数日前までの寒の戻りから一転、ここ2、3日ポカポカ陽気が続きました。
北関東の前橋でも、桜が満開になりました。
写真は4月7日(日)、近くの桃ノ木川に架かる橋から撮ったものです。
気に入っている定点観測点です。
シルエットになっているのは赤城山。地元の方なら、左側のコブ(鍋割山)がはっきりすると、やや東からの眺めであることがわかります。
桜が散り葉桜になるとハナミズキの開花が始まり、そしてバラの季節を迎えますます。
趣味の事を書いたブログです
今回は、国名や都市名についてエピソードを交えて触れてみたい。
まず、2016年にオリンピックが開催されたブラジルのリオデジャネイロ。
ブラジルの言語であるポルトガル語では、Rio de Janeiroと書くが、Rioは英語のriver、deはof、JaneiroはJanuary、つまり「一月の川」という意味である。この地はグアナバラ湾の入り口に位置しているが、初めてここに到着したポルトガル人はこの狭まっている湾口を川と誤認したため、発見した月にちなんでこの名前をつけたそうである。
同じく発見者により命名された国名で、これまた同じく南アメリカにあるアルゼンチンという国。
この国は、スペインに征服されたが、独立当時、リオ・デ・ラ・プラタ連合州(Provincias Unidas del Río de la Plata)と呼ばれていた。リオ・デ・ラ・プラタはスペイン語で「銀の川」を意味する。16世紀にこの地を踏んだスペインの征服者は、銀の飾りを身につけた原住民を見て、川の上流に銀の鉱脈があると信じてこの名をつけたそうである(ちなみにアルゼンチンは現在銀の産出量世界10位)。その後、スペインによる圧政を忘れるために、銀のラテン語表記の「Argentum」に、地名を示す縮小辞(-tina)をつけてArgentinaとし、日本語ではアルゼンチンと呼ぶようになった(銀の元素記号Agも同じ由来)。
ちなみにLa Plataは、首都ブエノスアイレスを流れる川の名として現在も残っている。
ラテンという言葉が出たところで、国名ではないがラテンアメリカという地域名について触れておこう。
これはアングロアメリカ(アングロサクソン系が主導権を握る国々=米国、カナダ)に対して付けられた名前で、中米から南米の国々を指す。
ラテンという言葉には「イベリア系の」という意味があり、これらの国々をかつて支配していたのが、ほぼスペインとポルトガルだったことに由来している。
さて、ラテンアメリカのコスタリカという国名。
Costa Ricaはスペイン語だが、英語ではrich coastとなり「豊かな海岸」という意味である。
ちなみに、同じラテンアメリカにエクアドル(=Ecuador)という国があるが、英語のequator、スペイン語で赤道という意味である。地図で調べると、たしかに赤道の上に位置している。equatorの(equa-)はequal=等しいと同源で、赤道は北極と南極から等距離にある線という意味である。
「海岸」に関連して、アフリカに行くとCôte d’Ivoire=コートジボアールという国がある。ある年代以上の方には、元フランス領の「象牙海岸」という名前の方が馴染み深いかもしれない。Ivoire (仏)は英語のivoryで、つまりかつての意訳がそのまま原語の仏語に戻されただけである。1986年、この国の政府が、自国名に対し、意訳による外名(第三者による特定の土地・民族の呼称のこと)の使用をやめるよう各国に要請したことによる。
Côteが出たついでに、フランス南東部の Côte d’Azur=コートダジュールは保養地として有名だが、Azur(アズュール)はフランス語で青を意味し、「紺碧海岸」と和訳される。「アズレンうがい液」という青い薬剤があるが、これも同じ語源である。
さて、今度は中東に目を向けると、ヨルダンという国がある。紛争の絶えないイスラエル、パレスチナの隣国であるが、国名はそこを流れるヨルダン川に由来している。ヨルダン川は、ヘブライ語起源の河川名で、聖書にも出てくるそうである。スペルはJordanだから、英語読みでは「ジョーダン」だ。この読み方だと、国名よりは人名を連想させる。
ヨルダンからやや北上すると、ジョージアという国があるが、この国名は最近耳にするようになった。力士の栃ノ心の出身国でもある。この国、アメリカの州名かと耳を疑いそうだが、実はかつて、ロシア語でグルジアと呼ばれていた。
英語でのスペルはGeorgiaだから、どちらの読み方もできそうである。
国連加盟国の大多数の国は、もともとこの国を英語読みのジョージアと呼んでいた。グルジアと呼んでいたのは、日本と中国、韓国と旧ソ連の国々くらいだった。2008年にロシアと武力衝突した旧グルジア政府は、翌年からロシア語由来のグルジアという呼称を変更するよう各国に要請していたが、結果として2015年以降、日本もジョージアと呼ぶようになった。国家間の関係が、国名の呼称にまで影響を及ぼすことは興味深い。
ちょっと離れて、インドネシアという国名は、「インド」に諸島を意味する接尾辞「ネシア(-nesia)」をつけたもの。
大航海時代にヨーロッパ人が主観的につけた名前で、インドの島々といった適当な意味だとか。同様に、タイ、ラオス、カンボジア等をインドシナ=Indochinaと呼ぶが、これもヨーロッパ人から見て「インド(India)と中国(China)の間」といった大雑把な命名である。
オセアニア=Oceaniaは大洋州と和訳されるが、スペルを見るとocean(オーシャン)からの命名とわかる。
一方、ユーラシア大陸のユーラシア=Eurasiaは、ヨーロッパ(Europe)とアジア(Asia)との造語である。
北に目を向けると、デンマーク領のグリーンランドという島がある。世界最大の島で、面積は日本の約6倍で、その85%は氷で覆われている。
名付け親は、ノルウェー生まれのアイスランドバイキング、エイリークという人物。
エイリークはグリーンランドに上陸するより前に、アイスランドを発見していた。 彼が命名したアイスランド(英語ではIceland)は、そのいかにも寒そうな名称故に入植希望者が現れなかった。その轍を踏まないよう、彼はこの地に入植希望者が多数現れるように、「緑の島」と名付けた。それがグリーンランドの由来であるが、それで入植者が現れるというのも何とも浅薄な気がしてならない。
ちなみにこの島の南部には緑の大地が広がっているそうである、念のため。
(群馬県保険医協会歯科版掲載のための原稿)
寒い寒いと訴えていたのはつい先日のことでしたが、3月になるとやはり暖冬なのでしょうか、最高気温15℃を超える日も出てきました。
左はいつものジョウビタキのオスですが、こちらに慣れてきたのでしょうか、徐々に距離を詰めても逃げないようになってきました。くちばしを大きく開けてさえずっている様子が確認できます。
中央は庭のクリスマスローズです。
シングルスポットというタイプかと思いますが、1年前に比べ、株が2倍くらいに大きくなりました。
クリスマスの名が付いていますが、関東では立春前後から咲き始めます。
うちでは、この3月中旬が真っ盛りです。
そして右はサンシュユの花です。
『春は名のみの風の寒さや」という歌詞がありますが、菜の花よりもっと先に咲く黄色の花、蝋梅やこのサンシュユはまさに、春を待つ人々に希望を与えてくれます。
日もだいぶ延びてきました。多くの植物の動きが活発になるとともに、また雑草との戦いが始まります。
若い方はご存じないかもしれないが、舶来という言葉がある。
舶来品などという使い方をするが、今ではめっきり使われる機会が少なくなったように思う。還暦を過ぎた人間からすると心なしか寂しい。
同じように、ハイカラなどという言葉も最近は滅多に耳にしない。30歳台以下の方々にはかえって真新しく聞こえるかもしれない。
さて「舶」とは、沖にもやいして岸には着けない大きな船を意味する言葉で、のちに海を渡るような大きな船を指すようになった。「船舶」もこの意味で使われる。
高度成長期以前の日本人にとって、舶来品とは、海外から船ではるばる運ばれてきた(高級)品というイメージが、長い間コンセンサスになっていたような気がする。
さすれば、舶来という言語には、我々日本人の「列強」に対するコンプレックスが多分に含まれていたのかもしれない。
昨今の日本人は、「Made in Japan」を見て安心するところがある。誇らしいことに疑う余地はない。もはや、舶来に「高級」といった意味がなくなったため使われなくなったという側面も否定できまい。
ということは、高度経済成長期の弊害もあるが、ある意味、そこで日本人のアイデンティティを再確認できたという評価も成り立つ。
やや、いやかなり今回のテーマから外れてしまった。
閑話休題。
もともと日本語は、かなり繊細なニュアンス(すでにこういった外来語に逃げてしまっている)まで表現できる言語だった。
かつて日本人に対して海外から、コミュニケーションに伴う表情が乏しいとの指摘があった。それはひとつに、日本語という言語が素晴らしく表現力があるからではないだろうか。
例えば、我々世代の日本人が初めて覚えた英語は[This is a pen.]。
普通、「これはペンです」と和訳する。
しかし、もしかしたら「これはペンだよ」かもしれないし、「「これはペンだぜ」あるいは「これ、ペンなのよ」かもしれない。こういう微妙なニュアンスを、ジェスチャーや発声の抑揚を交えずに表現できるのが日本語の卓越した表現力と言えまいか。
また、和英辞典より英和辞典のほうが、原語に対する訳がずっと多いことでも、いかに日本がより多くの表現を持っているかを如実に物語っている。
ところが、現在では本来の日本語より外来語を使ったほうが、話者聴者双方の概念を一致させやすい場合があることも事実である。
先ほど心ならずも使ってしまった「ニュアンス」という言葉だが、「表現、感情、色彩などの微妙な意味合い、色合い」というのが日本語による解説だが、個人的には「機微」という日本語が最も近いような気がする。
しかし、現在の日本のGDPを担っている中心的な世代以降の世代(回りくどい言い回しをしているが、その辺の機微を斟酌していただければ幸甚である)では、機微よりニュアンスのほうがイメージ(また外来語である)が伝わりやすいのではなかろうか。
ことほどさように、身の回りにはそういった意味のわかりやすい、換言すればそれに相当する日本語のほうがわかりにくい言葉は枚挙にいとまがない。
あるいは、日本語を弁護するようだが、日本語だとあまりに意味が直接的で、それをオブラートで包んだような表現のほうが、意思の疎通に際し角が立たないのかもしれない。
幾つか例を挙げてみたい。
先ほど心ならずも使ってしまった「イメージ」もそうであろう。
「心の中に思い描く姿形、情景、心象」という和訳だが、「イメージ」のほうが日常生活に馴染んでいるのは、簡単、かつ短い言葉だからかもしれない。もちろん、日本語にはない「舶来」的軽快さもその要素と考えられる。
また、「フィーリング=feelingが合う」とは、直訳すれば「感覚が合う」ということだが、性格が合うとか、相性がいいといった意味合いも含まれているように思う。
そういった概念を緩く最大公約数的にまとめあげて、しかも逃げ道も塞がないようにするには、フィーリングという外来語が実に便利なのである。
コンセプト=conceptという言葉も同様な使われ方をしている。「概念、意図、構想、テーマ」といった意味だが、日常生活に定着したのはそう以前のことではない。「舶来」語を用いることによるモダンさ、あるいはアカデミックな響きが受けたのかもしれない。
しかし、「舶来」語もあまりに一般化すると、ある意味新鮮さを失うためか、また別の国の言語が使われるようになることがある。
これはお店の名前などにも言えることである。
「イメージ」を仏語で「イマージュ」と言ってみたり、「ウェディング」を同じく仏語で「マリアージュ」、英語の「エアー」を独語で「ルフト」(医学用語としてかつては頻用していた)、「ズボン」を「パンツ、ボトム(ス)」等々。
その他、外来語のほうが日本語より頻用されている言葉の例を幾つか挙げてみたい。
郵便投函箱→ポスト
自動車でどこかへ行くこと→ドライブ
周遊旅行、団体旅行→ツアー
周遊船旅行→クルーズ
制御、統制、管理、規制→コントロール
対比、対照→コントラスト
程度、水準、段階→レベル
隅、部分、区画→コーナー
首位、最高幹部→トップ
触覚、筆づかい、指使い→タッチ
訴える力、魅力→アピール
地位(の高さ)、身分(の高さ)→ステータス
主導権→イニシアチブ(イニシアティヴ)
感覚、感性→センス(既出)
要求、必要性→ニーズ
献立表→メニュー(仏)
予定表、番組表→プログラム
料理の作り方、調理法、秘伝→レシピ
やり方、技術、知識→ノウハウ
上品で落ち着いている様子→シック(仏)
衣装、服装、身なり、出で立ち→コスチューム
顔形、容貌、器量、外見→ルックス
知識階級→インテリ(インテリゲンチア)(露)
特定の分野物事を好み,関連品または関連情報の収集を積極的に行う人
→マニア(近年では「おたく」という日本語が存在感を示している)
情報媒体→メディア
新聞、雑誌の編集者、記者→ジャーナリスト
運動選手(とりわけ陸上競技)→アスリート
不調、低迷→スランプ
根源、起源、祖先→ルーツ
禁欲的な生き方→ストイック
助手、補佐→アシスタント
特に優れた品質として認知されている商品の名前や標章→ブランド
基準、基礎、土台→ベース
思想、観念、信条→イデオロギー(独)
階級制、階層制→ヒエラルキー(独)
()は起源の外国語、それ以外は英語
まだまだ枚挙にいとまがないが、エンドレスになりそうなので、このテーマについては一応のフィナーレとしたい。
(群馬県保険医協会歯科版掲載のための原稿)
はや2月、如月になりました。
私は、冬場は毎朝6時過ぎに庭に出るのですが(ちなみに夏場は5時)、まだ夜明け前、南東の空に下弦の月がはっきり見えます。
月の右上に見えるのはもちろん明けの明星、金星です。
で、そのずっと離れた右上に見える惑星が気になっていました。
位置の移動はあれ、1月上旬から見えています。
今はほんと便利ですね。例えば下のサイト。
https://www.nao.ac.jp/astro/sky/2019/01-topics02.html
「月」「金星」で検索すると、すぐ「木星」が出てきます。
木星の半径は地球の約11倍、金星は地球の隣、地球よりやや小さいくらいの惑星ですから、木星が金星より小さく見えるということは、いかに遠いかということです。
でも惑星ですからね、宇宙の大きさをつくづく感じます。
ふと、「冬の星座」という歌を思い出しました。
「もの皆憩えるしじまの中に」という歌詞が口をついて出てきましたが、この歌はもともとアメリカのウィリアム・ヘイス作詞作曲の「愛しのモーリー」という曲が原曲だそうです。
今は、一年で最も寒いとされている二十四節気の大寒。
もう1ヶ月も雨が降らず、カラカラ状態が続いています。地に生えている木々はどこから水分を取っているのか不思議なくらいです。
日本海側に住む方々から見れば、贅沢かもしれません。
さて、庭のバラは、もうそろそろ剪定や植え替えをする時期なのですが、まだ健気に咲いているものを見ると、もう少しそっと咲かせてあげたいような気もします。冬のバラは小ぶりなのですが花持ちが良く、1、2週間はこの状態を保っています。右奥の赤く見える花はギョリュウバイです。
右の写真は、庭によく来るジョウビタキのオスです。
以前ご紹介したメスと違い警戒心が強く、これ以上寄ると飛んで行ってしまいます。カッカッと、木を叩くような声で鳴きます。
調べてみると、ジョウビタキとは「ジョウ」と「火焚き」から成る名前で、「ジョウ」とは「尉」で銀髪を指し(オスの頭頂部から後頭部がやや白く見えるからでしょうか)、「火焚き」は鳴き声が火打石を叩く音に似ているからとか。
背景の青空が、いかにも上州の冬を象徴しているかのようです。
立春までもう少し。
12月9日、今年も恒例の師走のCDコンサートを開催しました。
すっかり常連さんばかりになりました。埼玉から参加してくれた親友も3年連続、3回目の参加でした。嬉しい限りです。
今回は参加者が6人と少なかったのですが、少なければ少ないなりの良さもあります。
一番は、私自身に余裕ができ、参加者の一人として音楽が聴けたことです。
さて、今回は「人の声」をメインとしましたが、参加者の歓談が一番の「人の声」でした。
取り上げた曲について、若干説明します。
1.はBDですが、雅叙園の凝ったしつらえとチェンバロの高貴な演奏が素敵でした。
2.は、私もかつて参加していた男性合唱曲の定番である多田武彦のシリーズ「雨」を、大学の男性合唱団の演奏で聴いていただきました。こんな時、日本の四季を実感しますね。
3,は珍しく、というか初めてのチャイコフスキーの曲を取り上げました。
実は、重厚で脂肪たっぷり(失礼)のチャイコの曲は、個人的にはあまり好みではないのですが、アッカルドの演奏が素晴らしかったので、今回取り上げてみました。やはり、あの第一楽章の主題は一度耳にすると、忘れないメロディですね。
4.は個人的に、最近の演歌歌手の中では実力No.1ではないかと思う島津亜矢の、それも演歌ではない曲を取り上げてみました。日本人にしては珍しく金管楽器に近い声質で、中音から高音にかけて線が細くならない素晴らしい歌いっぷりです。
4.は、やはり一曲は入れておきたいモーツァルトです。
27あるピアノ協奏曲のうち、2曲しかない短調の1曲です。
5.は新進気鋭のJ.エーネスのバッハの ヴァイオリン・パルティータのBD画像です。このシャコンヌは絶品です。
これで今年も1年過ごせた、そう思うCDコンサートでした。
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ープログラムー
1.ピエール・アンタイ& スキップ・センペ in 目黒雅叙園(BD)
ラモー作曲 アンタイ、センペ編曲
2台のチェンバロのためのシンフォニー
2.多田武彦 作品集から
男声合唱組曲 雨
雨の来る前 武蔵野の雨 雨の日の遊動円木
雨 雨 雨の日に見る 雨
京都産業大学グリークラブ
石家荘にて
慶應義塾ワグネルソサイエティー
ヴァイオリン協奏曲ニ長調 op.35
S.アッカルド(Vn)
C.デイヴィス指揮 BBC交響楽団
4.島津 亜矢(歌)
I Will Always Love You
昴
聖母たちのララバイ
さくら
秋桜
ピアノ協奏曲No.24 ハ短調K 491
P:E.キーシン 指揮 :K.デイヴィス
ロンドン交響楽団
6.ジェームス・エーネス 無伴奏ヴァイオリンの至芸(BD)
バッハ作曲 無伴奏ヴァイオリン・パルティータ
第1番 第2番
さて、今回はこれまでの流れから趣向を変えて、会社名の生い立ちに触れてみたい。
そこには、まず、会社創立に際しての生い立ちと思いの丈が感じられる。
まず日本の会社名において、トヨタ、ホンダ、マツダ等、「○田」と、「田」がつくものが多いが、これは先祖が農民だったことがうかがい知れる。これらの名前には、明治から大正、昭和へと、当時産業革命の流れの中、農業から工業への産業形態の遷移を感じられる。
「スズキ」も創業者の苗字そのものである。
では「ダイハツ」は如何。これがなかなか興味深い。
ダイハツは、わが国で最も歴史の長い量産車メーカーで、大阪工業高等学校、のちの大阪帝国大学工学部(現大阪大学工学部)の研究者を中心に、発動機製造メーカーとして創立された。その後工業化の中、「発動機」を企業名につけるメーカーが次々と出現したため、顧客のほうでどこのメーカーか識別するために「大阪の発動機」と呼称するようになり、いつしか「大阪発動機」、縮めて「大発」つまり「ダイハツ」となったのである。
日産はご存知の通り、かつてのコンツェルンである「日本産業」に由来する。
マツダは創始者の松田重次郎の名前に由来するが、MATSUDAではなくMAZDAである。これは、自動車業界の英知を願って、ゾロアスター教の全知全能の最高神アフラ・マズダー(Ahura=主 Mazda=賢明)にかけて命名している。
ユニークなのは、光学機メーカーである。
「ニコン」は、日本光学工業株式会社から派生した命名である。ちなみに、もともとは光学兵器メーカーである。
「キャノン」は面白い。
観音菩薩の慈悲にあやかりたいとの思いから、当時試作機にKWANON」(カンノン)と命名した。1934年のことである。翌年、世界に通用するカメラメーカーとして社名をCanonとした。面白いのは、現在でも正式な日本語表記は「キャノン」ではなく、「キヤノン」(ヤは大文字)である。
次に、現在社名が「コニカミノルタ」となった、かつての「ミノルタ」に触れてみたい。
「ミノルタ」は創業当時、「Machinery and INstruments OpticaL by TAshima」という英語の文字からとったものとされている。この名は、創業者の田嶋一雄によって名づけられたものであるが、『稔る田(みのるた)』の意味も含んでいるとされている。創業者の母が、「稔るほど頭を垂れる稲穂のように、常に謙虚でありなさい」と言っていたことを肝に銘じておきたかったからとも言われている。なかなかの命名である。
さらに面白いのは「ゼンザブロニカ」であろう。
知る人ぞ知る中判カメラの代名詞であるが、惜しまれつつも2005年に創業47年の歴史に幕を閉じた。
なんだかドイツのメーカーを思わせる社名であるが、れっきとした日本のメーカーである。
創業者は吉野善三郎。
彼の善三郎という名前と、ブローニーフィルム(中判カメラ用のフィルムの総称)を懸けて、「ZENZABRONICA」と命名した。
昨今知的財産の海外流出等が問題となっているシャープについて。
1915年、金属製の繰り出し鉛筆を開発した。その名はシャープペンシル。社名は一世風靡したこの自社製品の名に由来している。
ゲーム機のメーカーでは、セガとバンダイ、任天堂が面白い。
セガは、旧社名を「サービス ゲームズ ジャパン株式会社」といった。やや長く、覚えにくい名前である。そこで、Service Gamesの2文字ずつをとってSEGA=セガとした。
バンダイは、中国の兵法書の「永久に変わらないもの」を意味する「萬代不易(ばんだいふえき)」から命名したものとされている。
一方任天堂は、三代目社長が、「人生一寸先が闇、運は天に任せ、与えられた仕事に全力で取り組む」という社是を掲げたことに由来するとされている。
分野は違うが、資生堂の名は、中国の古典から引用しているそうで、「至哉坤元 萬物資生」がそれであるが、これは難しい。
「大地の徳はなんとすばらしいものであろう。全てのものはここから生まれる」という意味だそう。
これに比べて三省堂はわかりやすく、中国の論語の「吾日三省吾身」で、「私は日に三度我が身を振り返る」に由来しているそうである。
私は携帯を持たない人間であるが、ドコモはDo Communications Over The Mobile Networkの頭文字でできている。
決して「何処も」ではないのだが、日本人なら無意識にそう思い込むだろう。うまい命名である。
最後に、歯科関係者は誰もが知っているGCというメーカーについて触れておこう。
今でこそ、歯科器材メーカーとしてメジャーとなっているが、これはもともと東京池袋の化学研究所がその前身となっている。GCとは、General Chemistry(総合化学といった意味か)の頭文字をとったものである。ある年齢以上の歯科関係者は「而至」(ジーシーと読む)という社名を見たことがあると思う。
これは戦時中、敵国の言語である英語の使用を避けた際に、而至化学研究所という社名を使用したことの名残りであるが、戦後も長く使用されていたところを見ると、この会社が漢字のこの名前を気に入っていたのではないかと想像される。
企業の社名も、企業時の創業者の思い入れが偲べてこれまた興味深い。
(群馬県保険医協会歯科版掲載のための原稿)
これらの言葉は、すっかり日常生活に溶け込んで、日本語で説明するほうがずっと困難ではなかろうか。
デジタルという言葉が最初に日本で使われたのは、私のつたない記憶では腕時計だったような気がするが定かではない。
それまで時計といえば、長針と短針、さらに秒針が文字盤の中央の同軸上で回転して、それぞれ分と時間、秒を針の先端が指し示すものだった(言葉で表現するとややこしい)。1970年、世界初のデジタル腕時計が発売され、その後液晶表示になりあっという間に流布した。
一方アナログという言葉は、デジタルの登場によってそれに対比した形で使われるようになった。事実、それまでは針表示の時計をあえてアナログ時計とは呼ばなかった。
かような経緯のせいか、アナログが古くデジタルが新しいといった感覚が多分にあるようだが、元来の意味はかなり異なる。
analogはanalogyという英語から派生した言葉である。analogyには、類似や相似、類推といった意味がある。さらにその元となったギリシャ語のαναλογίαは比例という意味だとか。
この、そもそもの言葉の源である「比例」の意味に着目してみたい。
ここでいう「比例」とは、数学で用いる正比例などの比例とは異なる。
ここでは、ある物の状態を逐一別のある物で表示することを指す。逐一なので全ては連続して表示される。
つまりアナログとは、連続したもの(の変化)を他の連続した量で表示することである。
時計を例にすると、連続した時間の変化を連続した針の動き(角度)で表示する。
また温度計なら、連続した温度の変化を連続的に増減するアルコールの量(目盛りの値)で表示する、といった具合に。
一方のデジタルとは如何に。
まずdigitalだが、digital量は離散量と訳され、とびとびの値しかない量を指す。
そのもとのdigitとは、アラビア数字つまり整数を表すが、もともとは指という意味だった。
digitalis=ジギタリスという多年草をご存知の方も多いと思う。夏に鐘状花と呼ばれる釣鐘状の小さな花をたくさんつける。この花の形が指サックに似ていることから、digitという表現が使われた。
その指がデジタルとどう関係するのか。
数を数えるときに、古今東西を問わず、指を折るという習慣があるようだ。
「指折り数えて待つ」などという表現もある。
ちなみに、人間の指が通常左右で合計10本だったことが十進法の普及につながったという説もある。
つまりデジタルとは、ある物の状態を数字(整数)で表現したものをいう。
ちなみに、アナログはこれを実数で表示したものともいえる。
別の表現を使うと、アナログの小数点以下を四捨五入して一の位で表現したものがデジタルである(もちろん、小数点以下2位を四捨五入して、小数点以下1位で表現することもありうるが、いずれにしてもそれは実数ではない)。
整数は実数ではないので、たとえばアナログで、
1.2 1.3 1.4 1.6 1.8 と変化したものはデジタルではそれぞれ、
1 1 1 2 2 と表現される。
蛇足ながら、digitalの正確な日本語表記は「ディジタル」だが、我々日本人にはすこぶる発音しにくいので、通用表記として「デジタル」になったと思われる。
そういえば、Disney はかつての日本では、圧倒的に「ディズニー」でなく「デズニー」と発音する人が多かったし、Dieselも「ディーゼル」でなく「ジーゼル」だった。
近い将来、「デジタル」と発音すると若者との世代の差を感じるようになるかもしれない。
(群馬県保険医協会歯科版掲載のための原稿)