「そうだったのか!語源」④

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医学関係の語源の続編である。

まず血管について。

血管には大きく分けて動脈と静脈がある。もちろん、心臓からみて末梢になると、当然両者の明確な区別は難しくなる。

「動」と「静」は、脈拍という心臓の動きの影響がはっきりしているかどうかを表している。動的と静的、動物と静物等と同様の関係か。

解剖学的には、心室に連結し心臓から送り出す血液を入れている血管が動脈、心房に連結し心臓に戻る血液を入れている血管が静脈ということになる。入れている血液の「質」には関係ないため、右心室と肺を結ぶ肺動脈には静脈血が、肺から酸素を取り込んで左心房に戻る肺静脈には動脈血が入っている。心臓に戻ってくる血管は当然心臓の弛緩収縮の影響を受けにくい。

さて、英語では血管を blood vesselという。vesselとは容器や船、あるいは人を表している。元々は「うつわ」を意味していたのだろう。船は、中に人や物を入れて運ぶうつわ、人は魂のうつわという解釈ができる。

日本語でも「容姿」という言葉がある。「容」は「容器」「容積」というように入れ物を表す。つまり容姿は、人間そのもの(精神、魂=spirit)の入れ物の「すがたかたち」という意味であろう。外見というものは、決して人間そのものではないという考えがそこに感じとれるのは興味深い。

ちなみに、the weaker vesselとは新約聖書に源を発する言葉で女性を表す。

ただ、厳密には weaken vesselとなっているので、もしかすると先の英語は誤訳の可能性も否定できない。女性を「弱き器」と訳したことが、その後の人類の歴史に大きな誤算を生んだのかもしれない。今後の続編で触れるつもりだが、女偏の字は男編のそれに比べ、圧倒的に多いのだ。女性を弱者と決め付けることなかれ。

 

次に、神経について。

「神経」とは江戸時代、前野良沢、杉田玄白らがオランダ語訳の「ターヘル・アナトミア」(原書はドイツ語である)を「解体新書」に翻訳する際に、オランダ語の「zenuw」の訳として「神気」と「経脈」を合わせて作られた造語とされている。

「神気」とは「精神」や「気」を指し、「神」の字には魂や心という意味もある。「経脈」は経路のことで、つまり「精神」や「気」の流通経路を表している。

血管とは違い、中を流れる血液のように具体的な動きを視覚的に確認できるものではないが、経路を通じて情報を伝えていることは確かだったので、このような呼び方が定着したのではなかろうか。

ちなみに、英語のnerveの原義は意外にも「筋」や「腱」であり、現在の「神経」より「道すじ」つまり経路の概念に近かったようである。

神経には、求心性神経(感覚神経)と遠心性神経(運動神経)がある。

自律神経であっても例外ではなく、前者は内臓の状態を把握するセンサーであり、前者の情報をもとに後者は内臓の動きを促進あるいは抑制し、結果として恒常性を維持する役目を果たしている。

ちなみに、「神経質」という場合は、主に求心性神経の過剰な興奮状態を指すと考えられる。

たまたま感覚という言葉が出たが、ご存知の通り、senseあるいはfeelingという英語の和訳である。

感覚とは、ある感覚受容器に対して適当刺激(ある受容器に活動電位を起こさせる刺激 ex.光→視覚 音→聴覚)が加わり、その活動電位が、担当する中枢に伝達されることをいう。

つまり、感覚受容器が刺激を感じて、それを脳(中枢)が刺激として認知、あるいは認識(=覚)することである。

感覚受容器がsensor であり、sensibleには分別がある、実用的な、気付いているといった意味がある。一方、sensitiveには敏感な、神経質な、過敏なといった意味がある。

以上は感覚の生理学的意味であるが、哲学的な意味はまた異なるようである。

「センスがいい」という表現には、より哲学的な意味合いが含まれている。 common sense=常識にも同様のことがいえる。

これらは、感性という日本語の方がより意味合いが近い気がするが、哲学では感性は理性より下位に位置付けられているそうである。

それにしても、センスという言葉はほとんど日本語化していて、ニュアンスなどと同様、ある意味日本語より使いやすいようである。

さて世の中、理性だけでは窮屈だが、感性ばかりでは危うさを覚える。似たようなことを、明治時代の文豪が山路を登りながら七五調で謳っていたように記憶している。

だいたい理性だけでは小説自体が成り立たない。

こうしてみると、人間とは実にやっかいな生き物である。

さて、個人的感覚からすると(コンセンサスも得ぬうちから感性、感覚という言葉が出過ぎるきらいもある。これこそが自己矛盾か)、感性とは言葉では明確に根拠を表現しにくいようである。スポーツの世界でいうと、タイムや距離など数値で評価する競技ではなく、体操やフィギュアースケートでいうartistic impressionに近い感覚に思える。

ある人は「センスがいい」と思っても、他の人はそう思わないかもしれない。そして、それ自体が正しいかどうかは、根本的には誰もジャッジすることはできない。否、百歩譲ってジャッジできたとして、そのジャッジする人自身が中立的かどうかは、誰がジャッジするのだろうか。ボクシングなどでは往々にしてそう感じることがある。

世の中には、こんな矛盾は山ほどある。

だから、自分自身を卑下する必要もなく、さりとて、自分自身を過信することもできないのではなかろうか。

なんだか、理論的な話から、いつのまにか、感覚的な話になってしまった。

理系に属する人間のなんと非理論的なことか。

(群馬県保険医協会歯科版掲載のための原稿)

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