モーツァルト その9 -戯れと粋(1)-

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 正直に告白しますが、今回はほとほと取り上げるテーマに困りました。
 そこで、ちょっと風変わりなモーツァルトをご紹介して、賢明な読者の皆さんの驚いたお顔を想像して楽しんでみようと思います。
 この「驚いた」には、「呆れた」という意味と「流石(さすが)」という意味を含んでいるつもりです。つまり、モーツァルトの作品の中にあって異端児的存在とでもいうべきものを選ぶことにしました。
 ちょっととりとめのない内容になるかもしれませんが、よろしかったらおつき合い下さい。
 先のテーマを二回に分け、とりあえず今回は「呆れた」曲のほうをご紹介します。
 ヘ長調K.522「音楽の冗談」と聞いてご存じの方は、よほどのモーツァルト通か、とにかく変わったものなら何でも聞いてみようという好奇心旺盛な方とお察しいたします。
 とにかく、モーツァルトほどの天才がよく後世に残したものだと思えるくらい、とんでもない曲なのです。
 私がこの曲を初めて耳にしたのは、たしか21〜22歳頃だったと記憶しています。サークルの先輩のアパートを訪れたときでした。ちなみにこの先輩は以前ご紹介した先輩とは別人で、私より1歳年上でした。先の先輩との共通点は歯科の専門書以外の読書家だったこと、クラシックが好きだったこと、正義感が強かったこと、金銭的に裕福だったこと(よくおごってもらいました)、そして単位をよく取りこぼすことでした(かなり共通点がありますね)。
 この先輩のアパートは、「青葉城恋歌」で歌われている広瀬川の畔で、窓の外の景色は仙台でもピカ一でした。一番大きな窓からは広瀬川の切り立った崖が目前でしたし、トイレの窓からは青葉山が見渡せました。
 外の絶景に比べて部屋の中の散らかり様はこれまた絶句もので、1か月前に着用したと思われる下着類が、部屋のコーナーにまるで貝塚のようにうず高く裾野を作っていました。
 閑話休題。
 ある日先輩を訪ねると、彼はいたずらっぽい目をして、
 「この曲の作者を当ててごらん」
と言ってかけてくれたLPが、実はこの曲だったのです。
 第1楽章が始まりほどなく、バロックの誰かかあるいはモーツァルトの初期の作品であろうと選択肢をしぼることができました。
 しかし、途中から何やらバランスの悪いメロディーが現れた瞬間、選択肢からモーツァルトは消えました。曲想の稚拙さとくどさに思わず鼻で笑ってしまいました。そういった箇所は随所にみられました。あとでモーツァルトの曲であることを聞いてがっかりしたことを今でもはっきり覚えています、モーツァルトがこんな曲を作るはずがないと。しかも31歳の時、つまりモーツァルトにとって成熟期から晩年にさしかかった頃のものであることを知り、ますます不可解になりました。
 実はこの曲、副題が「村の音楽家の六重奏」となっていて、この題からすると演奏家(の技術)が稚拙のようにとれますが、作曲家が稚拙なのです。つまり、モーツァルトが稚拙な作曲家をからかって作った曲ととれますが、それにしてもそのからかい方がこれまたあまりにも稚拙で、モーツァルトらしいエスプリが微塵も感じられないのは私だけではないと思います。
 モーツァルトは生来、彼の手紙などにもみられるようにスカトロジーな面があり、この曲の醜悪さはその表れではないかとの見方もできます。
 そして最後が極めつけ、演奏者全員が全く別々の調の和音(不協和音などという上品なものではありません)で締めくくるのですが、まあ、興味がおありでしたらお試しあれ。
 ただし、
「聴くんじゃなかった」
と後悔しても一切責任は負えませんのであしからず。
 次回は一級品の「粋」をご紹介いたします。
      (1995年群馬県保険医新聞10月号に掲載した原稿をもとに加筆)

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