そうだったのか語源㉕   -動物にまつわる言葉 その2-

テーマの対象が思いの外広かったので、急遽2回に分けた。

今回はいわば番外編なので、整理しにくいものを雑駁ながら挙げてみよう。

その前に、何故大人になると動物から植物に関心が移る傾向が多いのか、考えてみたい。

動物は動きが比較的俊敏、あるいは確認しやすい、一方植物は反応が緩慢、あるいはわかりにくいという点では、まずはコンセンサスが得られよう。

自分のことを振り返ってみると、こちらで何か働きかけをして、即座に反応を確認、あるいはそれによる満足を得ようとするのが、子供ではないだろうか。

誤解を承知で言うならば、そういった経験を何度となく繰り返しているうちに、その後の変化に予測が働き、意外性を排除するようになるのが大人ということではなかろうか。

また、3歳にとっての1年は人生の1/3であるのに、私の例で言えば当年66歳にとっての1年は1/66である。

分母が大きい分、この分数の値、つまり変化量は小さくなる。年齢を重ねるにつれ、人間が保守的になるのは、ある意味生理的にも整合性があるのかもしれない。

逆に、歳をとっても冒険的革新的な生き方をしているのは、精神的に青年をつら抜いているとも言える。

人間保守的、あるいは保身的になったらそれはある意味死に近づいたということなのかもしれない。

閑話休題。

さて、リスは英語ではsquirrelだが、これには動詞で「ため込む、隠す」という意味がある。おそらく、リスが頬袋に木の実などをため込む様子からできた動詞だと考えられる。

ちょっと発音が似ている言葉に(やや強引か)、スキャロップ=scallop、日本語ではホタテ貝がある。

scallopはその他、波型模様、カーテンやテーブルクロスの扇型模様、そして歯科分野では歯と歯肉の境目の波型模様をも指す。ホタテ貝の貝殻の縁の形状から派生した意味だと思われる。

ホタテ貝から、話は水の中に移る。

軟体動物のタコは英語でoctopusだが、これはラテン語のocto=8とpous=足からなり、直訳は「8本足」ということになる。オクターヴやガソリンのオクタンも8が語源となっている。

「海老で鯛を釣る」とは、「わずかな手間(資本)で大きな利益を得る」意味だが、エビも高価では?と思わないだろうか。実はこの場合のエビは、伊勢エビなどではなく、餌に使う安い小エビを指す。

「鯖を読む」とは、「数をごまかす」という意味に使われる。

これは江戸時代、足が早く(=腐りやすく)大量に獲れた安価なサバを数えるのに、時間がかけられないため、適当に数えたところからできた諺である。

ついでに、「足が早い」とは。

「脚=足」は、「雨脚」「日脚」「火脚」等に使われるように、物事が時間とともに変化していく様を表す。足で移動することから時間の移動、つまり経過にも使われるようになったようである。つまり、「足が早い」とは、「新鮮な状態から腐敗するまでの時間が短い」となったのであろう。

海外に目をやると、イタリアにサルディニア(イタリア語: Sardegna)という島がある。この周辺の海では昔からイワシがよく獲れた。そのため、イワシの英語名sardine=サーディンはこの島の名に由来しているとか。

魚関連で、服地にヘリンボーン-herringboneという模様がある。V字形や長方形を縦横に連続して組合せた柄だが、これは開きにした魚の骨の形状に似ているところから、ニシン=herringの骨=boneという意味からつけられた呼び名である。

服地の話のついでに、ドスキンという生地がある。昔の軍服などに使われていた、目のつんだビロードのような光沢の厚手の織物を指す。doeskinと書くが、前回㉔で触れたdoe=雌ジカの(なめし)skin=皮のことであるが、一般的にはこの雌ジカの皮に似せて作られた厚地紡毛織物をいう。

ちなみに、moleskin=モールスキンは厚手の綿織物のことで、mole=モグラの皮のような肌触りからつけられた。個人的には、キウイフルーツの感触に似ていると思うがいかがか。

その他、動物の毛皮を使ったものではsealskinがあるが、これはオットセイやアシカの毛皮を指す。

英語のtunaは、スズキ目サバ科マグロ属のマグロやカツオを指す。ちなみに、sea chicken=シーチキンは日本のある会社の商品ブランド名であるが、マグロの食感が鶏のささみに似ていることからつけられたとされるが、まさに言い得て妙である。

話は細菌の名前に移る。

食中毒の原因菌であるサルモネラ菌=Salmonellaは、発見した細菌学者、Daniel Salmon=ダニエル・サーモンにちなんで名付けられた。

サーモンはもちろんサケ目の魚サケのことである。だから、サーモンさんは日本語では鮭さんである。

サーモンのスペルはsalmonで、-l-はサイレントで発音しない。

通常、細菌の命名には、発見者の名前に接尾語として-ellaをつけることが多い。

Salmonに-ellaをつけSalmonellaとなり、この場合は-l-はサイレントではなくなり、サルモネラと発音する。

ちなみに赤痢菌はShigellaというが、これは発見者の志賀潔のShigaに-ellaをつけた命名である。

クレブシエラ(Klebsiella pneumoniae)という肺炎の原因菌は、発見者であるドイツの細菌学者Edwin Klebs=エドウィン・クレブスの名をとった命名であるが、これも-ellaがついている。ちなみにKlebs=クレブスは、ドイツ語で悪性腫瘍を意味するが、疾病であるものの、これは発見者とは関係がないらしい。

ついでに、がんは英語でcancer というが、ドイツ語のKlebs同様、カニのことである。ギリシャ語の「カルチノウス」が語源で、これは乳がんにおいて、ちょうどカニが手足を広げたような硬いしこりを表面から触れる様を表現したものされている。

さて、カニは漢字で「蟹」と書き、甲殻類なのに「虫」がついている。

同様にヘビは漢字で蛇、カエルは蛙と書く。これらはなぜ虫編か。

実は、「虫」という字は、ヘビが鎌首をもたげた形からできた象形文字である。それゆえ、ヘビの仲間である爬虫類(ここにも虫が出てくる)の生物を表すのに、この字が使われている。つまり、うねうね、くねくねしたもの、あるいは足の多いものに爬虫類のイメージが当てられ、虫編がついている。蛙(カエル)や先に出た蛸(タコ)等もその例である。

ちなみに虹に虫編がついているのは、天を渡る龍(ヘビの仲間)のイメージからつけられたものと考えられている。

では、いわゆる昆虫の名前に使われている「虫」はというと、本来は「蟲」の字が使われていた。虫がうじゃうじゃ蠕いているイメージを表したと考えられる。それが略されて「虫」となった。

引き続き虫にまつわる話題を。

最近では、フリマと呼ばれるフリーマーケット。自由に出品できるからfree marketと思いきや、実はスペルが全く違う。正しくはflea marketである。このような誤解を生じるのは、l とrの発音を正しく区別できない日本人の残念なところである。fleaは節足動物のあのノミのことで、つまり「蚤の市」のことである。ではなぜノミなのか。

時代は遡り、フランスの第2帝政時代(1852-1870)に、パリの中心街を軍隊が行進出来るように大通りにしようと再開発が行われた。それにより、スラム街や古い商店は取り壊された。売り場を追われた商人たち(大半は中古品を売っていた)はパリの北部、 ポルト・ド・クリニャンクール(Porte de Clignancourt)で市を立てることを許可され, 1860年に初めて売店が登場した。要するに、中古品を売っていたのでノミがいるだろうということから、やがて人々はその市を marche aux puces(market of flea) 「蚤の市」と呼ぶようになったというのが名前のいわれである。

似たものついでに、バッタもんとは「正規の流通ルートで仕入れたものではないもの」あるいは偽物を指す。

この「バッタ」には多くの説があるが、説得力のあるものを幾つか紹介したい。

不況などでバタバタと倒産した商店の品物を、一括で大量に安く買う業者を「バッタ屋」といい、そこからバッタもん(物)というようになったという説、

バッタがいそうな道端で拾ってきたような物を売るからという説、場当たり(バッタ)的に入手した物を得るからという説、バッタのようにあちこちに店を移転するからという説等。それぞれさもありなんという感がする。

空を飛ぶ点では似ているセミ。意外なことにカメムシ目セミ科の昆虫。

ミンミンゼミ、ニイニイゼミとか、鳴き声から命名されているものはわかりますい。

一方アブラゼミは、羽根の感じが油紙に似ているからという説や、鳴き声が油を熱したときに撥ねる音に似ているからという説がある。

どことなく物悲しさを感じるヒグラシの鳴き声。子どもの頃、山で聞くこの鳴き声が夏休みの終わりを予感させ、一抹の寂しさを覚えた。

ヒグラシとは、日暮れ時に鳴くことから「日暮らし」と名付けられたそうである。

羽根があるついでに、嫌われ者のゴキブリについて。

明治時代までは「ゴキカブリ」と呼ばれていた。漢字では御器噛と書く。今でも関西では「ゴッカブリ」と呼ぶ地域もあるようだ。これは何にでもかぶりつくという意味で、蓋つきのお椀(=御器)をかじる虫という意味から来ている。ゴキブリの異名には「コガネムシ(=黄金虫)」というのもあり、「コガネムシは金持ちだ」という童謡の「コガネムシ」はゴキブリを指し、ゴキブリが増えることは財産家の証しという言い伝えがあったようである。

話はより上空を飛ぶ鳥に移る。

トビ職(鳶職)とは、トビのように優雅に高いところを飛び回るからついた名前ではない。彼らが持っている鳶口に由来する。鳶口とは、トビのくちばしに似た爪を先端に付けた長い棒のことで、木を引き寄せたり消火作業等に使われていた。

「獲物になる」「食い物にされる」ことを、「カモになる」「カモにする」という例えはどこからきたのか。

カモの代表格であるマガモは、形も大きく味も良く、さらに数も多かったためとても捕まえやすく、料理にはもってこいの材料だったことからこの表現が生まれたようである。

また、鴨肉は多少の癖があるため、甘みのある冬ネギと合わせると相性が良かったことから、良い話にさらに好条件がつくことを「カモがネギ背負ってくる」と言うようになったとか。

さて、鳥にやや似ているコウモリについて。

「あいつはコウモリだから」といった比喩に使われることがある。

これは、イソップ童話の「卑怯なコウモリ」からの引用である。獣一族と鳥一族の戦争で、前者が優勢のときは「私は全身に毛が生えているから獣の仲間です」と言い、後者が優勢似なると「私には羽があるから鳥の仲間です」と言って、最後に双方から卑怯者扱いされたという話から、態度のはっきりしない卑怯者を指す比喩となった。

ちなみにウィルスの自然宿主によくコウモリが挙げられるが、行動範囲が広いこと、冬に冬眠しウィルスを温存させやすいこと、温度変化の少ない不潔な環境に暮らすこと等が原因とされている。

それにしても、COVID-19の1日も早い収束を願うばかりである。

最後になぜか羊羹について(実は何を隠そう私の好物である)。

「羊羹」の「羹」は訓読みで「あつもの」と読み、とろみのある汁物を指す。中国では「羊羹」という言葉は羊の肉やゼラチンを使ったスープを示す。

日本には、鎌倉から室町時代に中国に留学した禅僧によって点心(食事と食事の間に食べる間食)の一つとしてもたらされた。しかし、禅僧は肉食が禁じられていたため、小豆や小麦粉、葛粉などの植物性の材料を使い、羊肉に見立てた料理がつくられたそうである。

立花隆著「思考の技術」から

コロナ禍で家での生活が増えた分、たくさん本を読むことができました。

その中で、立花隆著「思考の技術」を一部ご紹介し、私なりの感想を書き添えたいと思います。

ちなみにこの著書の原著は1971年に出版されたものですが、その後再編集して今年新たに出版されたものです。内容のほとんどは半世紀前のままですが、現在なお光り輝いています。

新型コロナウィルスとの共存が強いられる中、ご自身の生活や生き方の参考になればと思います。

「寄生者」が暴れた時、人は「病気」になる

自然界から寄生という現象を排除して考えることはできない。あらゆる生物が寄生者を持つと考えてさしつかえないほどである。寄生者を持たない生物をさがすには、バクテリアのレベルまで下らなくてはならない。

たとえば一羽の鳥をとりあげてみる。そこには幾種類かのダニ、シラミ、ノミ、ヒル、条虫、尖頭蠕虫せんとうぜんちゅう、回虫、吸虫、眠り病虫、舌形類、らせん菌、鞭毛虫、アメーバといった寄生者がたかっているのが普通である。その種類の多さについては、56種類の鳥の巣を調べたところ、ダニなどの節足動物だけで529種類もいたという報告がある。また数の多さについては、1羽のダイシャクシギから、1000匹以上のハジラミが見つかったという報告がある。

人間については、文明国ではノミもシラミも退治され、回虫などの寄生虫もほとんどなくなっているから、寄生者は求めるのがむずかしいだろうと考える人がいたら誤りである。人間の体内にも、いたるところ寄生生物がいる。消化器官、分泌腺、肺、筋肉、神経などにウヨウヨいる。寄生者とは、必ずしも回虫、ジストマなどの大型生物だけをさすのではない。大腸菌のような菌類も含むのである。

人間はふだんはこうした寄生者のことを気にもとめていない。ときどき寄生者が、ただ寄生していることに甘んぜず、人体の組織や器官の働きを壊しにかかることがある。このとき人間は病気となり、その寄生者は病原体と名づけられる。そして、人間は病原体を追い出すためにやっきとなる。

(感想)

寄生虫というと狭い意味での寄生生物を指しますが、ウィルスやバクテリア等、広い意味での寄生生物はいたるところに棲息しています。そして通常は、それらが絶妙なバランスを保っているため、ことなきを得ています。ところが、抗生物質で病気の原因菌を退治しようとすると、その菌のみならず他の菌も死滅することがあります(大抵そうなります)。すると、その抗生物質の影響を受けなかった菌が空いたスペースに異常繁殖し、新たな病気を引き起こす場合があります。菌交代現象、あるいは日和見感染と言います。

 

疫病が終焉しないのは、都市があるから

病気は寄生者のおごりによる失敗である。巧みな寄生者は、宿主を殺さない程度に甘い汁を吸いつづける。宿主を殺してしまっては、自分も死なざるをえないからである。

病原体微生物は、たびたび猛威をふるって疫病を流行させたことがある。しかし、いかなる疫病もそう長続きするものではない。宿主の死につき合っていれば自分も死ぬ。宿主が死なないうちに、別の宿主のところに移動しようと思っても、周囲の人間がバタバタ倒れて生息密度が低くなっているので、それもできない。ということで、疫病は終焉するのである。病原体微生物による病気は古代からあった。しかし、それが流行病となったのは、人間が都市をつくり、人口密度を増加させ、寄生者が宿主の間を移動しやすい環境をととのえてやったからである。

家畜や農作物の間には、豚コレラ、ニューカレドニア病、イモチ病といった流行病がやたらと発生するが、自然林や自然草原の動植物の間には別に流行病が発生しないのも同じ理由による。家畜や農作物のために人間が作ってやった単一の環境は、病原体微生物にとっても、心地よい環境なのである。

寄生という現象を広義に解釈してみる。すると、人間の自然界における位置も寄生者にすぎないことがわかる。

人間という寄生者は、自然という宿主に寄生しているのであるから、自然を殺さない程度に利用すべきなのである。病原体微生物のように、宿主の生命を破壊するという愚を犯してはならない。宿主を変えようにも変えることができないからである。すでに地球自然は病みつつある。このへんで、毒素の排出を人間がやめないと、元も子もなくなりそうである。

(感想)

現在、新型コロナウィルス感染収束に見通しの立たない状況が続いていますが、このウィルスもいずれは弱毒化したものだけが残り、宿主である人間の命を奪わない程度に静かに共存するようになるでしょう。ただ、ここで述べているように、密集しすぎた環境は疫病の感染が広まりやすいので、注意が必要です。また、人間も地球(地球を生物ととらえて)にとっての寄生生物である以上、宿主を死滅させるような愚は侵してはいけないし、それが結果的に人間という種を守ることでもあるのです。

 

進歩の方向と速度を考え直せ

生態学の観察する自然界での速度は正常な変化であるかぎり緩慢である。生物は、あるスピード以上の変化には、メタボリズム機能の限界によってついていけなくなるからである。

進歩という概念を考え直すに当たって、生態学の遷移という概念が参考になるに違いない。遷移のベクトルを考えてみる。その方向は系がより安定である方向に、そしてエネルギー収支と物質収支のバランスの成立の方向に向けられている。その速度は目に見えないほどのろい。なぜなら、系の変化に当たって、それを構成する一つ一つのサブシステムが恒常状態(ホメオスタシス)を維持しながら変化していくからである。自然界には、生物個体にも、生物群集にも、そして生態系全体にも、目に見えないホメオスタシス維持機構が働いている。

文明にいちばん欠けているのはこれである。それは進歩という概念を、盲目的に信仰してきたがゆえに生まれた欠陥である。進歩は即自的な善ではない。それはあくまでも一つのベクトルであり、方向と速度が正しいときにのみ善となりうる。

いま、われわれがなにをさしおいてもなさねばならぬことは、このベクトルの正しい方向と速度を構想し、それに合わせて文明を再構築することである。

(感想)

生物は本来、恒常性の維持(ホメオスタシス)といって、自身が対応できるある範囲内の変化はありつつ、その範囲を超えた場合、異常と感じます。ゆっくり時間をかけての緩やかな変化はホメオスタシスで対応できますが、急激な変化は異常と感じ、正常に戻そうとします。人類の文明の速度は、ホメオスタシスの範囲を超えているということでしょう。その変化の速度は生態学的に正常なのか、また変化する方向は間違っていないのか、自然と対話しながら自然への致命的なダメージを与えない方向を探っていかなくてはならないのでしょう。

-立花隆『新装版 思考の技術』(中公新書ラクレ)からの引用と感想-

 

金木犀

かつては運動会のシーズン、といえば風物詩として金木犀の香りが挙げられました。最近の小学生は、金木犀の香りからトイレを連想するそうです。芳香剤メーカーの勝利なのでしょうか。

以前にもお話ししましたが、拙宅の敷地内には金木犀、隣家には銀木犀の大木があります。個人的には、銀木犀の高貴な色と香りが好きですが、双方同時に開花するため、どうしても三大香木の一つである金木犀の香りに負けてしまいます。

今年はコロナ禍で、運動会の開催もままならないんでしょうね。

この状況は、育ち盛りの子供たちに、少なからぬ影響を与えると思います。

でも人類は、それをプラスに変える英知を持っているはずです。

そうやって、生き抜いていきましょう。

 

小さい秋

かつては、「小さい秋」というと、晩夏ふとした風の涼しさに秋の気配を感じたものでした。

最近では9月は秋というより晩夏です。前半は、最高気温30℃以上の日が続きます。

今後地球はどうなってしまうのでしょうか。私は余生概ね20年から30年でしょうが、次の世代、そしてその次の世代に対して、どう「正」の遺産を残せるのでしょうか。考えると申し訳なく、そして空恐ろしくなります。

地球のキャパシティに対して、人間の影響力があまりにも大きくなってしまったのでしょうか。世代交代に際し、人間の理性や人格が積算されないのに、科学技術は蓄積し、飛躍的に高まっています。核というとんでもない技術を手にしても、その、人類にとっての有効利用を知らないのが現状です。

「猫に小判」「豚に真珠」ならまだよかったかもしれません。

猫が核兵器の発射ボタンを、豚がスカッドミサイルの発射ボタンを持ってしまったのです。

世代をまたいで理性が蓄積できたらと思うと、なんだか虚しくなります。

そんな、人間社会の行方とは関係なく「暑さ寒さも彼岸まで」、とにかく暑い夏が終わろうとしています。

アキアカネは、来年もまた同じ姿で我が家の庭に来てくれるのでしょうか。

そうだったのか語源㉔   -動物にまつわる言葉 その1-

今回は、昆虫も含め動物をターゲットとしてみたい。

そもそも植物に対する動物とは、と言う前に、まずは両者の共通点を確認しておきたい。

単刀直入に言うと、糖を燃焼させることにより代謝に必要なエネルギーを得ること、である。

違いは、植物はこのエネルギー源である糖を自らの代謝システムで作り出すことができるのに対し、一方の動物は、他の生物(植物、生物)を摂取し同化(吸収し、栄養とする)することで、そこから得た糖をエネルギーとする。

まずは、人間にとって馴染みのある動物の代表、イヌから始めたい。

「犬」という漢字は、耳を立てたイヌを横から見た姿を表したれっきとした象形文字である。似ているものの「大」とは全く関係がない。

犬死という言葉がある。

イヌは古来より、「家臣、家来」に意味を持っていた。

家臣は忠義のため、時として主君のために死ななくてはならなかった。

一方主君、あるいはひとかどの武士は、そう簡単には死ねない。

「ひとかどの武士は、そんな家来のような死に方はできない」という意味から、「家来のような死に方」を犬死と言うようになったそうである。たぶんにヒエラルキーの匂いがする。

このように、「イヌ」には(主君から)一段下に見た意味で使うことがある。

イヌツゲ、イヌタデ、イヌマキ、イヌビワ等、本来の植物から見て役に立たない、あるいは劣っているという意味で用いられるようである。一説には、「否(いな)」から「イヌ」に転化したとも。

次に、同様に馴染みのあるウマにまつわる言葉について。

「馬耳東風」にある馬とはいかに。

前者は、中国唐の詩人李白の「世人之を聞けば皆頭を掉(ふ)り、東風の馬耳を射るが如き有り」という詩に由来している。東風とは春風のことで、人は春風が吹けば寒い冬が去って暖かくなると思って喜ぶが、 馬は耳をなでる春風に何も感じないという意味である。ウマが本当に春風を感じないかは定かではない。

同様の意味で「馬の耳に念仏」という諺があるが、ありがたい念仏を馬に聞かせても理解できないから無意味ということだろうが、それならウマでなくてもネコやブタでも良さそうなものである。と思いきや、似たようなものに「猫に小判」「豚に真珠」というのがあった。組み合わせは、「馬に小判」でもまんざら見当違いとは言えまい。

タヌキ、キツネは、昔話や童話にもよく登場する。

これらの動物を比較対象とした時、どんなイメージが浮かぶだろうか。

双方ともイヌ科の動物だが、タヌキはお人好しで少し間がぬけている、一方のキツネは小利口で意地悪なイメージだろうか。顔の形と体つき、そして身のこなし方から来るのかもしれない(タヌキはたれ目ではないが、目の周りの模様でそう見えるだけ)。

タヌキは漢字で獣偏に里と書くが、雑食性でまさに里山といった、人間のテリトリーに近いところに棲息する。一方のキツネの語源は諸説あり、その一つは、「きつ」は鳴き声から、「ね」は接尾語的に添えられたものとされる。また、「き」は「臭」、「つ」は助詞、「ね」は「ゑぬ(犬)」が転じたもので、臭い犬の意とする説、「きつね(黄猫)」の意とする説、体が黄色いことから「きつね(黄恒)」とする説など、諸説ある。

日本の神話ではキツネは神聖なもの、イソップではキツネは狡猾なもの、といった固定概念はあるようだ。

神道では、「神使はしめ」と言ってキツネを稲荷神の使いの動物としている。このへんから、キツネは昔から特殊な能力を持っている動物として扱われている。「狐憑き」などは、このあたりと関係ありそうである。

さて、馬鹿とは「梵語のmoha =慕何(痴)、またはmahallaka =摩訶羅(無智)の転で、僧侶が隠語として用いたことによるという」と説明されている。

ただ、なぜmoha =慕何、mahallaka =摩訶羅が、バカになるのかという疑問は存在する。他にも、漢字で「破家」と書き、これは家財を破るの意で、家財を破るほどの愚かなことの意からという説である。また、中国の史書『史記』には、秦(しん)の始皇帝の死後に丞相(じょうしょう)となった宦官(かんがん)の趙高(ちょうこう)が、おのれの権勢を試すために、二世皇帝に鹿を献じて馬だと言い張り、群臣の反応を見たという話によるという説もある。

さて、やや堅苦しい故事で、「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」というのがある。「えんじゃく いずくんぞ こうこくの こころざしを しらんや」と読む。

中国前漢時代(紀元前206年~8年)の歴史家・司馬 遷(しばりょう)が編集した歴史書で、正史「二十四史」の「史記(しき)」に残っている。

「燕雀」とはツバメとスズメで庶民を指し、「鴻鵠」とはコウノトリとハクチョウのことで大鳥を象徴でしている。要するに、ある地位にいる者の気持ちや志は、庶民には理解できまいといった、これも多分にヒエラルキーの匂いのする諺である。

ある政権が任期の終焉を迎え、実績が伴わなくなると、レームダック=lame duckという表現が使われる。直訳すると「足の不自由なアヒル」であるが、役立たずの政治家や、死に体を表す。もともとは、ロンドンの株式市場で大損した人を指したらしいが、足が悪く群れについて行けず、外敵の餌となる運命のアヒルを例えたもので、「先が見えている」というニュアンスが感じられる。

身代わりになることをスケープコート=scapegoatという。

scapegoatは “the goat allowed to escape”、直訳すると「追放されたヤギ」となるが、贖罪(しょくざい)のヤギを指す。古代ユダヤでは贖罪の日にヤギに人々の罪を負わせ, 野に放ったことからできた言葉である。

似ている言葉にsacrifice=生贄(いけにえ)という言葉があるが、厳密には身代わりとは異なり、「捧げる、神聖なものとして拝する、不死にする」という意味のラテン語“sacrare”に由来している。

チキン=chickenは鶏で、特に若鶏やヒヨコを指すが、形がそれと分かれば鶏肉も指す。

ちなみに英語では、動物のオスとメスで、呼び名が異なる場合がある。

雄鶏はcock(あるいはrooster)で雌鶏はhen、クジャクもオスはpeacockでメスはpeahen、ライオンもメスライオンはlioness、牛のオスはox(あるいはbull)、メスはcowとなる。

また、有名なミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」の「ドレミの歌」の一節「Doe, a deer, a female deer」でも、雄ジカはdeer(あるいはシカの総称)で雌ジカはdoeとなっている。これが「ドレミ」の「ド」である。

bullが出たついでに、金融業界で使われる言葉に、ブル(bull)とベア(bear)というのがある。ブルは雄牛の意で、角を下から上に突き上げることから上昇相場を表し、一方のベアはクマで、爪を上から下に振り下ろすことから下落相場を表す。ちなみに、春闘で聞くベアとは「ベースアップ」の日本語独自の略語である。

日本語のワニに相当する英語には、クロコダイル= crocodileとアリゲーター=alligator、そしてガビアル(ガビエル)=gavial=がある。

クロコダイルが大型のワニ、アリゲーターはそれより小型のワニ、ガビアルは口の細長いワニを指す。さらにクロコダイルとアリゲーターの違いを言えば、鼻先がV字に尖っている、牙が顎から飛び出している、体を持ち上げて歩くのがクロコダイル、鼻先が丸みを帯びている、牙が顎の中に収まっている、そして体を引きずって歩くのがアリゲーターとなっている。だが、ワニと遭遇しパニックになっているとき、パッと見ただけでどのワニかすぐに区別できるかは疑問である。「ワニ図らんや」である。

同じく川に生息する動物にカバがいる。

カバは英語で hippopotamus だが、お恥ずかしい話、これまでずっとhypopotamusだと思い込んでいた。己の過ちを他に転嫁してはならないが、これは学生時代、解剖学で視床下部をhypothalamusと学んだことによる弊害である。hypo-は下の意、thalamusは視床を指す。potamosはギリシャ語で川の意で、川の下(中)に棲んでいるからと、勘違いしていた。実はhipposは馬で「川に棲む馬」という意味のようである。日本語でも漢字で「河馬」と書く。ちなみに、英語ではカバのことを通称hippoと呼ぶ。

ちなみに、脳に記憶に関わる「海馬」(イタリア語:hippocampus)という部分がある、hippoはウマ、campusは海の怪物を指し、つまり前がウマで後ろが魚の怪物のことで、この後半の形が似ているところから名付けられたようである。別に、海馬はタツノオトシゴ、またトド等アシカ科の動物の総称を指す場合もある。

怪物との関係は微妙であるが、dinosaur=恐竜について。

ギリシャ語の”deinos” (巨大な)と “sauros”(トカゲ、あるいは爬虫類)からの造語である。

日本語では、「とんでもなく(恐ろしく)偉大なは虫類」と命名した。 その「恐ろしく」という副詞が、「恐ろしい」という形容詞にすり替えられて、「恐竜」という言葉が生まれた。

ここの名前では、「–ザウルス」という接尾語がつく場合は、dinosaurの形容詞がついた名前と考えれば良い。

一方で、「—ドン」という接尾語の場合は、ギリシャ語のodont=歯に由来し、歯に関係しているものが多い。

イグアノドンは、「イグアナの歯」という意味で、その歯の形がイグアナのそれに似ているために命名されたという。

ちなみに翼竜のプテラノドン=ラテン pteranodonも名前にodon-が入るが、この場合は少し意味が異なる。ギリシャ語のpteron=翼と否定辞のan-、「歯」のodont-とから成っているため、プテラノドンは「翼はあるが歯はない恐竜」という意味である。ちなみに解剖学では、頭蓋骨の蝶形骨翼状突起はラテン語でProcessus Pterygoideusで、pteronと同源である。

その他、トリケラトプスなど、「—オプス」とつくものも多く存在している。こちらは、ōps =顔を意味しており、顔に特徴があるのが共通点だといえる。

トリケラトプスは、ギリシャ語のtri-=3、kéras=ケラス、ōps=オプスという3つの語から成り、「3つの角の顔」という意味である。

角質のことを「ケラチン」というのは、ケラスと同源である。

恐竜と繋がりがあるとすれば大きいところだろうか、工事現場の重機の名で、あまりに日常に溶け込みすぎて、語源が意外なものがある。

まずクレーン。英語ではcraneと書き、元々は鳥のツルのことである。確かに腕の部分がツルの首、資材をつかむ部分がツルのくちばし、長い腕がツルの首に似ている。

そしてキャタピラ。ブルドーザーなどのタイヤにあたる部分だが、日本語では無限軌道という。その意味ではタイヤも無限軌道の一つと言えなくもないが、ここで拘泥するのはやめよう。英語でcaterpillarと書き、元は毛虫、イモムシのことである。イモムシの無数の足が動くのに似ているので合点がいく。

指で長さを測るとき、親指と人差し指をコンパスのようにして広げては閉じてを繰り返す。ちなみに私の場合は17cmである。これとよく似た動きをする虫を、日本語では尺取り虫という。英語でもinchwormという。ウォームギアのwormもイモムシやミミズのことで、確かに動きは似ている。

さて、蝶は英語でバタフライ=butterflyというが、このバターとは何を意味するのか。

諸説あるが、魔女が蝶の姿になってバターやミルクを盗むという一説、また蝶の排泄物の色がバターに似ているからという説もある。

前者にはロマンを感じ、後者には現実的な観察眼を感じる。

欧米人は、とにかく百獣の王ライオンが好きらしい。

先にも触れたが、英語圏ではオスとメスで呼び方が異なり、ライオン一般とオスライオンはlion、めすはlionessである。

Leo-はネコ科の動物を指すらしい。ヒョウはleopardだが、ダ・ビンチも含め、とにかく欧米ではLeonard Leopold Leonid等、Leo-という、ライオンにちなんだ名前がとにかく多い。強さや権威の象徴といえよう。

ライオンと並んで、欧米でよく使われる名前に、ハトがある。

日本でも鳩山、鳩といった名字があるにはあるが、さほど多くはない。

が、日本のことを大和と称するように、コロンビアという名は、アメリカの別称・雅称として多用されている。これは、アメリカ大陸の発見者、クリストファー・コロンブスに由来する。語源のColomboは、イタリア語で「ハト」を意味する単語である。

その他、「コロンビア」は国名やアメリカのコロンビア特別区にも、また、スリランカの首都、そしてドラマの「刑事コロンボ」にも派生語は使われている。平和のシンボルとして名付けられたのではないだろうか。

ただ、スリランカのコロンボの場合、名称の由来はシンハラ語で「マンゴーの樹の茂る海岸」を意味する「Kola-amba-thota」がポルトガル語でのクリストファー・コロンブスの名であるコロンボに置換えられたものだという。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ポビドンヨード液(イソジン)によるうがいに注意

テレビで、「新型コロナウィルス感染予防にポビドンヨード液(イソジン)によるうがいが有効」とのコメントを目にしました。

確かに、ポビドンヨードは細菌やウイルスに対する強い殺菌効果があります。

ところが、その強力な殺菌性ゆえに、のどや口の中にもともといる『正常な細菌』をも殺菌してしまいます。すると、口腔細菌叢(細菌同士の棲み分け)のバランスを壊してしまい、新たに侵入した細菌やウィルスによる感染症を引き起こす恐れが生じます。

また、ポビドンヨードの刺激性により粘膜なども痛めてしまい、これも新たな感染の場を作るリスクになります。

さらに、一般的にポビドンヨードのうがい薬の安全性は高いと言われていますが、長期使用に関しては甲状腺機能に影響を与える可能性が指摘されています。

新型コロナウィルス感染予防を目的とした、安易なポビドンヨード液の使用は危険です。

ご心配な方は、院長にご相談ください。

 

新型コロナウィルスと口腔細菌の密な関係  重症化を防ぐキーワードは口腔衛生にあり             

今回は、いま感染拡大を続けている新型コロナウィルスに対して、正しい予防の仕方の参考になればとの思いから、花田 信弘氏(鶴見大学歯学部探索歯学講座 教授)へのインタビュー記事より要約、編集したものをご紹介します。

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ウィルスによる肺炎には、大きく分けて3つの種類があります。

1つはウィルス単独による肺炎、2つ目はウィルスと細菌の混合性肺炎、3つ目は一旦ウィルス性肺炎が治まった後、二次的に細菌性肺炎が起きるパターン。

インフルエンザの場合は2番目が多いのですが、新型コロナウィルスでは3番目のパターンが多いというデータが出ています。

細菌性肺炎の場合、その細菌はどこから肺に入り込むのでしょうか。

人間の体内には、2大細菌叢(細菌が塊を作って多く生息している状態)があり、それは腸内と口腔内です。腸内細菌が肺に行くというのは、解剖学的に考えにくい面があります。その点、口腔細菌の場合は、歯周病や(進行した)う蝕(=むし歯)があると、心臓を経由して肺に行ってしまうのです。

普通であれば、肺には細菌に対する防御機構がありますから、口腔細菌が来ても入り込むことはできません。しかし、新型コロナウィルスによって肺の上皮細胞が傷つけられた状態になると、そこに定着してしまう可能性が高くなります。

インフルエンザウィルスの場合は、侵入するところが上気道(気管より上の部分)のほうなのですが、新型コロナウィルスの場合、受容体(入り込む場所)であるACE2が肺胞にたくさんあるため、上気道を通過していきなり肺に行ってしまう可能性が高いのです。プロ野球選手やJリーガーが多く感染していますが、アスリートはスポーツなどで深い呼吸をすると思いますから危険性が高いのではないでしょうか。

2003年に流行したSARS1はかなりの強毒性のウィルスで、ほとんど細菌が関与する余地がなかったのですが、ご存知の通り今回のSARS2(新型コロナウィルス)は無症状の不顕性感染者が多く報告されていますので、ウィルス単独としてはそれほど強毒性ではないように思います。

そういう意味で、重症化の他のファクターとして口腔細菌の要素がかなりあるだろうと。

(口腔)細菌が肺に行くプロセスは2系統ありまして、一つは歯周病に代表されるように毛細血管から血流に入ってしまうルート。そうすると必ず肺の間質(血管や神経などのあるところ)まで行きますので、いわゆる間質性肺炎のリスクが高まります。もう一つは唾液中の細菌が誤嚥されることによって肺胞に入り肺胞性肺炎につながるのです。これがいわゆる誤嚥性肺炎です。

先ほど申し上げた通り、普通であれば肺の免疫機構で抑えられるはずですが、新型コロナウィルスによって上皮細胞が破壊されておりますので、容易に肺炎に繋がるわけです。

この二つの系統の肺炎を抑えるためには、それぞれに合った口腔衛生をしなければなりません。

間質性肺炎のリスクを下げるためには、歯周病やう蝕を予防するように歯みがきをしなければなりませんし、誤嚥性肺炎のリスクを下げるためには舌みがきが重要になってきます。

逆に言えば、二次的な肺炎で重症化さえしなければ、新型コロナウィルスはそれほど怖いウィルスではないということです。どうやって重症化を防ぐかが重要になるわけです。

今まで私どもは、歯周炎(=歯周病)が慢性炎症につながり、ひいては動脈硬化につながっていくという生活習慣病対策として歯周病予防の重要性を謳ってきました。

生活習慣病予防のためのキーワードは、菌血症とエンドトキシン(細菌がもつ毒素)血症で、おそらくこの二つが中心的な役割を担って生活習慣病を発生させているのです。そして、この菌血症とエンドトキシン血症は細菌性肺炎のリスクにもなっています。

実際のところ、重症化するかどうかの肝はサイトカインストームが発生するかどうかです。その引き金を引いているのは、歯周病菌のLPS、つまりエンドトキシンなわけですから、それであればエンドトキシンを口腔内から肺に入れなければいいというのが、予防歯科の立場なのです。

我々歯科医師がやるべきことは、先ほどお話しした細菌のコントロール(=増やさないこと)、もう一つが咀嚼系の維持、栄養のコントロール(=確保)です。

新型コロナウィルスの重症化患者を調べた論文でも、栄養失調の患者が非常に多いと言います。噛めていない人は栄養失調の可能性が高いことは明らかです。柔らかいものしか食べられない人は、ほとんど炭水化物でカロリーを摂って終わりになりますので、タンパク質だとか脂質だとかビタミン、ミネラルが不足しています。

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特に「withコロナ時代」では、予防歯科が重要だと思います。

まずは患者さんにしっかりとホームケアをしていただくこと。

プロケアに関しても、しっかり感染対策を講じていれば、過分な心配はいらないと思います。

ホームケア、プロケア両方で、口腔細菌を制御すれば、新型コロナウィルス感染症の重症化だけでなく、インフルエンザウィルスによる肺炎や誤嚥性肺炎のリスクを下げ、ひいてはほぼ全ての生活習慣病の予防にも繋がるのではないでしょうか。

(Dentalism July 2020 No.40掲載の記事の要約、編集)

 

ユニクロに感謝

ユニクロから、医療用マスクが4箱送られてきました。

マスクが不足していた頃、ユニクロから医療機関向けにマスク配布の募集がありました。

直接コロナの感染に携わっている医療機関ではないので、期待はしていませんでした。

思いがけず今週届き、感動しました。

さすが、社会への貢献まで考えているんですね。

会社のほうへ、感謝のメールを差し上げました。

大切に使わせていただきます。

 

そうだったのか語源㉓   -植物にまつわる言葉-

 今回は、植物にまつわる名前に触れてみたい。ガーデニングが趣味の私ゆえ、少々話が長くなりそうな気がする。いや、少々では済まない気がする。ご容赦を。

まず、ここ前橋にゆかりのある植物から、桑(クワ)について。

前橋近郊は古くから養蚕が盛んで、上毛カルタでも「県都前橋糸の町」と謳われているように、前橋は絹糸の集積地だった。

かつては、カイコの餌となる桑はいたるところで栽培されていて、小学校の児童が学校からの帰りしな、桑の実であるドドメ(英語ではマルベリー)を摘んで口の周りをそれこそドドメ色にしていたものだった。ドドメというと今では桑の実を指す名前となっているが、実は桑という植物自体を指す名前だったようである。

桑は地中深く根を張り土をしっかり掴むため、川の土手に決壊防止のために植えられたそうで、土手桑と呼ばれていた(桑の種類かもしれない)。つまり、土留め、ドドメとなったようである。

「葦」「芦」「葭」「蘆」の漢字が当てられているヨシ。屋根を葺く材料にも使われる。実はアシとも読む。パスカルが「人間は考える葦である」と言ったアシである。「アシ」が「悪し」に通ずるのを忌み嫌って「ヨシ」と言うようになったそうな。

さて次に、他のものから連想してつけられた植物の名前を幾つか挙げてみたい。

まずはスミレ。

花は独特の形で、ラッパのような形の花を横向きかやや斜め下向きにつける。5枚の花びらは大きさが同じではなく、下側の1枚が大きいので花の形は左右対称になる。つまり、多くの花のような回転対称ではない。この花の形が大工さんが使う墨入れ(墨壺)を思わせることから、墨入れ→スミレとなったいう説を牧野富太郎が唱え、広く一般に流布している。定説とは言えないようであるが、しかしよく似ている。

次にハス。古名ではハチス。

これは、ハスの花托(花柄の上端にあって,花弁めしべなどをつける部分)が蜂の巣の形に似ていることからとされている。ハスはその転訛。ジョウロの先の部分もこれに似ているので、ハス口という。

ハスに触れたついでに、レンゲについて。

レンゲとは一般的に草原に咲くレンゲ草のことを指す。

このレンゲは、蓮華あるいは蓮花と書き、つまり小さいながら花の形がハスのそれに似ているところから来ている。ちなみに、童謡の「ひらいたひらいた」に出てくる「レンゲの花」とはレンゲ草ではなくハスの花のことで、早朝に花を開き、昼には閉じてしまうハスの生態を歌っている。

余談ながら、レンゲ草は最近あまり見かけなくなったが、代わって草原でよく見かけるシロツメクサ、いわゆるクローバー。レンゲ草と同じくマメ科の植物で、白いが花の形はレンゲ草によく似ている。原産地はヨーロッパで、江戸時代にオランダから輸入したギヤマン(ガラス器)の箱に乾燥したこの草をクッション材として入れてあったため、この名が付けられたそうである。つまり、漢字では白詰草である。

他に形が似ているところから命名された植物としては、カエデ、ナツメ(棗)、ビワ、ギボウシ等がある。

カエデはカエルの手に似ていることから「カエルデ」と呼ばれ、それが転訛したものとされている。

ビワ(枇杷)は、意外にもサクラやウメと同じバラ科の植物である。ただし、これらと異なるのは常緑樹であること。

植物のビワは、実は楽器のビワの形に似ていることから付けられた名前だそうである。

楽器の琵琶(びわ)はヨーロッパの楽器リュートと起源が同じく、形もよく似ている。

2世紀頃に書かれた中国の字書「釈名(しゃくみょう)」に以下のように記載されている。ちなみに釈名は語源の字書である。

「枇杷はもと胡(こ)(中央アジア)の地に出(い)づ。前に押してひくのを枇(び)といい、手前にひくのを杷(は)という」

ピインとはね、パアンとかきならすのでピパ。これがピハ→ビワと変化したといわれている。

琵琶の胴(どう)が木でつくられるので木偏をつけて「枇杷」と書き、のちに琴の一種というので「琴(こと)」の字の上をそろえて「琵琶」と書くようになったという。

植物のビワが楽器の琵琶から独立して「枇杷」と表記されるようになったのは、5~6世紀頃ではないかと言われている。まさに枇杷が栽培されだした頃と同じ時期である。湖の琵琶湖も琵琶に似た形に由来している。

ジキタリスは、「そうだったのか!語源⑩ −常用の外来語 その2− アナログとデジタル」で触れているが、花の形がdigit=指の形に似ていることに由来している。詳しくは、語源⑩を参照されたい。

蕾の形が、橋の柱の頭部についている宝珠形のギボシという装飾に似ていることから名付けられたギボウシ。欧米に輸出され、ホスタの名前で園芸植物といて重宝されている。他に、葱帽子(ネギボウシ)から転訛したという説も。

ナツメは、夏に入って芽が出ることに由来するそう。ちなみにナツメヤシは果実の形が似ていることから。

茶道具の棗(なつめ)は抹茶を入れる容器だが、その形がナツメの実に似ていることから、名付けられたと言われている。

私は、「あの子はだあれ、だれでしょね、なんなんナツメの花の下—」の歌に妙に興味を惹かれ、庭にナツメの木を植えている。サクランボのような実は愛らしいが、それに似合わぬ鋭いトゲに閉口する。

さて、誰でもご存知、タンポポの名前の由来には諸説ある。

一つは、種の冠毛(かんもう)が丸く集まっている様子が、綿を丸めて布などで包んだ「たんぽ」に似ていることから、「たんぽ穂」となり、それが転訛したという説。

他に、田んぼのあぜ道などによく生えていることから、昔は「田菜」と呼ばれていて、その「たな」が「たん」に変化し、それが綿毛がほほけることから「ほほ」と結びついてたんぽぽになったという説もある。

さらに、たんぽぽの茎の両端を細かく裂くと、反り返って鼓のような形になることから、別名「鼓草(つつみぐさ)」と呼ばれていたり、鼓をたたいたときの「タンタン、ポンポン」という音がたんぽぽの名前の由来になったという説も。

やや似ているところでペンペングサは、春の七草の一つであるナズナの別名である。

まずナズナだが、名前の由来は諸説ある。

早春に開花して夏になると枯れることから「夏無き菜」、つまり夏無(なつな)から変化したという説、撫でたいほど小さく可愛い花(菜)の意味の「撫で菜(なでな)」から転訛したという説、あるいは朝鮮古語のナジから「ナジ菜」となり変化したなどの説がある。

ペンペングサはシャミセングサの別名の通り、花の下にたくさんついている実の形が三角形で、三味線のバチの形をしているところから名付けられた。

カタバミは既出のシロツメクサ、つまりクローバーによく似ているが、カタバミ科の植物で別物である。葉は、ハートが3枚先でくっついた整った形をしている。

ところが、私のようにガーデニングが趣味の人間にとっては、繁殖力が強く、また深くまで根の張る厄介者でもある。

変わった名前だが、夜になると葉が折れたように閉じられる生態から、葉が半分食べられてように見えるため「片喰み」が転じて名がついたそうである。

さて、カタバミは日本の5大家紋の一つに引用されている。武家の間ではその強い繁殖力が、子孫繁栄、家の永続の象徴とされたようである。

飲み物の「チャ」は、茶と漢字で書かないと変である。実は、ツバキ科の常緑樹チャノキの葉を加工した飲み物を茶という。

さて、茶色は英語ではbrownだが、茶の葉は緑greenである。これは、茶葉を染料として布を染めるといわゆる茶色になるため、「茶で染めた布の色」を茶色と呼ぶようになったと考えられている。

17世紀、オランダの東インド会社は中国からお茶を輸入したが、その拠点だった福建省の方言でお茶を「テー」と呼んでいたのがteaの語源とか。その後、イギリス、フランス等もオランダからお茶を買ったため、この言葉が広まったようである。ちなみにフランス語ではthé「テ」、ドイツ語ではTee「テー」となる。

広東省由来の発音は「チャ」に近く、要するに、「テー」と「チャ」が世界中に広まったわけであるが、teaも「チャ」と発音できなくもない。

オミナエシは、秋の七草の一つとして古来より鑑賞の対象として親しまれてきた。漢字では「女郎花」と書くが、女郎とは平安時代、高貴な女性を指す言葉であった。茎がすっきり細く伸び、その先に小さな黄色の花をたくさんつける様が高貴な女性のイメージだったのだろうか。しかしこれでは由来としての面白みに欠ける。

こんな説もある。

オミナエシは女飯(おんなめし)が転訛したもので、これは黄色の花を粟飯に見立てての名であり、それに対してよく似たオトコエシという植物は白い花をつけるが、これを白飯に見立ててオトコメシとしたという説である。いにしえの男尊女卑の文化が感じられ、興味深い。

静御前が、「しづやしづ 賤(しず)のをだまきくり返し—」と謳ったとされるオダマキの花は、花びら同士を立体的に組み合わせたような、不思議な美しい形をしている。漢字では苧環と書き、「苧(お)」という繊維を丸く巻き付けたもの「苧玉(おだま)」に花の形が似ているところから、「苧(お)」、「玉(たま)」、「巻き(まき)」が「苧環」となり、オダマキと呼ばれるようになった。

別名、イトクリソウ(糸繰草)とも呼ばれている。

さて、一風変わったところでは、イヌノフグリ、オオイヌノフグリはオオバコ科の植物だが、果実の形が雄犬の「フグリ」、つまり陰嚢に似ていることからそう名付けられた。意外な発想に感服する。

クチナシは春のジンチョウゲ、秋のキンモクセイと並び、3大香木のひとつに挙げられている。初夏に咲く白い花の甘い香りは独特で、この葉につくアゲハチョウの幼虫をよく見る。漢字では梔子と書くが、この果実は黄色の染料に用いられ、食品の添加物にもなっている。この果実は熟しても裂開しないところから「口がない」、そこからクチナシの名が付けられている。ちなみに、庭木として栽培されているものの多くはオオヤエクチナシで、花は豪華だが実はつけない。

そして3大香木のひとつジンチョウゲはジンチョウゲ科の常緑低木で、漢字では沈丁花と書く。この香りは春の訪れを感じさせるが、この香りが沈香(じんこう:ジンチョウゲ科の常緑香木の幹に人為的に傷をつけ、そこから分泌される樹脂を採取したもの。水に沈むことから沈水香とも。高級品は伽羅=きやらと呼ばれる)という香料に似ており、また十字型の花が丁子(クローブ)に似ていることに由来する。

春から晩秋にかけて咲くキンポウゲ科のクレマチス。日本では鉄線と呼ばれるものがその一種である。鉄線のように頑丈なツルを絡ませながら成長していく姿からこう名づけられたそうだが、実際にはツルはかなり繊細で容易に折れてしまう。扱いにはご注意を。

一方クレマチスの名は、ギリシャ語で「つる」や「巻き上げ」の意を持つ「klema」がラテン語に変わって、「つる性植物」を表す「Clematis」という名前がついたといわれる。英語で「登る」を意味するclimbから、つる性植物を絡まって登ることからclimber(クライマー)と呼ぶが、おそらく同源であろう。

ワスレナグサ(忘れな草)とは、ずいぶんと感情移入した命名のように響く。漢字では漢文調に「勿忘草」と書き、小さな青やピンク、あるいは白い花を無数に咲かせるムラサキ科の一年草である。

日本語名がしっくりくるが、実は「私を忘れないで」という意味の英語名「forget-me-not」、ドイツ語名「Vergissmeinnicht」の訳である。一説には秘話に由来する。

昔、ドナウ川沿いを騎士ルドルフと恋人ベルタが散歩していた。ベルタは、ドナウ川の急流の川岸に青い小さな花を見つけ、「あの花が欲しい」と言った。ルドルフは花を摘むが、その瞬間足を滑らせ、急流に飲み込まれる。もはやこれまでと思ったルドルフはベルタに花を投げ、「私のことを忘れないで」と叫びながら流れに飲まれていった。ベルタは生涯ルドルフのことを忘れず、毎年この花が咲くと部屋に飾ったとのこと。

もう一つの説はもっと古く、エデンの園でのお話。

エデンの園に咲く花に、アダムが全て名前をつけたと思っていたら一つだけつけ忘れた花があった。この花の名前を忘れないようにとワスレナグサと名付けたとのこと。

ヤナギはヤナギ科の落葉樹の総称を指すが、名の由来は「弓矢の矢を作る木」の意味で、「矢の木」から転訛したものとされている。ちなみに、ニシキギ科のマユミは、弓の材料として使われたためにその名がついた。

ところで、ヤナギには漢字で「柳」と「楊」と書くものがある。

「柳」は、旁が「流れるようにすべる」ことを表し、また形がいかにも風に揺れているように見える通り、枝が垂れ下がる落葉高木のシダレヤナギを指す。

一方の「楊」の旁は「上がる」ことを意味し、枝が上に伸びるカワヤナギやネコヤナギなどの落葉低木を指す。

さて、楊枝(ようじ)には楊の字がついている。もともとは、現在のように先が尖ったものではなく、楊の樹木の枝の先端をかみ砕いて繊維を出して歯ブラシ状にした房楊枝を指していた。ちなみに、ヤナギの樹皮には解熱鎮痛作用のある「サリシン」という成分があり、薬木としても利用される。

タケノコの本来の意味は文字通り「竹の子」で、イネ科タケ亜科タケ類のタケ(竹)の若芽を指す。

茹でたタケノコが食卓に並ぶと日本人なら春を実感するであろう。

タケノコは漢字一字で筍と書く。竹冠に旁は旬で、この旬は10日を意味する。なので月の最初の10日を上旬、次の10日を中旬、そして後の10日を下旬と呼ぶ。タケノコは成長が早く、地上に顔を出して10日でタケになるため、中国ではこの字が当てられたとか。「今が旬」などという場合、本来は最も適した10日前後を指していたのかもしれない。そのためか、食材としての旬のタケノコを筍と呼ぶという説もあるが、個人的には先の説のほうがピンとくる。

次に取り上げるのはラン。

漢字で蘭と書くこの植物には大きく分けて、地面に生える地生ランと他の植物に付着して生きる着生ランとがある。ちなみに着生ランは、他の植物に埋め尽くされた地球にあとから登場したいわゆる新参者ゆえ、生きるための特別な機能を持っており、単子葉植物の中で最も進化した植物とも言われている。カトレアやコチョウランがこの部類に入る。これらの根はよく空気中にはみ出していることがあるが、この根は、地中にあらずとも水分を吸収する機能がある。

さて、ランは英語ではorchid(オーキッド)で、ギリシア語の睾丸を意味する「ορχις (orchis)」が語源であるが、これはランの塊茎(バルブ=茎のもとの膨らんだ部分)が睾丸に似ていることに由来するそうである。花ではなくそこに目が行くとは。

Wikipediaには、ランの花の特徴として、

「花は左右相称で両性,子房は下位,この子房の部分が普通 180度ねじれ,花は上下転倒している。外花被,内花被はともに3枚,内花被のうち正面の1片は普通特異な形と色彩をもち唇弁と呼ばれ,後方に距を伸ばすこともある。おしべとめしべは合生して特有のずい柱をつくり,おしべは1本,まれに2本だけ完全で他は退化する。」と書かれている。植物の中でもかなりの変わり者である。ちなみにコチョウランは胡蝶蘭と書くが、学名ではPhalaenopsis(ファレノプシス)で、ギリシャ語で「ファライノ(蛾)」と「オプシス(似る)」から、蛾に似た花といった意味だろうか。

スィートピーは、まめ科れんりそう属のつる性1年草で、日本語では麝香連理草=じゃこうれんりそうと呼ばれる。

学名のLathyrus odoratusにodor-がついていることから、香りが特徴とされていることがわかる。

甘い香りなので英語ではSweet pea=甘い豆と命名されているが、実には毒があるのでくれぐれも食べないように。

さて、突然ではあるが、菓子のマシュマロは甘くあの食感がなんとも幸福感に満ちている。マシュマロとは、「メレンゲにシロップを加え、ゼリーで固めて粉をまぶした菓子の名」とされている。

実はこの菓子の名前は、原料となったアオイ科のウスベニタチアオイの英語名、marsh mallow に因んでいる。ハーブの一種で、私もベランダで10年来栽培している。花は小さく実に地味だが、マシュマロの起源だと思うと、やはり夢を感じてしまう。

mallowとは葵=アオイ、つまり徳川家の御紋のモデルになっている植物である。もとはこの植物の根を古代エジプトの王族がすりつぶしてのど薬として使っていたそうである。現代のマシュマロの製法では、この植物は使われない。

「根をすりつぶした」ことから、当然mashed potato=マッシュポテトのmashだろうと思い込んでいたら、実はmashではなくmarsh=沼だった。つまりmarsh mallowは沼地に生えるアオイの意味だった。

ワレモコウ(吾亦紅)は、意外にもバラ科の植物。

サクラ、ウメ、ナシをはじめ、世にバラ科の植物は実に多い。

でも、ワレモコウは見た目にはとてもバラ科とは想像しにくい。

名前の由来は、根の香りがインドにある木香(もっこう)に似ており、「吾の(日本の)木香」という意味で吾木香(ワレモコウ)となった説、また織田信長の家紋でもあった「木瓜紋」が割れた形に似ていることから、「割木瓜」(ワレモコウ)となったという説などが有力とされている。

木香の名は、モッコウバラにも使われている。モッコウバラには白と黄色があり、白の方が香りが強いとされているが、黄色とて十分なボリュームに育てば、それなりに香り立つ。一方のワレモコウからはどうしたことか、ほとんど香りは感じられない。

もうひとつ、木の幹のことを英語でtrunk=トランクという。

ちなみに、同種の英語にstem=ステムがあるが、樹木より草などに使われ、日本語では茎(くき)に近いようである。ワイングラスのベースから立ち上がる細い部分もステムという。

さて、旅行用の大型鞄(かばん)も、またクルマの荷室のこともトランクという。物入れに関係していることはおおかた想像がつく。

起源は定かではないが、大きな木の幹をある長さに切って、内部をくり抜き、それを物入れとして使ったのが語源のようである。木の幹から作ったcontainer=コンテナといったところか。

trunks=トランクス はpants同様、複数形になってはいるが、体の幹、つまり体幹部に着ける衣類という意味からであろう。

最後に当院の名前にも使われている「青葉」等、植物の緑はなぜ青と表現されるのか。

奈良時代、平安時代、日本語には色を表す形容詞が、「白し」、「赤し」、「青し」、「黒し」の4つしかなく、この4色で全ての色を表現していた。そのため、緑という概念が希薄で、一方青(あを)が表す色の範囲はとても広く、一般的には「白と黒の間」とされていた。狭く見積もっても、緑、青、藍あたりの色を全て表している。したがって、緑であっても、青菜、青竹、青物となるわけである。