モーツァルト その3  -春を待つ音楽-

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 年明けから3月中旬頃までの仙台は、蔵王おろしと呼ばれる西よりのからっ風が吹き荒れ、それが時折降る雪を路上でアイスバーンに変え、街全体を荒涼たるベールで覆いつくしてしまいます。
 関東以南出身の学生は、このアイスバーンの坂道で歩き方のコツを覚えるまで、何度となく痛い思いをしたものでした。
 晴れた日でも、ちぎれた雲が太陽の前を足早に去来し、晴れたかと思うと曇り、また晴れ、まるでモーツァルトの転調のような天気の変わりようで、太陽自体が何とも頼りない存在に思えたものでした。
 前書きが長くなりましたが、さてこんな「春は名のみの風の寒さや」といった季節に、ぜひとも聴いてほしいモーツァルトをご紹介します。
 フルート四重奏曲です。
 モーツァルトのフルート四重奏曲は4曲あり、どれも明るい曲想になっていて、先ほどのように春の到来が待ち遠しい時には、フルートが小鳥のさえずりのように聞こえ、あたかも自分ひとりが春を先取りしたかのような、幸せな気分に浸ることが出来ます。
 さて、モーツァルト自身は、フルートという楽器をトランペットとともにある意味嫌っていたようです。
 あの有名なフルート協奏曲の作曲にあたり、手紙の中で、
 「僕は我慢できない楽器のために書かなくてはならない時は、いつもたちまち気分が乗らなくなります」と書いています。
 トランペットは、そのけたたましい音色が気に入らなかったようですが、フルートの場合はこれとは別の理由があったようです。
 今でこそフルートは、銀製で精密なキーのついた楽器ですが、当時は便利なキーなどなく、指で直接穴をふさぐ木製(または陶器製)の楽器でした(現在でもフルートが木管楽器の仲間に入れられるルーツはこの辺にあるようです)。
 そして製造がきちんと規格化されておらず、そのためピッチ(音の高低)が不正確だったことがどうも原因だったようです。
 まあ理由はどうであれさすがはモーツァルト、気に入らない楽器のために書いた曲ですが、4曲ともフルートという楽器のもつ魅力を十分に発揮した、まさに春を待つにふさわしい曲ばかりです。
 個人的には、小鳥のさえずりを連想させる軽快な第一楽章、しっとりとした短調の第二楽章、フルートとヴィオラのカノンを存分に聴かせる第三楽章という構成の、ニ長調K.285が特に気に入っています。
 学生時代に聴き初めたのは、ペーター=ルーカス・グラーフのフルートのもので、LPの表紙に花模様をあしらった陶器製フルートが描かれていたのがとても印象的でした。
 グラーフは、どちらかというと素朴で清楚な演奏をしており、他の楽器とのバランスがうまく保たれていました(室内楽の場合、特にこのバランスが大切なのです)。
 もっと華やかさを求めるなら、ジャン=ピエール・ランパルのフルートをお薦めします。
 また最近、バルトルド・クイケンのフラウト・トラヴェルソ(フルートの前身)の演奏も録音され、古式ゆかしく興味深いものでした。
 梅の蕾がふくらむ頃、ぜひお試しいただけたらと思います。
   (1995年3月群馬県保険医新聞掲載のものに加筆)

ノウゼンカズラ

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 皆さんにとって夏の風物詩はなんでしょう。
 花火、盆踊り、すいか、ビアガーデン、潮騒、蚊取り線香・・・
 植物ではいかがでしょう。
 フェニックス、ヤシなどの観葉植物を冷房の効いた部屋で下から眺めるなんていうのも、なかなか贅沢な「夏」ですね。
 私は、ムクゲ、ノウゼンガズラ、キョウチクトウ(夾竹桃)、サルスベリ(百日紅)、ヒマワリ(向日葵)などに夏のイメージがあります。
 診療室の前の植え込み(約5m×2m)には、ブナの木とヤマツツジ、イチイノキ、そしてオリーブを中心に、モッコウバラ、ラベンダー、ローズマリー、タイムがところ狭しと植えられています。
 さらに、ノウゼンカズラとクレマチスが背の高いブナやヤマツツジに絡まっています。イングリッシュガーデンをめざしているのですが、この季節はやや込み過ぎている感があります。
 いま、そのノウゼンカズラが咲き始めていますが、今年は例年よりやや早いようです。ルージュ・タカラズカという、一般的なものより赤みの強い種類です。
 鮮やかな葉の緑と濃い橙色の花のコントラストがいかにもトロピカルな雰囲気を醸し出しています。蜜が甘いのか、よくアリが
 冬を前に枯れたように葉を落としますが、かなり剪定を強くしても、翌年は必ず元気な新芽を出します。
 夏に楽しむ植物としてお勧めです。
 ただし、1日に数十cmも伸びることがあるのであしからず。  

バラとウサギ

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 昨年の秋、学校の飼育係をしていたうちの娘(当時小学6年生)が、何を思ったか、学校で飼っていたウサギを1匹抱いて帰ってきました。
 学校のウサギが増え過ぎたので、家で飼える人はもらってほしいということになったようです。
 まだ生後2、3か月の三毛猫のようなかわいいウサギでした。
 当初、家では飼えないからと反対したのですが、2、3日おいておくうちに情が移るといいましょうか、いなくなったら寂しいという気持ちになり、とうとう飼うことにしました。
 庭で猫に襲われてはかわいそうということで、ベランダでほとんど放し飼いの状態で飼い始めました。
 ちなみに我が家のベランダはかなり広い方で、そこで私がバラや多くの植物を育てています。
 以前どなたかに、ウサギの糞がキャベツの肥料に向いているという話を聞いたことがあり、私としてはバラの肥料にもきっとなるはずだと、その恩恵を密かに期待していました。
 翌朝ベランダを覗いてみて、あまりの予想外の状況に唖然としました。
 バラの枝という枝がことごとく切断されているではありませんか。
 あのとげだらけの枝をウサギが食いちぎるとは思ってもいませんでした。
 しかも現行犯の犯人はそれを実においしそうに咀嚼しているのです。
 ウサギの糞をバラの肥料にしようという計画は、糞の所有者に本来の目的であるバラを食われて、その糞の使用目的がなくなるという笑うに笑えない顛末となり、頓挫したかに思えました。
 ところが、ウサギに枝を食われたのが昨年の秋から冬にかけてというのがミソなのです。
 もちろん、小さい株のバラのなかには、ウサギが原因で枯れたものもありましたが、かえって新しいシュート(根元から出る新芽)が促進され、立派な花をつけたものも多かったのです。根元から食いちぎられたホップもかわいい芽を出しました。

モーツァルト その2 -ピアノ協奏曲-初めて買ったモーツァルトのレコード-

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 今回から、特に私の好きなモーツァルトの作品をご紹介したいと思います。
 おそらく、クラシックを聴く方なら皆さんご存じの曲ばかりかと思います。
 そしてもし初めての方にはぜひ聴いていただきたい曲でもあります。
 さて、モーツァルトの魅力が最も出ているジャンルはといえば、おそらくピアノ協奏曲とオペラではないでしょうか。(独断と偏見です)
 今回はそのうち、ピアノ協奏曲の中から1曲を取り上げてみたいと思います。
 やはり!と思われる方も多いことでしょう、20番ニ短調(K.466)です。
 1785年、モーツァルト29歳の絶頂期に書かれた作品です。
 私事で恐縮ですが、私にとってこの曲は特別な1曲なのです。
 学生時代にどうしてもステレオが欲しくて、バイトまでしてやっとのことで手に入れました。
 手に入れたものの、有り金全部はたいたため残金がほとんどなく、当面1枚のレコードを買うのが精一杯という有り様。
 折しも、学生生協で当時珍しいレコードのバーゲンをしていて、そこで一番手前にあったのがこの20番。ウラジミール・アシュケナージのピアノ、ハンス・シュミット・イッセルシュテット指揮ロンドン交響楽団による演奏でした。
 ステレオはもちろん、レコードも新品、針をおろす瞬間の緊張は今でも覚えています。
 初めて耳にした曲だったのですが、第一印象は、これがあの(それまではとにかく流麗で明るく、時には軽薄というイメージがありました)モーツァルトの曲なのかというショックにも似たものでした。
 第一楽章、いきなりシンコペーションで始まる陰鬱な冒頭部分、変ロ長調の第二楽章で天国的な美しいメロディーから突然フォルテで短調に転調する中間部、第三楽章の激しい上昇主題等、「優雅なモーツァルト」のイメージを一掃するに十分でした。
 偶然ですが、モーツァルトにとってもこの曲は特別な意味を持った曲なのです。
 というのは、ピアノ協奏曲において、ピアノとオーケストラの完全な一体化はこの曲から始まったからです。
 それ以前のピアノ協奏曲は、独奏者を際立たせ、優雅な社交的ムードに包まれたものが一般的でしたから、この20番の協奏曲は当時は画期的挑戦的な作品だったのです。
 息もつかせない緊張で終始する第一、第三楽章、これと好対照の第二楽章の夢のような旋律と暗雲のような中間部、まさに血気盛んな「青春のモーツァルト」を象徴する傑作です。
 「モーツァルトは退屈だ」と悪口を言う方もおりますが、もしまだでしたら、この曲を聴いていただきたいと思います。
 この曲に関する限り、その表現は不適当であることがおわかりいただけると信じています。
 あのベートーベンもこの曲を愛し、第一、第三楽章に自らカデンツァ(即興的に独奏楽器のみで演奏する部分)を作曲しており、現在もよくこのカデンツァが演奏されています。
 ちなみにこの年には、モーツァルトは計7曲のピアノ協奏曲を手がけています。
(モーツァルトは、一定の時期に一つのジャンルの作品を集中して手掛ける習慣があります)
 またこのジャンルでは、24番にもう一つ短調のものがあります。20番と比べると音楽としてはより完成度を高めているとの評価がありますので、比較して聴いてみるのもおもしろいでしょう。
 さて、私の知る範囲で名盤(CD)をご紹介します。
 古いものでは、クララ・ハスキル(P)とラムルーオーケストラのもの、フリードリヒ・グルダ(P)とウィーンフィルのもの、ウラジミール・アシュケナージ(P)とフィルハーモニアオーケストラ、そして内田光子(P)とイギリス室内オーケストラのものがすばらしかったように思います。
 いろんな演奏者のものを聴き比べるというのもなかなか興味深いものです。
(写真左:モーツァルト愛用のピアノ)
                  (1995年2月群馬県保険医新聞掲載のものに加筆)

モーツァルト その1

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 まずはモーツァルト-その魅力と特徴
 実は、群馬県保険医新聞(月刊紙)に1995年1月から1年間、『私とモーツァルト』と題し、12回の連載を書いたことがあります。
 その中から、いくつかを抜粋してご紹介します。
 今読み返すと少々?という部分もありますが、よかったらおつきあい下さい。

   『モーツァルト—その魅力と特徴』(第2回)
 今回は私なりにモーツァルトの音楽の魅力についてお話しさせていただきます。
 全くのアマチュアの見識であることをあらかじめお断りしておきます。
*「TPOを選ばない」
 いつでもどこでも、そしてどんな気分のときでも聴けるのがモーツァルトの音楽です。
 このことは、バロックからモーツァルトまでの古典派の音楽におよそ共通していることですが、モーツァルトの場合に特に際立っています。
 つまり、「思想を持たない音楽」といえるわけで、聴き手が音楽から勝手な連想をしてかまわないのです。
 一方、同じ古典派でもベートーベン以降になり、表題音楽など、いわゆる「思想を持った」音楽では作曲家の意図が明確ですから、いつでもどこでもというわけにはいかなくなります。
 
*メロディーが単純明快、かつ美しい
 ふと口ずさんだり、口笛で吹ける音楽といったらわかりやすいかもしれません。
 また、モーツァルト自身は演奏上の楽器指定において、重低音域の楽器の使用を極力少なくしていますから、この点からも意識的に軽やかな音づくりへのこだわりがうかがえます。

*長調の音楽が圧倒的に多い
 たとえば、41番まである交響曲のうち短調の曲は2曲のみ、ピアノ協奏曲では27曲中2曲、ピアノソナタでも短調は18曲中2曲のみといった具合です。
 モーツァルトの曲が軽快な印象を与えることもうなずけます。
 ところがおもしろいことに、モーツァルトの作品の中でも数少ない短調の曲のほとんどが、いわゆる名曲とか傑作の誉れが高いのです。(ちなみに、モーツァルトといえどもときには駄作もあります)

*転調(長調→短調 短調→長調)が多い
 例えば短調の曲といっても、徹頭徹尾暗い旋律の曲というのはただの一つもなく、必ず転調により、たとえば雲間から陽が差すような明るさが現れるのです。緊張から解放された安堵の表現が実に巧みなのです。この辺がモーツァルトたるゆえんでしょうか。
 たとえば「トルコ行進曲付き」の名で有名なピアノソナタ11番の第3楽章、つまりトルコ行進曲の部分ですが、楽章としてはイ短調です。しかし、この中で何度転調があるでしょうか、数えられないほどです。この曲に異国情緒がそこはかとなく漂う秘密はその辺にあるのかもしれません。
同じことは長調の曲にもいえ、明るい曲想の中に時々見せる「翳り=メランコリック」が、何ともいえない人間味を感じさせるのです。

*フィナーレが簡潔である
 他の作曲家の曲の中には、これでもかといわんばかりにフィナーレが大袈裟な曲もありますが、ことモーツァルトの曲に関してはこういったこととは無縁です。
 楽器の編成自体が小さい(数が少ない)ことから考えても迫力で印象づける曲想ではないのです。
 消え入るような、あっけないフィナーレがほとんどです。
 しかし、それがかえって余韻を残し、曲の存在感を際立たせてしまうように感じます。

 その他、音楽の流れに澱みがない等、魅力につきることはありませんが、この辺で省略し、次回から[My favorite Mozart]を、演奏家ともどもご紹介したいと思います。  1995.2