、「そうだったのか語源⑭ −国名都市名その2 漢字表記−」で触れているのでここでは割愛したい。

次に、方位が使われている熟語を取り上げてみたい。

まず「敗北」にはなぜ北という字が使われているのだろうか。

勝負に負けて北の方角に逃げたからではない。

「北」にはもともと背を向けるという意味がある。「北」は太陽の方向に対し背を向ける方角という意味である。ちなみにこの「背」にも「北」が使われており、体の後ろ側を意味している。つまり「敗北」とは、勝負に負けて相手に背を向けて退くことを意味している。

次に、「教え導く」意味の「指南」には「南」の字が使われている。

この語源は、古代中国の「指南車」に由来する。「指南車」とは、戦場で南の方角を示すために作られた「歯車からくり」で、上に載っている仙人の人形が常に南を指すように作られていた。なぜ指す方角が南かというと、中国古来の思想に「天子は南に面する」というものがあり、それに基づいたものとされている。先に触れたorientの発想とは別の文化の匂いを感じる。

さて、日本の地名に、上下がつくものが多い。

「上」を「かみ」と読む場合、川上と川下、上の句と下の句のように、もともと連続したものの最初の部分を指す。

まず「上=かみ」の意味について。

お上(おかみ)、つまり朝廷のある所を中心としていた頃の表現で、京都を指す。関西を上方(かみがた)というのはここからきている。

また、京都の中でも上京区(かみぎょうく)、下京区(しもぎょうく)と呼ぶように、大内裏に近い北のほうを上(かみ)という。ちなみに、全国にも「北」のことを「上(かみ)」と表現する場合があるが、京都の例に由来するのか、あるいは先に触れた地図の上(うえ)だからか、はたまた川上の方角だからか、勉強不足のためわかりかねる。

次に京都以外から見た場合、より京都に近い所に上(かみ)という形容詞をつける。上野(かみつけ)は下野(しもつけ)より、そして上越は下越より京都に近い。

絶対方位の「上下」が、ここでは相対方位的に使われているのも興味深い。

似たような表現で、「前後」が使われる場合もある。

例えば、備前、備中、備後の順に、そして越前、越中、越後の順に京都から遠ざかる。

ちなみに、現在の千葉県に当たる上総と下総では、下総が上総より北にあり、しかも京都に近い。これは、かつては三浦半島から上総のある房総半島へ船で渡る海路が主要な交通手段だったため、上総のほうが下総より京都に近かったことによる。

現在、首都である東京を中心として、路線の方向を「上り(のぼり)」「下り(くだり)」と表現するのと同様の概念といえる。

さて、官職をそれまでよりも低い位置に下げられることを左遷という。「遷」は「遷移」「遷都」のように場所を移す(移される)意味である。

この「左」は、古くから中国では右を尊んで上位とし、左を下位とする風習からこのように使われた。ちなみに、西洋も同様の風習(右を「正しい」「正式な」の意味のrightというのはこれが語源とか)だが、日本では逆に左を右の上位とする風習がある。「左上・右下(さじょう・うげ)」とは日本の伝統礼法の一つで、「左を上位、右を下位」とする風習を指す。したがって左大臣は右大臣より高位なのである。佐藤という苗字が多いのもこのせいだとか。

ご存知の方も多いと思うが、先に出た京都だが、「右京」「左京」は、都の北にあった大内裏の位置から南に向かって都を見て、右、左、と名づけられたので、一般的な地図上では、右と左の位置関係が逆、つまり右が西、左が東になっている。

政治思想の世界にも、右翼と左翼という表現がある。

Wikipediaには、「伝統的な意味では、進歩派(革新、革命)勢力を左翼(左派)、保守勢力を右翼(右派)と呼ぶが、具体的な思想や範囲は時代や立場や視点により変化する。」と記されている。

この呼び方の起源は、フランス革命期の議会の席順において、議長席から見て右に「保守、穏健派」、左に「共和、革新派」と、左右に分かれて座っていたことによる。

現在では、政治的スペクトルはより複雑化し、保守、革新共に右派、左派が存在し、さらに分野により左派が右派的になったり、またその逆の場合もある。

その他、「家業が左前になる」という表現があるが、この「左前」とはいかに。

和服の着方で、相手から見て、左の衽 (おくみ)=襟の下の部分 を上にして着ることを指す。普通の着方と反対で、死者の装束に用いる。ここから、運が傾いたり、経済的に苦しくなるといった、萎える様を表すようになった。

最後に、「右肩上がり」について。

グラフの線が右に向かって上がっていく形から、後になるほど数値が高くなること。あるいは後になるほど状態がよくなることで、これは感覚的に理解しやすい。

二次元空間で、横線はX軸、縦線はY軸と呼ばれるが、時間経過に対する変化量を表す場合、一般的にX軸が時間経過、Y軸が変化量を表すことが多い。

「右肩上がり」とはその名の通り、時間の経過とともに、Y軸の数値が大きくなることから、折れ線グラフでも棒グラフでも見ての通り「右肩上がり」となるわけである。

そうだったのか語源㉑ -訓読みが同じで異なる漢字(同訓異義語)-

副題のごとく、日本語には訓読みは同じで意味として共通部分はあるものの、異なる漢字が使われるものがある。これを同訓異義、あるいは同訓異字というが、その数はかなり多い。

日本語は、多くの言語の中でもとりわけ語彙(ボキャブラリー)が多いことが、その理由の一つであろう。そのため、駄洒落も生みやすい。

とにかくその数といったら膨大なのだが、幾つか例として取り上げ、それぞれの意味の違いを考えてみたい。

まず、以前の回でも触れたことがあるが、ある場所で生活することを「すむ」という。「住む」は最も広義で使われるが、人偏があるので、もともとは人が生活する場合に用いた。一方で「棲む」は、鳥や獣が巣を作って生活する場合に使われる。「棲息」という熟語からも理解できよう。

目で知覚することを「みる」という。最も広義では「見る」が使われるが、英語ではseeが該当するようである。

ある場所に出かけて見て楽しむ場合、「観る」が当てられる。「見物」や「鑑賞」の意に近い。熟語としては「観光」「観戦」「観覧」等があり、英語ではenjoy( seeing)だろうか。

「視る」は、より神経を集中して見る意味で、「凝視」「注視」の熟語があり、英語ではwatchが近い。

「診る」は医療用語として日常的に使われるが、見て判断、評価するという意味で、医療で使われることが多い。英語のexamineが相当するが、奇しくもseeもこの意味で使われることがある。

「看る」も同じく医療の分野で使われるが、こちらは、悪くならないように気を配る、見守るという意味合いが強く、英語ではcareが近い。

「きく」にも、「聞く」、「聴く」、そして「訊く」がある。

広義で使われるのはもちろん「聞く」で、英語のhearに当たる。「聴く」はより意識的に集中する様で「耳を傾ける」で英語のlistenが、そして「訊く」はたずねて答えを求める意で英語ではaskが当てはまる。

次に、「あける」という言葉では、「開ける」「空ける」「明ける」が思いつく。これらに共通しているのは、空間ができるというニュアンスである。

「開ける」は、門構(もんがまえ)がある様に、閉ざされていたものが開いて新たな空間ができること、「空ける」は、埋められていた物が除かれ空間ができること、そして「明ける」は闇で覆われていたものがなくなり、日が差して明るくなることを表している。

英語では順に、open, empty, break(あるいはdawn)が相当する。

「とる」も、実に多くの漢字が当てられている。

一般的には「取る」が広義で使われ、保持したり自分のものにすることを表している。

「捕る」は(手で)捕まえること、「摂る」は「摂取」などの熟語に使われ、食べること、体内に取り込むことを指す。

また、「穫る」は禾偏より農作物などを収穫すること、「獲る」は獣偏より狩りや漁で獲物を捕まえることを指す。

「採る」は、集める、採集する、選ぶといった意味を持つ。

さらに、「撮る」は写真や映画を撮影すること、「録る」は画像や音で記録することなので比較的新しい使い方といえよう。

「盗る」は、他人のものを奪って自分のものとすること、そして「執る」は手に持って使う、あるいは行うといった意味である。

「おす」にも、「押す」「推す」「捺す」「圧す」がある。

手偏の字が多いことから、それぞれ何がしかの力が関与していることがうかがえる。

最も一般的なのが「押す」で、物に手や指先をあてがって、前方に力を加える行為を指す。

「推す」は、適当な人(物)として薦めることを指すが、「推進」のように、「押す」と同様の意味もある。また、「推し量る」「推進」のように、時間的、方向的な前方への力を感じとれる。

「捺す」は、「捺印」のように上から力や重みを加えることをいう。

「圧す」は、力や権威などで押さえつけることを意味する。

やや使い分けしにくい言葉に「すすめる」がある。

「進める」「勧める」「薦める」「奨める」「推める」といった漢字が当てられるが、これらにも「おす」と類似し、前方に動かすという共通概念がある。

「進める」は広義で、英語ではdrive、advanceあるいはforwardが当てはまる。

「推める」も「推進」で使われるようにほぼ同義だが、手偏があり手で押して前に進めるというニュアンスがより感じられる。

「勧める」は、相手にあることをするように働きかけるの意(英語ではrecommendあるいはsuggest)、「薦める」は人や物の良い点を挙げ、相手に採用を促す意、「奨める」は、励まして奮い立たせる、つまり背中を押すといった意がある。

さて、「かえる」にも、「変える」「代える」「替える」「換える」「帰る」「返る」「反る」等がある。

「変える」は状態を変化させること、場所を移動すること(英語ではchange)、「代える」は熟語にあるように代用する、代理とすること(substituteあるいはreplace)、「替える」は同種の物と入れかえること、それに対し「換える」は、別の物と取りかえることを意味する(change, exchange ,replace, convert)。

以上とは明らかに意味の違いはあるが、「帰る」「返る」「反る」は自動詞で、共通しているのは、ベクトルが逆になるニュアンスが含まれていることであろう。

「帰る」は、「往復」の「往」に対する「復」であり、「もとのところに戻る」の、「返る」は「物がもとに戻る、もとの状態に戻る」の、そして「反る」は「反動」「反発」で使われるように「向きが逆になる」の意である。

「さわる」もなかなか興味深く、「触る」と「障る」がある。

前者は、触れる、接触するという意味、後者は邪魔になる、あるいは害になるという意味である。ちなみに「キザ」という言葉は、「気に障る」「気障り」からできた俗語である。「気分を害する」というのは、感覚的に不快になるわけだから、直接間接の差はあれど、不快な感触と無関係ではなかろう。

ちなみに、「話の触り」といったときの「触り」とは最初の部分ではなく、話の聞きどころを指す。

「いう」にも大きく三つある。

「言う」は、考えや行為を言葉にして表現すること、自分の言葉で表現すること(sayあるいはtell)、「云う」は既存の論旨や他人の言葉を引用すること(state)、「謂う」は、特定の課題について自分で考え意見を述べることと説明されるが、これに関しては残念ながらいまひとつクリアーな説明ができない。

「おもう」では、一般的には「思う」が使われる。

「思」は、「田」と「心」から成り、「田」は幼児の脳を表し、「心」は心臓を表す。つまり「思う」は頭と心で感じるという意味である。

「想う」は、「相」と「心」から成り、「相」は木を対象として見ることを表し、これと「心」とで、「ある対象のことを心で考える」という意味になる。「思う」と比較し、より対象がはっきりとした、あるいは強い感情が込められていると考えられる。「念う」には、心を一つのことに集中させる意味があり、「念じる」と使われるように、一心に思い入れるといった意味がある。

「憶う」は、「記憶」といった使い方からわかるように、かつての事物を忘れないでいたり思い出すといった意味で用いる。英語のsouvenirがニュアンスとして近いかもしれない。

「惟う」は、「隹」が鳥を表す通り、思い巡らすといったニュアンスがある。

最後に、あまり使われないが「慮う」は、「おもんばかる」と読むように、深く思考する意味で使われることがある。

「かける」にも、「掛ける」と「架ける」、そして「懸ける」と「賭ける」がある。

「掛ける」は「ひっかける、上から物を置く」という最も広義で用いるのに対し、「架ける」は物と物の間を渡す場合(歯科のブリッジは架橋義歯と和訳される)、「賭ける」は金銭等賭け事に関する場合、「懸ける」は捧げる、託すといった意味合いで用いる。

「しずめる」は比較的違いが明確で、「静める」は音や声を静かにさせること、「沈める」は水中に没すること、「鎮める」は「鎮圧」という熟語にもある通り、(なんらかの力により)騒動や混乱をおさめることをいう。

逆に何が共通しているかだが、三者とも動きのあるものの勢いを抑える、落ち着かせるといったニュアンスが感じ取れる。

「あう」では、「合う」は二つ以上のものが一つになる、一致するの意(fitあるいはsuit)、「会う」は、人、または何かとあるところで一緒になるの意(meetあるいはsee)、「逢う」は「会う」と類義だが特に親しい関係にある場合に使われる。「遭う」も「会う」と類義だが、嫌な人、あるいは欲しない事柄と偶然あう、つまり「出くわす」(encounter)といった意味で使われる。

「こす」にも「越す」と「超す」がある。

前者が、場所や点、時間を過ぎて向こうへ行くことを表し、後者がある一定の数量や基準、限界を上回ることを表す。換言すれば、前者が水平的な位置の移動であるのに対し、後者は上下的な位置の移動とも表現できる。

ちなみに「漉す」「濾す」は、液体等に混じった不要物、不純物を紙、布、フィルター等で取り除くことを指すので、濾されたものはそこを通過するという意味では、「越す」と同源ではないかとも考えられる。

次に、形容詞の例として「かたい」を取り上げてみる。

「かたい」にも「固い」「硬い」「堅い」があるが、これらは反対語で比較するとわかりやすい。

「固い」は「ゆるい」の(例:固い絆)、「硬い」は「やわらかい」の(例:硬いパン)、そして「堅い」は「もろい」の反対語である(例:堅強)。

ついでに「やわらかい」では、「柔らかい」は曲げても折れない、ふわっとした、あるいはしなやかであること、「軟らかい」はぐにゃりとした、手ごたえがないといったニュアンスがある。したがって、柔道は決して「軟道」ではないのである。

次に、名詞の同訓異義語について。

「あし」にも、「足」と「脚」がある。

一般的には「足」を使う場合が多いが、両者を分ける場合は、くるぶしから先の部分には「足」(foot)を、膝から下の部分、あるいは足全体を指す場合には「脚」(leg)を使う。「馬脚を現す」はこちらである。上肢でいえば、それぞれ「手」と「腕」がこれに相当する。

「町」と「街」の違いは、前者が主に家々が密集している場所、地域(town)を指すのに対し、後者は商店やビルが立ち並んでいる道筋(通り)を指す(street)。別の言い方をすれば、前者が面を表すのに対し、後者は「街道」というように線を表すといってもいいかもしれない。

「木」と「樹」の違い。

「木」は自然の状態で生えている樹木もさすが、同時に材木になったもの、材木として使われたものも指す。

一方の「樹」は、生きている樹木にしか使われない。

「なか」も、「中」はある範囲の内側でinsideの意、「仲」は人間関係について使われるのでrelationshipの、「央」は真ん中(あたり)でcenterの意味に近い。このあたりは、音の異なる英語による説明のなんと明快なことか。

「かげ」にも、「影」と「陰」「蔭」「翳」等がある。

最初の「影」は、光が物体に遮られ、その光源と反対側にできる黒い部分を指す。一方「陰」は物体に遮られ、光や風雨が当たらないところを表し、「陽」の対意語である。

英語では、前者がshadow、後者がbehind、あるいはshadeが相当する。

「蔭」は草冠がつくように、草木のかげを指し、そこから派生し人からの恩恵をも表す。

「翳」は「羽」の字があるように、鳥の羽などで扇型にし柄をつけたものを指す。これで貴族が顔などを隠し、視線を遮るのに用いた。

差と叉について。

「交差」と書く場合と「交叉」と書く場合がある。

2本以上の線状のものが、1点で重なることを指す。

本来は「叉」で英語ではcrossが相当するが、この字が当用漢字にないため、「差」を当てている。

ただ、「差」は英語ではdifferenceで、違いやズレをあらわす漢字なので、「交差」という言葉は本来の意味とはかなり違い、私見ではあみだくじの図形を連想させる。画数の簡単な「叉」くらい、当用漢字にしても良さそうなものである。

最後に「のり」という音は実に奥が深い。

論語の中では、年齢を表す言葉として「不惑」というのが有名である。40歳を指す言葉だが、「四十にして惑わず」からきている。ちなみに、70歳という年齢の表現として、「七十にして心の欲する所に従いて矩を踰えず」というものがある。

この「矩」は「のり」と読むが、同音には「則」「法」「憲」「規」「紀」「倫」「典」等、たくさんある。この言葉の深遠さは、人の名前に多く使われていることからも想像に難くない。

まず、「矩」は矩尺(かねじゃく)のことで、かぎ型(直角)の定規を指す。

「法」は、解字からみると「水+鹿と馬に似た獣の姿+去(引っ込める)」で、「池の中の島に珍獣を押し込めて、外に出られないようにしたさま」と解説されている。

「憲」は「かぶせる物+目」から成り、目の上にかぶせて、勝手な言動を抑える「わく」を示している。ちなみに。憲法は権力者の権力の逸脱を許さないための法律である。最近、拡大解釈されていることが気がかりである。

さて、「規」は「矢+見」で、直線の棒を松葉型にくみ、その幅を半径として円を描いて見るという作業を指す。コンパスを連想すればよさそうである。

「則」は「刀+鼎(かなえ)の略形」で、鼎(金属の器)にスープや肉を入れ、すぐそばにナイフを添えたさまを指すようである。

「紀」は、「糸+(音符)己」で、糸のはじめを求め、目印をつけ、そこから巻く、織るといった動作を指す。「風紀」などに使われている。

「倫」は、「集める印+冊」の会意文字で、短冊状の竹札を集めてきちんと整理するさまを指す。

「典」は、「倫」と似ており冊の原形とされている。ずっしりとした書物を平らに陳列するさまを意味している。

これら多くの「のり」に共通しているのは、要するに「きちんとする」というニュアンスではないだろうか。そして「規則」「法則」「法規」「憲法」等、これら同士の熟語もよく使われるが、これも相応に意味あることだと思う。

決められたこと、守らなければならないこと、けじめをきっちりすること、そういった意味合いが込められているように思えてならない。

ちなみに先に述べた論語の70歳を表す言葉は、「70歳になると、自分の好き勝手に生きても、人の道から外れることはない」という意味で、私もこの先そう生きていきたいものだと我が不徳を認めながらも、半分ため息交じりで納得する次第である。

その他、「波」と「浪」、「海」と「洋」、「岡」と「丘」、「磨く」と「研く」、「森」と「杜」、「里」と「郷」等、まだまだ枚挙にいとまがないが、それぞれ微妙な意味の違いを調べてみるにつけ、同訓異義語は実に興味深い。

そうだったのか語源⑳  −人名−

人の名前は、親の思いや希望が込められていて興味深い。

健やかに育って欲しいという思いは、男子であれば健や健志、健司、健一といった名前に込められている。

美しい女性になって欲しいと願う親は、好子、美子、佳子、妙子、麗子といった名前をつけた。

一方で、「あぐり」という名前には意外な意味が込められていた。

「もうこれ以上要りません」という意味である。

もともとは、1800年代、東北地方の青森秋田の辺りで、「ものが充満した状態」を指す意味で使われていた言葉だとか。

「もうこれ以上子どもは要らない」という意味で、女子につけることが多かったようである。

「すえ」や「とめ」、「すて」といった音(おん)のつく名前には、同様の意味が込められていることが多い。

さて、欧米圏の人名も、意味にはこだわらず単に名前として受け入れてしまえばそれまでだが、意味を追求していくと、名前のつけ方が日本語にも通じる場合がある。

例として、ソフィアという女性の名前。

ソフィア=Sophiaはブルガリアの首都名にも使われている。

ラテン語、イタリア語ではそのまま「ソフィア」、フランス語ではSophieのスペルで「ソフィー」、ドイツ語で「ゾフィー」の音になる。

もともとギリシャ語で、知恵や叡智の意味があった。

ちなみに哲学を表すphilosophyは、phil-=愛する、好きと、sophy=知恵から作られた「知恵を愛する」という意味の言葉である。蛇足ながら、phil-は白血球のneutrophil=好中球の使われ方と同じで、philharmonyも同様でハーモニーを好むといった意味である。

閑話休題。

つまり、ソフィアという名は日本名では知恵子に相当する。

ついでに、上智大学はSophia Universityの日本語名で、「智」の字が当てられている。

次に、音楽好きな方はご存知かと思うが、W.A.モーツァルトの奥さんの名はConstanze=コンスタンツェである。

一方で、Constantinus=コンスタンティヌスはローマ皇帝として有名である。

トルコのイスタンブールの前身であるコンスタンティノープルの名も、この皇帝の名に由来している。

さて、この双方の名前は、constant=一定、不変と関連がある。

特にローマ皇帝の名はconstant=不変等の意味で、皇帝の世が不変であるようにという意味が込められているのであろう。いわば日本の「君が代」の歌詞と概ね同義と考えてよかろう。

コンスタンツェの名も同様の由来からすると、日本語名では定子、常子といったところか。

ついでに、有名なビートルズの「ヘイ ジュード」だが、Jude=ジュードは、ヘブライ語のユダから派生しており、キリスト教やユダヤ教では伝統的な名前である。ちなみに愛称はJudy=ジュディとなる。

さて、欧米圏では語圏により多少音が変化するも、同じ起源だと推測できる名前が少なくない。

例えば英語のFrederick「フレデリック」は、イタリア語ではFederico「フェデリコ」、ラテン語化する場合はFridericus「フリデリクス」、一方ドイツ語ではFriedrich「フリードリヒ」となる。ちなみにその意味は「平和と支配」だそうだ。

以下に、代表的な人名の、国によるスペルと音の変化を表にしてみよう。

英語 イタリア語 スペイン語 フランス語 ドイツ語
Michael

マイケル

Michele

ミケーレ

Miguel

ミゲル

Michael

ミシェル

Michael

ミヒャエル

George

ジョージ

Giorgio

ジョルジョ

Jorge

ホルヘ

Georges

ジョルジュ

Georg

ゲオルク

Peter

ピーター

Pietro

ピエトロ

Pedro

ペドロ

Pierre

ピエール

Peter

ペーター

William

ウィリアム

Guglielmo

グリエルモ

Guillermo

ギリュルモ

Guillaume

ギヨーム

Wilhelm

ヴィルヘルム

Robert

ロバート

Roberto

ロベルト

Roberto

ロベルト

Robert

ロベール

Ruprecht

ルプレヒト

Steven

スティーヴン

Stefano

ステファノ

Sebastián

セバスチャン

Étienne

エティエンヌ

Stefan

シュテファン

Henry

ヘンリー

Enrico

エンリコ

Enrique

エンリケ

Henri

アンリ

Heinrich

ハインリヒ

David

ディヴィッド

Davide

ダヴィデ

David

ダビド

David

ダヴィド

David

ダーヴィト

Catherine

キャサリン

Caterina

カテリーナ

Caterina

カテリナ

Catherine

カトリーヌ

Katharina

カタリーナ

Margaret

マーガレット

Margherita

マルゲリータ

Margarita

マルガリータ

Marguerite

マルグリット

Margarethe

マルガレーテ

Caesar

シーザー

Cesare

チェーザレ

César

セサル

César

セザール

Cäsar

ツェーザル

Elizabeth

エリザベス

Elisabetta

エリザベッタ

Isabel

イサベル

Isabelle

イザベル

Elisabeth

エリザベート

Julia

ジュリア

Giulia

ジュリア

Julia

フリア

Julie

ジュリー

Julia

ユリア

Richard

リチャード

Riccardo

リッカルド

Ricardo

リカルド

Richard

リシャール

Richard

リヒャルト

Leonard

レナード

Leonardo

レオナルド

Leonardo

レオナルド

Leonard

レオナール

Leonhardt

レオンハルト

 

これらの名前は、ギリシャ神話やローマ皇帝、キリスト教の聖者に由来するものが多い。

その他わかる範囲では、ウィリアムは「強い守護者」、ロバートは「輝かしい名声」、ヘンリーは「支配者の家」、レナードは「強い獅子」、マーガレットは「真珠」、リチャードは「力強い支配者」、ジョージは「農夫」といった意味がある。

 

最近は日本でも、○○ネームとか言って、音や響きを重視する命名が流行っているが、本人が大きくなってから名前の由来を物語れるよう、意味のある命名も悪くはないように思う。

そうだったのか語源⑲ −スポーツに関わるトリビア−

今回は、スポーツにまつわる言葉の由来を幾つか取り上げてみたい。

 

*サッカー

サッカーという呼び名は米国で使われ、英国ではフットボールという。

足を使うスポーツだからfootballという名称は合点がいく。世界的には、フットボールの名称のほうが圧倒的に多く使われている。

ではsoccerとはいかに?

実は、正式名称はassociation footballというのだそうだ。このassociationの「soc(仲間の意)」に発音しやすいように「c」を付け、人を意味する-erをつけたものがsoccerである。語尾に-erをつけて通称とする呼び方では、rugby=ラグビーの通称がrugger=ラガーであるのと同様である。

さて、サッカーのルールにoff side=オフサイドというのがある。

「反則の位置」と訳されているのだが、これはもともと軍事用語で、「味方の戦力から外され、敵陣の陰に捕えられた兵士」を指したらしい。そこから、

「敵陣の中の、いてはいけない場所にいること」となったらしい。つまり自分や味方の側がon sideで、相手や敵側がoff sideと考えると理解しやすい。

敵陣、つまりゴール側に一人待っていて、そこへボールをパスすれば簡単に得点できて、ゲームとしては面白みに欠けるのであろう。

ちなみに英国では道路上でもこの用語は使われ、中央寄り、つまり対向車線に近いほうをoff side(相手側)、路肩側をon side(自分側)と呼ぶ。

 

*ラグビー

「ノーサイド」は、ラグビーでは試合終了のことを指す(英語圏でもかつては「No side」が使われていたが、現在では「Full time」が使われている)。

戦いが終わったら、両軍のサイドが無くなって同じ仲間だという精神に由来する。なんと崇高なスポーツマンシップか。

knock on=「ノックオン」は、ボールを前方に落とす反則を指す。knockには「叩く」という意味の他に「落とす」という意味もある。

 

*テニス

テニスのカウントの仕方は変わっている。

まず、0のことをlove=ラブと言う。

テニスは11世紀にフランスで始まった。フランスでは、卵を意味する

「l ’oeuf(ロェフ)」という言葉があり、0が卵に似ていることから、0を卵と呼び、それが後に発音の似ている英語のloveに転じたらしい(諸説あるが、本説が有力)。日本語でも0を「まる」というのと似ていまいか。

0の次が15で、30、40とカウントしていく。これにも諸説ある。

「時計の文字盤を4つに分けた」「14世紀頃、プレーヤー同士の賭けの際に使われていた1ドゥニエ銅貨が4枚で60スウという金額になるため、60スウの4分の1である15スウを1つの単位とした」「(テニスの前身であるジュドポームを行っていた)修道院の生活時間が15分単位であった」というものがある。いずれにしても、3ポイント目は40ではなく、45になるはずだが、forty fiveと発音するのが面倒なので簡略化して40としたとの説もある。

 

*野球

bullpen=ブルペンとは、野球場の投球練習場を指すが、もともとはbull=牛の囲い場のことである。諸説あるが、投手を、闘牛場や屠殺場に送られるのを囲いの中で待っている牛に見立てたという説が尤もらしい。

次に、左利き投手のことをsouthpaw=サウスポーと呼ぶ。

pawとは爪のある動物の足を指すが、口語で人の手の意味もある。つまり、「南の手」である。

かつて米国の野球場は原則的にホームベースが北西になるように作られていた。そのため、左腕の投手の手は南側から繰り出されたためにこの名前がつけられたという説が有力である。その他、米国南部出身の投手に左腕が多かったからという説もある。

投手と捕手を、蓄電池を意味するバッテリー=batteryというが、これはかつての蓄電池は2個一組だったそうで、その関係に似ているからという説、あるいは軍隊で大砲の発射を意味するラテン語のbattuere に由来するという説がある。後者では、チームを軍隊、ボールを大砲、投手から捕手ヘの投球を発射に例えているという。

野球チーム名でちょっと面白いのがロサンジェルス・ドジャーズ。

ドジャースの「dodger」とは、「ひらりと身をかわす人」という意味。

ドッジボールのdodgeもまさにその意味。

もともとドジャーズは、ニューヨークのブルックリンを本拠地とするチームだった。

当時、ブルックリン市民の足はトロリーと呼ばれる路面電車だった。

かつて日本でも、路面電車をトロリーバスと呼んでいた。

そのトロリーが来る度に、ひらりと体をかわしながら往来するブルックリン市民のことを、親しみを込めてtrolly dodgersと呼んだそうだが、これがチーム名の由来だとか。

 

*ゴルフ

一般的にOBといえばold boyで、学校の男子卒業生を指すが、ゴルフでは out of boundsの略で、「プレーできるエリア外」を意味する。boundにはボールが弾む「バウンド」という意味もあるが、その他「限界」「境界」という意味もある。

さて、ゴルフのスコア用語には鳥に関係するものが多い。

1903年、それまで誰もなし得なかったロングホールでのパー(標準打数)が破られた。その時のボールはまるで小鳥が飛んでいくように見えたとか。

そのため、パーより1打少ないスコアを鳥の幼児語でbirdy=バーディと呼ぶようになったそうである(英語ではTommy、Jimmy等、語尾に-yをつけて愛称とすることが多い)。さしずめ「小鳥ちゃん」といったところか。

そして、2打少ないスコアをさらに強いeagle=「ワシ」、3打少ないとずば抜けた飛行力を持つalbatross=「アホウドリ」と呼ぶようになったそうである。ちなみに滅多にないが、パー5のコースで4打少ないスコア、つまりホールインワンをcondor=「コンドル」というらしい。コンドルは、インカ帝国では天の神として崇められていたそうで、まさに神業なのであろう。

ちなみにパー(Par)は、もともとイギリスの株取引の用語で、金額が上下する株価の中で、一番基準となる数値のことをパーと呼んでいたそうである。

 

さて、ゴルフには、「ハンディキャップ」というルールがある。

「ハンディキャップ(handicap)」とは、英語の“hand in cap”が訛ったものだとか。

これはかつて、賭博やくじのような遊びで、大当たりで勝った人が、周囲の人が見ている中で、いくら入れたかわからないように取りすぎたお金を帽子の中に入れたことに由来するとされている。

あくまで遊びの中でのことなので、大勝ちした人は取りすぎた分を戻して一人勝ちを防ぎ、ゲームを長く楽しめるようにしたという。ある意味、人間らしい知恵といえよう。

ここから、「強い者と弱い者との差を事前になくしておく」ことを呼ぶようになったとか。

 

*ボクシング

リングが四角いからboxingではない。

boxには、動詞で「(平手や拳で)殴打する、殴り合う」という意味がある。

ちなみに、リング=ringとはもともと輪のように人々が手をつないで、その中で格闘したからというのが定説である。レスリングのリングはその名残とされている。やがて観客が見やすいように、高いところに上がって戦うようになり、選手が落ちないようにロープを張る際、ロープを張りやすいように四角になったそうである。だからring(輪)にcorner(角)があっても合点がいくのである。

さて、ボクシングの階級には面白い名前が付いている。

フライ級のfly=フライとは「ハエ」のこと、ウェルター級のwelter=ウェルターは「波のうねり」、bantam=バンタムは鶏の「チャボ」、feather=フェザーは「羽根」、cruiser=クルーザーは「巡洋艦」、そして以前あったmosquito=モスキートは「蚊」の意味である。脈絡のない命名であり、またチャボが羽根より軽いのは解せない。

 

*コーチ(番外編)

最近、いろんなスポーツでコーチが注目されている。コーチが物議を醸したスポーツ界もある。

訓練する人や指導者を指しているが、もともとcoach=コーチとはハンガリーのコチ(Kocs)という町で作られた四輪馬車のコチ(kocsi)に由来する。

それゆえ、バッグのブランドで有名なコーチには馬車のマークが付いている。

馬車が人や物を目的地へ運ぶことから、次第に「コーチ」という言葉自体が、「大事な人や物を運ぶ」「目的地に運ぶ」といった意味をもつようになったとされている。

つまり、「人を目的地まで運ぶ」→「目標達成をするためのお手伝いをする」のがコーチの職業、あるいは役割になったそうである。

(群馬県保険医新聞歯科版掲載のための原稿)

そうだったのか語源⑱ −略語について その3−

今回は、3文字のアルファベットの略語を中心に見てみよう。

まず、銀行の前にあるATMはautomatic [automated] teller machine の略で、「現金自動預け払い機」と和訳されている。ちなみにtellerとは、銀行の窓口係のことを指す。

最近よく耳にするIoTはinternet of thingsの略で、「モノのインターネット」と和訳(正確には完全な和訳ではない)されており、家電製品での普及が進められている。

続けてIT関係でいくつか。

家庭や職場内で、パソコンとプリンターなどを繋ぐ(無線)LANとは、local area networkの略で、限局されたエリアでの情報通信ネットワークを指す。

CD-ROMのROMはread only memory=「読み出し専用(書き込み不可)メモリ」の略、一方似ているRAMは、random access memory=「任意に書き込みできるメモリ」のことで、パソコンのメインメモリは後者である。

では、最近話題に上るシムロックのSIMとはいかに。

subscriber identity moduleの略で、きちんと和訳されたものはないが、「加入者個人特定機能」あたりがイメージしやすいのではないだろうか。

医療に関するところでは、ICUは「集中治療室」と訳されているが、intensive care unitの略である。「治療」と訳されてはいるものの、cure(治療)ではなく実質的にはcare(管理)である。ちなみに、国際基督教大学=International Christian UniversityもICUと表記される。

画像診断に使うMRIは、 磁気共鳴画像=magnetic resonance imagingの略である。 ちなみにX線を使うCTはcomputed(computerized)tomographyの略で、「コンピューター断層撮影装置」と和訳されている。

医療用のX線装置ではデジタル化が進み、そこにはCCDが使われている。

CCDは、ビデオカメラやデジタルカメラに使われている半導体素子のことで、charge-coupled device=「電荷結合素子」の略語である。

また、最近歯科ではやりのCAD/CAMだが、computer aided design/computer aided manufacturingの頭文字を繋げたもので、CADは「コンピューター援用設計」、CAMは「コンピューター援用製造」と和訳されている。

さらに、CAP:computer aided preparation(歯科関係者にしかわからない)が実現すると、歯を削る歯科医はいなくなってしまうが、これはあくまでジョーク。

さて、社名で3文字の代表格を二つだけ挙げてみよう。

パソコンのIBMは、International Business Machines Corporationの略称だが、和訳は見つからない。勝手な和訳をご容赦いただけるなら「国際事務機器(株)」といったところか。

自動車のBMWは、 Bayerische Motoren Werkeの頭文字をとった社名で、発音としては「バイエリッシェ モトーレン ヴェルケ」で、和訳すればさしずめ「バイエルン自動車工業(株)」であろうか、何だか少し庶民的な響きに変わる。

大学名では、科学技術で有名なマサチューセッツ工科大学はMassachusetts Institute of TechnologyでMITと略される。instituteは一般的に機関や研究所と和訳されるが、(工科)大学や専門学校にも使われる。

さて話は変わり、太平洋戦争時のGHQはGeneral Headquartersの略で、正式には「連合国軍最高司令官総司令部」と和訳されているが、generalなので、単に「総司令部」のほうが英語に忠実な訳と思われる。

次に、何やら怖いイメージのあるCIAとFBIだが、前者はCentral Intelligence Agency=「中央情報局」の、後者はFederal Bureau of Investigation=「連邦捜査局」のそれぞれ略である。

米国の中央銀行に当たるFRBは、The Federal Reserve Boardの略で「連邦準備制度理事会」と訳されているが、正式にはBoard of Governors of the Federal Reserve Systemと表記され、先の和訳はこちらを直訳したものと思われる。

貿易関係では、TPPはTrans- Pacific Partnership Agreementの略で、「環太平洋パートナーシップ協定」と訳されている。trans-には「横切って、貫いて」といった例えばシルクロードのようなイメージがあるので、個人的には「環」より「汎」のほうが本来の意味に近い気がする。

一方のFTAは、free trade agreement=「自由貿易協定」の、さらにEPAはeconomic partnership agreement=「経済連携協定」の略語である。

これらはややわかりにくいが、国と国(または地域)のあいだで関税をなくして、モノやサービスの自由な貿易を進めることを目的とした協定がFTA、関税の撤廃だけではなく、知的財産の保護や投資ルールの整備なども含め、さまざまな分野で経済上の連携を強化することを目的とした協定がEPA、それを環太平洋という広い地域で行おうというのがTPPということになる。

これら、自由貿易促進を主たる目的として創設された国際機関がWTOで、World Trade Organization=「世界貿易機関」と和訳されている。

次に交通に関係するもので、鉄道の安全な運行に欠かせないのがATS(automatic train stop device:自動列車停止装置)やATC(automatic train control device:自動列車制御装置)と呼ばれる運転保安装置である。

カーナビで利用されるGPSは、global positioning systemあるいはglobal positioning satelliteの略で、前者は「全地球測位システム」と和訳されている。

有料道路のゲートをノンストップで通過できるシステムは、ETC: electronic toll collection system=「電子料金収受システム」である。

ちなみに高速道路でのトラブルでお世話になるJAFは、 Japan Automobile Federation=「日本自動車連盟」の略称で、実態に近い「緊急」といった意味は全く込められていない。

さらに歴史のあるものでは、JISはJapanese Industrial Standard=「日本工業規格」、JASはJapanese Agricultural Standard=「日本農林規格」の略称である。

JAXAは、Japan Aerospace eXploration Agency=「国立研究開発法人宇宙航空研究開発機構」の略だが、直訳なら「日本航空宇宙研究開発機構」となろう。

NGOはnon-governmental organization=「非政府組織(民間公益団体とも約される)」、NPOはnonprofit organization=「非営利組織(団体)」、PKOはpeacekeeping operation=「(国連)平和維持活動」の略称である。

その他放送局関連では、米国の3大テレビネットワークはABC、NBC、CBSで、それぞれAmerican Broadcasting Company=「アメリカ放送会社」、National Broadcasting Company=「全国放送会社」、Columbia Broadcasting System=「コロムビア放送(現在はCBS Broadcasting, Inc.)」の略称である。

英国のBBCのBはもちろんブリティッシュである。

日本のNHKは「日本放送協会」という日本語の名前の頭文字をそのまま使ったもの、TBSはTokyo Broadcasting System=「東京放送(旧社名)」から命名された。

本題から逸れるが、TV局といえば「スタジオ(studio)」がつきものである。

この「studio」の語源は、「努力する場所」という意味をもつラテン語studium=「スタジアム」だそうで、本来は芸術家や写真家などの「仕事場、工房、アトリエ」を意味する名詞だとか。ちなみにスタジオとスタジアムは同じ語源から派生している。推測に難くないが、「努力して励む」が原義であるstudyももちろん同源である。

さて樹脂素材でいうと、ペットボトルは日常生活に不可欠なものとなっているが、このペットとは犬などのペットではなく、PETつまりpolyethylene terephthalate=「ポリエチレンテレフタレート」の略である。同様に、PPは「ポリプロピレン」、PVCはpolyvinyl chloride=「ポリ塩化ビニール」の略である。

ちなみに、医療で使われる「PET検査」とは「陽電子放射断層撮影」という意味で、positron emission tomography=ポジトロン・エミッション・トモグラフィーの略である。

米国では企業のトップをCEOというが、これはchief executive officer=「最高経営責任者」の略である。

最後に、現在私が会長を務める群馬県保険医協会にも関係のある、やや長いIPPNWという国際組織があるが、これはinternational physicians for the prevention of nuclear war=「核戦争防止国際医師会議」の略である。

原文の中に「会議」という言葉はない。「医師の集団」で終わってしまうと組織の意味合いが弱まるので、原文も「the Congress of」で始まっても良さそうな気もするが、これはあくまで私見である。

(群馬県保険医協会歯科版掲載のための原稿)

 

 

そうだったのか語源⑰ −略語について その2−

前回に引き続き、2文字のアルファベットの略語について触れてみたい。

ごく日常的に耳にするPRは、宣伝や布教活動を意味するpropagandaの略かと思いきや、実はpublic relations=宣伝の略だそう。ま、あまり大きな問題ではない。

proportional representationもPRだが、こちらは比例代表制を意味する。

さて、午前と午後をそれぞれAM, PMというが、これはラテン語のante meridiem (英語ではbefore noon) でPMはpost meridiem(英語ではafter noon)の略である。

このanteは、イタリアンのantipasto=前菜のanteで「前」の意、postはもちろん「後」の意である。meridiemは英語ではmeridianで、空に太陽(星などでも)が最も高く上がる時=南中、つまりは正午を意味する。ちなみに、日本語の正午の「午」は、十二時辰の午の刻(うまのこく)のうちで午の正刻である。十二時辰で「午の刻」は24時間制の11時から13時までの2時間を指す。

次に、ラジオにはAMとFMがあるが、前者がamplitude modulation の、後者がfrequency modulation の略で、それぞれ振幅変調方式、周波数変調方式と和訳されている。要するに、AMは電波の強弱で音を伝え、FMは電波の強さは一定で、電波の密度で音を伝える方式ということらしい(私は理系ながらこの辺は全く不案内である)。

2文字の略語が出たついでに、紀元前をBC、紀元後をADと表記するが、前者はBefore Christ、後者はAnno Dominiの略である。後者はラテン語だが、英語では(in the Year of the Load)で、「主(しゅ)の年において」といった意味になる。

ちなみに19世紀以降から、非キリスト教徒との関係からADをCommon Era(略:CE、「共通紀元」の意)、そして紀元前(BC)をBefore Common Era(略:BCE)に切り替える動きが広まっているそうである。

キリストに関係する略語で、クリスマスをXmasと表記することがある。

これにはギリシア語が関わっている。

ギリシア語には英語の “X” に似たような形の “chi” という文字がある。その “X” に似た文字が「キリスト」を表すギリシア語 “Χριστός(Christos)” の先頭の文字である。

“christmas” のことを “Xmas” と表記する習慣は数百年も前からあったそうで、当時は “X” という文字自体がキリストを表す略語として使われていたそうである。

さて、これまでの流れとはやや関連が希薄になるが、番号を表す文字にNo.がある。

「数」を表す英語はnumberだが、ラテン語ではnumero となる。numeroは正確にはin numberの意、「数でいうと」といったところか。

このnumeroの省略形がNo.である。ラテン語では語尾変化が多いので、最初の文字と最後の文字をとって省略形とすることがよくある。例として、医療用のカルテで「同じ、同上」の意味でdoと表記することがあるが、これはdittoの省略形である。

IQは知能指数と和訳されるが、intelligence quotientの略語である。最近ではさらにEQというものが注目されているが、これは emotional intelligence quotient=情動の知能指数の略語である。

IQが「知能」の発達速度を表すのに対し、EQは仕事への取り組み姿勢や人間関係への関心の度合いなどを感情という視点から表すとされている。ちなみにeducational quotient=教育指数もEQだが、こちらは内容が全く異なる。

2文字の略語はさらに続く。

EUはEuropean Union=欧州連合の略であるが、これはかつてのEC(European Community=欧州共同体)から発展し、外交や安全保障政策の共通化や、ユーロによる通貨統合の実現をめざす統合体を指す。

UNはUnited Nations=国際連合の略語である。ちなみにその全身である国際連盟はLN(League of Nations)である。

米国の首都、ワシントンD.C.のD.C.はDistrict of Columbia=「コロンビア特別区」の略である。米国には50の州があり、州立大学のように州ごとに法律や制度が異なることが多い。ワシントンD.C.には国の重要な機関が多くあり、「どの州にも属さない連邦政府の直轄地」という意味が込められている。コロンビアという名は、アメリカ大陸発見者コロンブスに由来している。ちなみにColumbus=コロンブスはラテン語で鳩という意味である。

プロ野球で使われるFAはfree agentの略で、どの球団とも選手契約できる権利を持つ選手を指す。ついでにDHはdesignated hitterの略で「指名打者」と和訳されている。我々が関係する医療分野では、dental hygienist=歯科衛生士もDHと略される。

OAはoffice automationの略で、事務作業の自動化のことをいう。それを逆にしたAO入試のAOとはadmissions office=「入学管理局」の略で、学力試験を課さず、入学管理局の選考基準に基づいて入学の可否を判断する選抜制度のことをいう。

OPと略される言葉は多い。以下に代表的なものを挙げてみる。

option=オプション、選択肢、選択権

opening=オープニング、番組やコンテンツの冒頭に使われる音楽や映像

operation=オペレーション、手術、処理、操作

opus(Op.)=オーパス、音楽などの作品番号

他にも枚挙にいとまないが、まずは今回このくらいにしておこう。

(群馬県保険医協会歯科版掲載のための原稿)