「そうだったのか!語源」③

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何回か、医学関係の語源について確認してみたい。

まず「代謝」について

もちろん、「生体内の物質とエネルギーの変化」の意味である。ちなみに代謝には同化と異化がある。前者が、外界から摂取した物質に特定の変化を加え、その生物に固有あるいは必要な物質を作り出すことを表し、後者は同化した物質をより単純な物質に分解することを表し、一般的にはエネルギーの放出反応を指す。古い細胞が新しい細胞と入れ代わることも新陳代謝という。

いずれにしても、代謝とは生体内で物質が他の物質に変化することを指す点では根本的には同義である。

「代」は、人偏と棒ぐいから成り、同じポストに入るべき者が互い違いに入れ代わることを表している。ちなみに、「貸」は持ち主が入れ代わること、「袋」は中にはいる物が入れ代わることを表している。

「謝」の字は、成り立ちからいろんな意味に枝分かれしていて面白い。

「謝」のつく熟語としては、「感謝」「謝罪」等、頭をさげるものが多い。

旁(つくり)の「射」には、張りつめた矢を手から離している様を表している。それに言偏をつけて、言葉に表すことによって負担や緊張を解いて気楽になることを表している。そこから派生して、張りつめて咲いた花や葉が緊張を解いてぐったりする、つまりしぼむことも表している。くだけた言い方をすれば、ピンとしていた物がぐにゃっとなることといえばイメージしやすいだろうか。同時に、「謝る」という動作は、相手に対して頭をうなだれる動作でもある。

「代謝」の場合、変化を加えられた物が、次第にその形を変え(ぐにゃっと)、全く別の物に置き代わることである。

 

「内分泌」について

身体の恒常性は、自律神経とホルモンにより制御され保たれている。前者を神経性制御、後者を液性制御ともいう。

ご存知の通り、内分泌とは分泌腺で作られた分泌物(ホルモン)を、導管を介さず直接血液中に放出する現象をいう。これに対し外分泌とは、導管を介して分泌物を排出することを言う。ちなみに消化管の分泌や汗などは外分泌である。しかし、これだけでは、ことさら内外を区別する必要性、あるいは説得力に欠けるように思える。

内分泌の概念を最初に提唱したのはフランスの生理学者C.ベルナールで、1859年、肝臓がグルコースを直接血液中に放出することを内分泌と呼んだ。

現在では、内分泌とは内分泌腺がホルモンを血液中に放出することを指している。ちなみにホルモンは、ギリシャ語で「刺激する」「呼び覚ます」といった意味の「ホルマオ」が語源とされている。

さて、発生学的の話になるが、嚢胚期において一部の細胞の陥入が起こるが、この陥入によってできた腔所は原腸と呼ばれ、将来の消化管となる。つまり、消化管内は元来生体の外であり、生体の外に分泌されるのが外分泌であり、生体内に分泌されるのが内分泌としたほうが理解しやすいのではなかろうか。

生体内とは血管内であり、内分泌はいわば血管内分泌なのである。

血管内に分泌されると、外分泌とは異なり確実に標的器官に届けることができ、いきおい標的器官の機能を精密にコントロールすることができるのである。

ご存知かもしれないが、焼肉のホルモンは内分泌とは全く関係がない。

これは動物の内臓部分を指し、かつては下手物扱いされていた部分である。つまり、食べられないもの=廃棄するものの意味で、関東では「捨てるもの」「うちゃるもの」これが関西では「放るもん」で、これがホルモンの語源とされている。

さすがに、口にするものを「捨てるもん」とは言いにくいので「ホルモン」とシャレを効かせたのではなかろうか。

(群馬県保険医協会歯科版掲載のための原稿)

ヤマボウシの実

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今年の夏は天候不順の日が多く、暑さに弱い私は、比較的過ごしやすくその点では助かりました。でも、農家の方は作物の生育状態が心配でしょうね。

そしていつの間にか季節は秋に。

青春時代は、夏の終わりが寂しく感じたものですが、この歳になると、夏がほっとします。

写真は我が家のシンボルツリーの一つ、ヤマボウシの実です。

見た目はなかなか愛らしいのですが、下に落ちたものを誤って踏みつけると、靴底にはベタッとつくし、結構やっかいです。それでも、銀杏のように匂いがないのが幸いですが。

何かの文献に食べられるとあったので、数年前にジャムにしたことがありました。

普通にジャムにしたところ、まるで焼き芋のようでジャムのイメージとは程遠い味になりました。そこでレモンを入れてみたところ、なんとかジャムとして食べられました。ジャムって、甘みだけでなく酸味が絶対必要なんですね。

「そうだったのか!語源」②

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2回目の今回は、やはり医療に関わる言葉を中心に取り上げてみたいと思う。

マスコミ等で、医療機関に対し、批判的な意味合いを込めて、「患者がたらい回しにされた」という表現がよく使われる。

救急患者にとっては一刻の猶予も許されない場合もあるわけで、受け入れを拒否されたことがけしからんとばかりにこの表現をされる。「たらい回し」には責任逃れの意味合いが強い。

一方の受け入れ側では、設備やスタッフにそのキャパシティがなく、予後に責任が持てないためにやむをえず「お断り」するわけで、医療関係者としてはこの辺の情状も酌量しての報道を願いたいところである。

閑話休題。

まず「たらい」だが、若い方の中にはご存じない方もおられるかもしれない。

顔や手を洗う平たい桶で、「手洗い」が転じたものという説もある。曲げわっぱの大きなものと思えばいいのだが、わっぱもご存じない方は、ご興味があればWikipedia ででも調べていただきたい。

「たらい回し」とは、このたらいを仰向けになって足でくるくる回し、次から次へと渡していく芸のことを指す。つまり、言葉としては「回す」ことではなく、渡すことが意味の主体となっている。これが現在の責任転嫁を揶揄する諺となっている。

次に、ヤブ医者。これには諸説あるが、最も有力なのが以下の説。

野巫(やぶ)医者が転じたもので、「野巫」の「巫」は巫女(みこ)にも使われ、神に仕える者を指し、「野巫」は田舎の呪術師という意味で、いいかげんな呪いで病を治そうとするいかがわしい医者を表現したものと考えられる。その他、「野暮な医者」が訛ってヤブ医者となったという説もある。

次にその対極にある「赤ひげ」。

一定の年齢以上の方はご存知かもしれないが、これは、山本周五郎の時代小説「赤ひげ診療譚」(1953年)の主人公の人情味溢れる医師、新出去定(にいで きょじょう)のあだ名が赤ひげだったことによる。

そういえば、ブラック・ジャックも、意味の違いこそあれすでに象徴的に使われている。

医師の「見立て」という。

「見立て」とは、「見る」と「立つ」が融合した言葉である。

「立つ」には、決まりなどをしっかり決めるという意味があり、つまり見て、善し悪しを決めることを表す。ここから、品評することや診断することを指すようになった。

五臓六腑

これは、伝統中国医学で使われている言葉で、五臓とは心臓、肝臓、肺(臓)、脾臓、腎臓、六腑とは大腸、小腸、胃、胆(嚢)、膀胱、三焦を指す。

この中で、三焦(さんしょう)とは聞きなれない言葉である。中国伝統医学では、「働きだけがあってカタチがない」と記されているが、実体はリンパ管とされている。

「五臓六腑に染み渡る」という使われ方をする場合が多いが、この表現は上戸の方には実感できるのではないだろうか。

腑に落ちない

腑とは「はらわた」、つまり内臓、腸を指すが、意味が広がり心や心根といった意味もある。

「腑に落ちない」は、食べたものが腸に収まらないということだが、後者の使い方では、人の意見などがうまく心に入らない、つまり納得がいかないという意味で用いられる。

似たような表現で、「溜飲が下がる」という諺があるが、不安や不満などが消えて胸がすっとすることを表すが、「胸のつかえが下りる」という言い方もある。

腑の意味を広げず、もともとの内臓の意味で使ったほうが諺全体として意味がスッキリするように思うのだが、いかがだろうか。

ちょっと、奥歯に物の挟まったような言い方だったらご容赦願いたい。

さて、もともと「腑に落ちない」と否定形で使われることが多いが、肯定的に「腑に落ちる」という使われ方をすることもあるようだ。

本筋から外れるが、「とても」や最近では「全然」までが肯定形で使われるようになっている。時間軸における言葉の変化を実感する。

 

「腑」で思い出したが、「ガッツ」という言葉がある。gutsはgutの複数形で、これこそ日本語で言う腑、つまり内臓である。楽器の弦やラケットに張る線をガットというが、日本語では腸線で、つまり羊などの腸から作った線である。その名残で、今でもHY-SHEEPという名のガットがある。

gutsには根性や勇気、決断力といった意味があるが、内臓が健康でこそそういった力も湧いてこようというものである。

これで合点がいき、腑に落ちただろうか。

(群馬県保険医協会歯科版掲載のための原稿)

海の日

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今日は海の日。

といっても、関東では梅雨明けまでもう少しかかりそうです。

ただここ数日、午後から夕方にかけて車軸を流すような豪雨に見舞われていますから、梅雨明けも間近といったところでしょうか。

私事ですが、先週、群馬県保険医協会の会長に選任され、それに伴う行事等でやや緊張気味に過ごしていましたので、この週末連休は、久々にホッとした時間を満喫できました。

写真は海の日にちなんでスカイブルーです(ちょっとこじつけですが)。

道を挟んだ隣の家のアガパンサスです。この名前もやっと調べた挙句に見つかりました。日本名はムラサキクンシランというそうです。じつは、意外にもヒガンバナの仲間だそうです。

なぜ調べたか?

診療室から見えるこの花の名前を患者さんから聞かれるからです(自分で植えたものではないんですが)。

毎年この時期、一ヶ月以上清々しい色の花を咲かせます。

鬱陶しい時節柄、ツユクサやアジサイの花色と同じく、目に涼しさを運んでくれます。

 

 

「そうだったのか!語源」①

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私が多少、語源について興味がありそうだということで、語源にまつわるエピソードを連載で語って欲しいとの依頼を受けた。

もともと知ったかぶりをする「たち」なので、二つ返事とまではいかなくとも、一つ返事くらいでお引き受けすることにした。

さてここですでに、「エピソード」と「たち」という気になる言葉が出てきた。

それはまた後で触れることにして、私が語源に興味を持ったのは、物事の「イデア」(また気になる言葉が出てしまった)を理解すると、それに関連する事柄の共通点を知ったり、あるいは知らない言葉に遭遇した際に、自分が知っている言葉に分解してある程度その意味を類推するという楽しみを知ったからである。また、時代の流れとともにもともとの意味とは違った意味になってしまった言葉もあり、それはそれで言葉の歴史を知る楽しみでもある。

さて、この「イデア」とは、ギリシャ文明のプラトン哲学の中心概念とされるものである。英語のidea(考え、着想)の語源で、もともとは概念といった意味合いのようである。つまり、物事をそれたらしめている根拠となるものということになる。人が犬を見たとき、それを猫ではなく犬と判断するのは、犬には犬のイデアがあり、それは猫のイデアとは明らかに違うからである。

ま、そういった言葉、あるいは概念の連鎖といったものが世界の広がりを感じさせ、すこぶる楽しいのである。

初回は、まず我々の仕事場である医療に関する字として、「医」の旧字である「醫」の成り立ちについて触れてみたい。漢字の字形を分析することを解字というが、「醫」の解字から始めてみる。

「医」は矢をしまい込む箱=うつぼを表し、右上の「殳」部分は、手に木の杖を持つという意味で、この二つで「エイ」と読み、矢を隠す動作(医療のまじないと考えられる)を表し、この下に酒壺に薬草を封じ込め、薬酒とする意味の「酉」がつき、これがもともとの「醫」という字を構成している。が、これでは解字としてあまり面白くないので私の勝手な解釈をご紹介したい。(権威ある研究者ではないので、間違いはご容赦願いたい)

ちなみに、「医」は「醫」の左上1/3の部分を切り取ったものであるが、日本の漢字にはこういった略字は幾つかある。

「1ヶ月」というときの「ケ」は「箇所」の「箇」の冠のひとつ(かなり省略している)を使ったもの、「巾」は「幅」の偏(へん)の部分といった具合である。一部を切り取った略字というものは、もはやそれ自体に意味を持たないものも多い。

さてここで、「医」は主に医療技術を指すとしよう。右上の「殳」は「役」の旁(つくり)から「役に立つ」の意味で奉仕の心を指す。下の「酉」は「酒」の旁から癒しの心を指す。

そうすると、医療は医療技術と奉仕、それに癒しの心があって成り立つものと考えられないだろうか。

とりわけ昨今の歯科では、最新医療、先端医療といったこの中の技術の部分に重きが置かれ、奉仕と癒しといった重要な要素が後回しにされてきた感がある。最近医科から注目されつつある周術期歯科医療、在宅歯科医療では、奉仕と癒しの歯科医療が重要性を増している。

いまは、もう一度医療の原点に立ち戻り、歯科医療の市民権を獲得すべきときではないだろうか。

(群馬県保険医協会歯科版掲載のための原稿)

ゴールデン ウィーク

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今年のゴールデンウイークは、天候に恵まれました。

だからといってどこかに出かけたわけでもなく、ほぼ日常の環境の中で、庭いじりや、書類の整理、そして親しい人たちと時間を共有しました。木漏れ日の下、テーブルを外に出し、風の音や鳥のさえずりを聞くだけでも、かけがえのないひとときを満喫できます。

暑くもなく、寒くもなく—でもそんな心地よい気候は長くは続かないものですが。

さて、1枚目の写真は、診療所の玄関前で、モッコウバラが満開です。手前の斜めに伸びたオリーブの木は年々スロープに覆いかぶさり、そろそろなんとかしなければ、と毎年考えています。

2枚目は、庭のフジの花。ミツバチの羽音が聞こえてきそうです。

最後の1枚は、ブルーベリーの花後の状態。これからもとの部分が膨らんで夏にはあの甘酸っぱい実をたわわにつけます。

 

遅ればせながら、桜満開

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昨日の日曜(4月9日)は大気の状態が不安定で、午前中は雨混じりの強風が吹き荒れていました。

午後になると雨は止みましたが、風は相変わらずで、例年よりやや遅く満開を迎えた桜の花が、必死に枝にしがみついているようでした。

それでも雨のおかげで澄み切った空気により、前橋のシンボル赤城山をすっきり望むことができました(写真は、自宅近くの桃ノ木川に架かる橋から撮ったもの)。

これから、ハナミズキ、バラと、開花が続き、一年で最も華やいだ季節を迎えます。

私が生理学の非常勤講師をしている中央歯科医療専門学校でも、今週から新入生の講義が始まります。どんな学生と会えるか、今から楽しみです。

いつの間にか—春

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いつの間にか—すっかり春めいてきました。

昨年は今頃、桜は満開を過ぎていましたが、今年はここに来て冷え込む日々が続き、開花が遅れ、逆に花を楽しむ期間が若干長くなりそうな、そんな気配があります。

さて今回は、ここのところ数回紹介しているジョウビタキ、また登場です。

私に心を開いてくれたのか、庭に出るたびに近づいて来てくれます。うれしくなります。

しかし今回の主人公はバックのユキヤナギです。

ユキヤナギはバラ科で、5枚の花弁で、桜や梅、梨などと同類です。

もう一つの写真は、裏庭に咲くツツジ科の「春一番」です。

春一番といえば、春本番前の最初の強い南風の呼称ですが、それはそれとしてやはりこの鮮やかなピンクは春の到来を実感させます。

地球温暖化が取り沙汰される昨今ですが、それでも日本はまだ四季を感じる風情があります。

この風情と感性を大事にしていきたいものです。

 

 

冬から春へ

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2月も残りわずか。

寒い日もありますが、さすがに前橋では最低気温が氷点下になることはほとんどありません。

その分、今年は春二番、三番と、強風が立て続けに吹き荒れました。冬季節風の強い当地でもびっくりするような風でした。

この時期穏やかな日中にそっと窓を開けて深呼吸すると、時々春の香りがします。おそらく気温と湿度が上昇したため、地面に含まれていた水分が地上に出てきた匂いではないでしょうか。この「春の気配」がとても好きです。

さて写真は、つい先日庭にやってきたモズと、今朝咲いていたクロッカスです。

俳句では、モズは秋、クロッカスは春の季語ですが、モズは冬からたちの棘にささった早贄(はやにえ)のイメージがあるので、この2枚の写真で季節の変わり目を感じていただけたらと思います。

もうすぐひな祭りです。

 

 

ジョウビタキ

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今日は1月15日。かつては成人の日でした。

朝起きてみたらなんと、雪が降っていました。センター試験の2日目、受験生は大丈夫でしょうか。

実は本日、49回目の父親の命日なので、仏壇にお線香をあげました。父親は享年39歳でしたから、私は随分長生きしています。まずそれを感謝しなくてはなりません。

さて、写真は3日前玄関に出たところ、いつものジョウビタキが現れました。ちょうど近くにカメラがあったので構えたところ、足元の飛び石のところまで近づいてきました。その距離1m。夢中でシャッターを切りました。こんな近くで小鳥を見られるなんて滅多にないことです。なにかいいことがありそうです。

まずは雪が積もりませんように。