そうだったのか語源㊲   —日本の地名 その2 東北地方-1—

 まず東北地方の「東北」とは、当然本州の東北部に位置することによる。

 ちなみに、中国の東北部も同国の東北部に位置しているため。

 まずは青森から。

 かつての陸奥国(むつのくに、りくおうのくに)の北部にあたり、この旧地名はその名の通り本州の最北端にある。

 県名は、県木であるヒバ(別名あすなろ)が青く見えたから、と勝手に思っていたら、実は、「青い森」と呼ばれかつて海上からの目印になった、現在の青森市本町にあった森から名付けられたそうである。ちなみに、それがヒバの森だったかどうかは不明。

 青森県は、下北半島と津軽半島が北に張り出し、両者に囲まれるようにして陸奥湾がある特徴的な形で、そのまま図案化され県章となっている。

 まずは津軽から。

 津軽とは、かつては「津借」と書き,蝦夷が松前から渡って津(港)を借りて住んだとの説が有力。

 弘前は、以前は高岡(あるいは鷹岡=タカが営巣していたことから)と呼ばれていた。改称の理由は定かではないが、北海道への海上交通の要所で土地が広大だったことから「広崎」、それが弘前となったという説や、アイヌ語由来という説もある。  

 さて、地名ではないが、七夕祭りで有名なねぶた(青森では「ねぶた」、弘前では「ねぷた」)祭り。

 名前の由来は諸説あるが、最も有力なものとしては、忙しい夏の農作業の妨げとなる眠気や怠け心を払い除ける「眠り流し」という行事から「ねむた流し」、そして「ねぶた」と転訛したのではないかと言われている。

 次に、八戸について。「戸」のつく地名は一戸から九戸まである。これにも諸説あるが有力なものを(ちなみに二戸は岩手県)。

 平安時代後期に糠部(ぬかのぶ)と呼ばれた北奥羽地方(青森県東部から岩手県北部)は軍馬の生産地で、糠部の馬は上級馬で,年貢として納められていた。牧場の木戸のあった場所を「戸(へ)」と呼び、それに番号をつけたものが地名として残ったという説。その他、糠部を九つの地区に分け、「戸」は単に「〜地区」の意味という説や,蝦夷(えみし)平定の際に、北上する朝廷側の前進基地(柵戸)があったためという説も。

 話は変わり、青森県西部に十二湖と十三湖がある。

 十二湖の名は、湖沼の中心にある崩山山頂から見おろすと 12の湖が見えることに由来(実際には30湖以上ある)。

 一方の十三湖は、青森県で3番目に大きな湖で、13の河川が流れ込むことからこう名付けられた。12と13で隣り合った数でありながら、名称の根拠が全く異なるところが興味深い。

 さて1993年、日本で初めてユネスコ世界遺産に登録された白神山地について。

 白神山地が初めて記述として現れるのは、1783年から1829年にかけて書かれた菅江真澄遊覧記にある「白上」「白髪が岳」との表記による。

 しかし、白神山地ビジターセンターによると、1980年代の林道建設への反対運動により、白神山地の名が世に広まったといわれている。

 さて、その近くの十和田は実はアイヌ語で、「トー・ワタラ=岩の多い湖」が「とわだ」に転訛したと言われている。

 次に岩手県。

 岩手の名の由来には諸説ある。

 まず、「いわて」の「て」は場所を意味する「と」が変化したもので、「岩が多い所」という意味からという説。

 次に、「て」はもともと「で=出」で、「岩出で」、つまり「山から出てきた岩によってできた場所」という意味だという説。

 また、岩手の地名は名峰岩手山に由来するもので、山の東側に「焼走(やけはし)り溶岩流」と呼ばれるものが残っており、つまり溶岩が流れ出たところから「岩出」となり、その後「岩手」に転化したという説もある。

 さらに面白いところでは、昔、村人に悪さをして捕まった「羅刹」(らせつ)という鬼が、もう二度と悪さをしないと誓って岩に手形を残したという言い伝えからというもの。そういえば、岩手県には民話や言い伝えが多く、ことに鬼に関するものが多い。

 次に県庁所在地盛岡について。

 一説には、1691年に、当時の藩主南部重信と、盛岡城鬼門鎮護の寺院として置かれた真言宗豊山派永福寺第42世、清珊法印との間で交わされた連歌、

「幾春も華の恵みの露やこれ 宝の珠の盛る岡山」

に由来するとされている。

 一方、盛岡市を指し示す雅称(風雅な呼び名)に不来方(こずかた)がある。

 アイヌ語で、「小谷の上にあるところ」の意「コッ・カ・タ」から転訛したとの説も。一方、先の岩手の語源に出た当地方を荒らしていた鬼「羅刹」が三ツ石の神に捕らえられ、岩に手形を押し、二度と来ないことを誓約したことから「不来方」と命名されたという説もある。後者の説のほうが、「岩手」と「不来方」の語源の関連性が感じられ、興味深い。 

 さて、日本地名研究所の元所長谷川彰英氏は、この「鬼」は蝦夷(えぞ)を指すのではないかと指摘している。

 平安時代の征夷大将軍坂上田村麻呂に由来する、蝦夷討伐のための砦、南から多賀城(たがのき)、志波城(しわのき)、胆沢城(いざわのき)の築城の歴史と地政からみても、この説にはそれなりの説得力がある。 

 次に、「南部」の地名について。

 決して日本、あるいは本州の南部の意味ではない。

 南部地方は、青森県東部と岩手県北部から中部、そして秋田県の北部一部にまたがる広大な地域を指すが、この名は、江戸時代にこの土地を領有していた大名の南部氏に由来する。ただそれだけ。期待させてしまい申し訳ない。

 変わった地名として相去(あいさり)町がある。相去は北上市にある町名である。北上市は、1991年(平成3年)に和賀郡和賀町と江釣子村が町村合併してできた。ちなみにこの和賀町は、私が学生時代にフィールドワークでお世話になった、のどかで懐かしい町である。

 相去町の「相去」とは、寛永年間に、南部藩と伊達藩の領地の境界をはっきりさせようと両藩藩主が申し合わせるが、書状の解釈を巡り揉めて決着せず、結局両者が「相去(あいさ)って」、この地名が生まれたとされている。なかなか曰くのある名前ではないだろうか。

 次に吉里吉里(きりきり)は、井上ひさしの小説「吉里吉里人」の舞台とされた場所で、東北本線沿いの宮城県と岩手県との県境付近に設定されている。

 が、実はこれは架空の地名であり、岩手県上閉伊郡大槌町にある吉里吉里とは別の場所である。ちなみに、三陸鉄道リアス線には吉里吉里駅がある。

 この駅のある大槌町吉里吉里(きりきり)は、キリキリと軋む鳴き砂がその語源とされている。その一方で、アイヌ語で「白い砂浜」を意味するとの説もある。    

「大槌」という地名の由来も諸説あるが、最も有力なのが、アイヌ語で「川尻にいつも鮭止め掛ける川」を意味する「オオ・シツ・ウツ・ベツ」が訛って大槌になったという説。

 他にも、「遠野上郷大槌町物語」によると、「鬼打ち伝説」と呼ばれる民話があり、それによると、昔、この地に住んでいた鍛冶屋のもとに鬼が現れ、仕事を邪魔するようになった、怒った鍛冶屋は大きな槌と小さな槌で鬼を追い払った、とのこと。そのため、この地には大槌川と小槌川がある。ここでも鬼が出てくる。

 ちなみに、大槌町内にある蓬莱島は、NHKで放送された人形劇「ひょっこりひょうたん島」(井上ひさし原作)のモデルといわれている。

 岩手県の歌人である石川啄木の故郷「渋民村」。現在は盛岡市北西部に位置する一地区。

 この語源はなかなか難解で、解説している文献が見当たらない。

 ネットで、やっとそれらしい、説得力のある2説を見つけた。

 一つは、アイヌ語の「スプ・タ・アン・ムィ」の転訛で、意味は「渦流・そこに・ある・淵」。

 もう一つは、同じくアイヌ語の「スプン・タ・アン・ムィ」の転訛で、意味は「ウグイ・そこに・いる・淵」。 で、どちらもアイヌ語由来。しかも、自然豊かな環境であることも共通。

 最後に、謂れのありそうな美しい地名を二つ。

 まず「花巻」。

 最も美しいのが、このあたりの北上川の水深が深く、渦を巻き、春には水面に花びらが浮かんで美しい風景を見せたことからという説。その他「花の牧」と呼ばれた、名馬を産み出す牧場があったことによるという説、また、川下の開けた土地を意味するアイヌ語からというものや、端の牧場の意味で「端(ナハ)牧」が語源というものなどがある。

 次に、「永遠の慈しみ」を意味するような神々しい「久慈」。

 ところが、残念ながらこの意味を由来とする謂れは全くない。

 アイヌ語で、湾曲した砂丘を意味する「クシュ」あるいは「クジ」を語源とする説。

 また、海食でクズ(崩)れた地形が語源とする説も。

 その他、言語学者の日置孝次郎氏は、久慈の語源はクジラからと主張している。

 ちなみに、茨城県の久慈は古墳時代からの地名だそうである。