梅雨近し

新型コロナウィルス感染拡大の先が見えない中、新緑を楽しむ心のゆとりを忘れがちでしたが、今年もバラが咲き乱れました。

今年は先手を打って、剪定ではなく黒点病の予防散布をしましたが、やはり防ぎきれませんでした。下葉は黄変し枯れ落ちましたが、それでも花は期待通りに咲いてくれました。

その中で、アマガエルが我ここぞとばかりにマイホームを仕切っていました。

右は、この時期にしては珍しい集中豪雨の翌日6/7早朝のダブルディライト。

我が家では定番のバラ。

同じ株から咲く花で、これほど個々に変化のある表情を持ったバラも珍しいのではないかと思います。香りは強いフルーツ系。

6月上旬なのに32℃、先が思いやられます。6月も中旬に差しかかろうとしています。入梅も間近でしょう。

ちなみに、アベノマスクはまだお目にかかっていません。 もう着けたくありませんが、「スピード感ある対応」とは何のことだったのでしょうか。

 

 

 

春なのに—

例年なら、もうすぐゴールデンウィークとうきうきしている時期ですが、今年ばかりは残念ながら事情が違います。新型コロナウィルス感染拡大に世界中が戦々恐々としています。 「ステイ ホーム」が今年の言葉になるんじゃないかと思うくらい、日常語となっています。 とにかく今は辛抱です。

でも、気持ちを切り替えて、「災い転じて福となす」「塞翁が馬」の諺を実践すべき時かもしれません。

今だからできること、今しかできないこと、これをピックアップしてみましょう。意外なほど多いはずです。

例えば、書類の整理、断捨離等、それをすること自体は大義でも、少なくとも成就感は十分感じられるはずです。

若い頃ならいざ知らず、65歳の私は外出しなくても数日間過ごす術、ではなく、とにかくやることは十分あります。田舎で、土地が広いこともあるかもしれません。

私は習慣として、次の休日までにすることをメモ用紙に箇条書きに書いておいて、実践したものに✔︎をつけ、できなかったものを次のメモ用紙にまた追加するというふうにしています。

最近は物忘れが多くなり、数分前まで覚えていたのに、その間に別の何かをするともう最初のことを忘れてしまう、こんなことの繰り返しです。なので、とにかく思いついたその時にメモするように心がけています。そのため、各部屋にメモ用紙を用意してあります。ただ、時には書いたメモの所在さえ分からなくなることもあり、呆れる毎日です。

さて、最初の写真は1週間前の玄関前のハナミズキ、もうひとつは診療所前のモッコウバラです。

黄色のモッコウバラは、その雰囲気はゴージャスなのですが香りが弱いと言われています。でも、このくらいのボリュームになると、周辺に結構バラらしい香りが漂います。

来年の今頃は、隣に新しい医院が完成しているはずです。こんな雰囲気が味わえるのも今回限りでしょうか。一方でコロナ禍も収束していればいいのですが。

モッコウバラは郵便受けにも覆い被さり、郵便配達の方には本当に「申し訳ありません」。

 

そうだったのか語源㉒  -方位について-

今回は、方位にまつわる言葉について触れてみたい。

まず方位には、一つの分類として絶対方位(absolute orientation)と相対方位(relative orientation)がある。

ここで用いられるorientation=オリエンテーションのorientには方位、方向付けの意味がある。

orientは東、あるいは東アジアを指すことが多いが、もともと東の方角や太陽の出る方角を指して使われており、そこから現代では動詞で「正しい位置に置く」といった使われ方をするようになったようである。

「日出ずる処」ではないが、古来より日中に活動する人類にとって、まずは日の出の方角が方位としての基準となったことは頷ける(ヨーロッパでも中世の大部分の広域地図は東を上にして描かれていたという)。

ちなみに、orienteering=オリエンテーリングも語源は同じで、コンパスと地図で方位を確認しながらゴールを目指す競技ということになる。

絶対方位とは、誰からみても決まっている方位(方向)で客観的であり、一方の相対方位とは基準とする位置によって変わる方向で主観的ともいえる。前者は東西南北と上下で、左右は後者となる。

まず、一般的に地図は北を上にして描かれている。少なくとも現在の日本では。

一般的にと言ったのは、北を上にしない描かれ方も少なからずあるためである。

ここでは、北を上にすることが一般化した理由について触れてみたい。

古くからヨーロッパでは、夜間は北極星を頼りに位置方角を確認していた。14~15世紀頃、地中海航路の探索において、方位磁石(指針は常に北を指す)が重用されるようになった。特に航海の際には羅針盤と地図との対比のため、利便性から北を上にする必要があった。日本の地図の表記はこれに従ったものと言われている(他にも諸説あり)。

地図は北を上(水平面に置いた場合の前方)に描かれているため、北へ向かうのを「北上」、逆に南へ向かうのを「南下」と表現するようになった。つまりこれらの熟語は、地図の描き方が世界的にほぼ確定した近世になってできた言葉である。

次に東西南北について。

この、あまりにも当たり前に使っている方位だが、例えば日本語を知らない外国人にどう説明したらよいだろうか。「東」は先ほどのorientの説明でよかろう。当然「西」は太陽の沈む方角となる。ある国語辞典には、「南」は「日の出るほうに向かって右の方角」と説明されており、英英辞典でも同様の説明となっている。ではここで使われている相対方位の「右」はどう説明されているか。先ほどの国語辞典には、「東を向いたときの南に当たるほう」と記されている。

しかし、これだと「右」も「南」もわからない相手には伝わらない。「右」とは、「日の出るほうを向いたときに、その後太陽が進んでいくほう」としてはいかがだろうか。

ちなみに「南蛮」「東夷」といった漢字表記については、「そうだったのか語源⑭ −国名都市名その2 漢字表記−」で触れているのでここでは割愛したい。

次に、方位が使われている熟語を取り上げてみたい。

まず「敗北」にはなぜ北という字が使われているのだろうか。

勝負に負けて北の方角に逃げたからではない。

「北」にはもともと背を向けるという意味がある。「北」は太陽の方向に対し背を向ける方角という意味である。ちなみにこの「背」にも「北」が使われており、体の後ろ側を意味している。つまり「敗北」とは、勝負に負けて相手に背を向けて退くことを意味している。

次に、「教え導く」意味の「指南」には「南」の字が使われている。

この語源は、古代中国の「指南車」に由来する。「指南車」とは、戦場で南の方角を示すために作られた「歯車からくり」で、上に載っている仙人の人形が常に南を指すように作られていた。なぜ指す方角が南かというと、中国古来の思想に「天子は南に面する」というものがあり、それに基づいたものとされている。先に触れたorientの発想とは別の文化の匂いを感じる。

さて、日本の地名に、上下がつくものが多い。

「上」を「かみ」と読む場合、川上と川下、上の句と下の句のように、もともと連続したものの最初の部分を指す。

まず「上=かみ」の意味について。

お上(おかみ)、つまり朝廷のある所を中心としていた頃の表現で、京都を指す。関西を上方(かみがた)というのはここからきている。

また、京都の中でも上京区(かみぎょうく)、下京区(しもぎょうく)と呼ぶように、大内裏に近い北のほうを上(かみ)という。ちなみに、全国にも「北」のことを「上(かみ)」と表現する場合があるが、京都の例に由来するのか、あるいは先に触れた地図の上(うえ)だからか、はたまた川上の方角だからか、勉強不足のためわかりかねる。

次に京都以外から見た場合、より京都に近い所に上(かみ)という形容詞をつける。上野(かみつけ)は下野(しもつけ)より、そして上越は下越より京都に近い。

絶対方位の「上下」が、ここでは相対方位的に使われているのも興味深い。

似たような表現で、「前後」が使われる場合もある。

例えば、備前、備中、備後の順に、そして越前、越中、越後の順に京都から遠ざかる。

ちなみに、現在の千葉県に当たる上総と下総では、下総が上総より北にあり、しかも京都に近い。これは、かつては三浦半島から上総のある房総半島へ船で渡る海路が主要な交通手段だったため、上総のほうが下総より京都に近かったことによる。

現在、首都である東京を中心として、路線の方向を「上り(のぼり)」「下り(くだり)」と表現するのと同様の概念といえる。

さて、官職をそれまでよりも低い位置に下げられることを左遷という。「遷」は「遷移」「遷都」のように場所を移す(移される)意味である。

この「左」は、古くから中国では右を尊んで上位とし、左を下位とする風習からこのように使われた。ちなみに、西洋も同様の風習(右を「正しい」「正式な」の意味のrightというのはこれが語源とか)だが、日本では逆に左を右の上位とする風習がある。「左上・右下(さじょう・うげ)」とは日本の伝統礼法の一つで、「左を上位、右を下位」とする風習を指す。したがって左大臣は右大臣より高位なのである。佐藤という苗字が多いのもこのせいだとか。

ご存知の方も多いと思うが、先に出た京都だが、「右京」「左京」は、都の北にあった大内裏の位置から南に向かって都を見て、右、左、と名づけられたので、一般的な地図上では、右と左の位置関係が逆、つまり右が西、左が東になっている。

政治思想の世界にも、右翼と左翼という表現がある。

Wikipediaには、「伝統的な意味では、進歩派(革新、革命)勢力を左翼(左派)、保守勢力を右翼(右派)と呼ぶが、具体的な思想や範囲は時代や立場や視点により変化する。」と記されている。

この呼び方の起源は、フランス革命期の議会の席順において、議長席から見て右に「保守、穏健派」、左に「共和、革新派」と、左右に分かれて座っていたことによる。

現在では、政治的スペクトルはより複雑化し、保守、革新共に右派、左派が存在し、さらに分野により左派が右派的になったり、またその逆の場合もある。

その他、「家業が左前になる」という表現があるが、この「左前」とはいかに。

和服の着方で、相手から見て、左の衽 (おくみ)=襟の下の部分 を上にして着ることを指す。普通の着方と反対で、死者の装束に用いる。ここから、運が傾いたり、経済的に苦しくなるといった、萎える様を表すようになった。

最後に、「右肩上がり」について。

グラフの線が右に向かって上がっていく形から、後になるほど数値が高くなること。あるいは後になるほど状態がよくなることで、これは感覚的に理解しやすい。

二次元空間で、横線はX軸、縦線はY軸と呼ばれるが、時間経過に対する変化量を表す場合、一般的にX軸が時間経過、Y軸が変化量を表すことが多い。

「右肩上がり」とはその名の通り、時間の経過とともに、Y軸の数値が大きくなることから、折れ線グラフでも棒グラフでも見ての通り「右肩上がり」となるわけである。

なごり雪?

 

昨日は夏日のような陽気でしたが、今日は一転して真冬のような寒さに。


満開間近の桜もさぞ驚いたことでしょう。

桜に雪が降る光景は、ここ前橋ではごくごく稀です。

で、寒い中、買い物がてら、敷島公園まで足を伸ばし花見と洒落込んだのですが、さすがカメラマンたちはタフであり、かつ写真のスポットをよくご存知で、雪の降る中、20〜30人ほどが、ベストショットを狙っていました。

私はといえば、車から出て1分ほどで震えながらそそくさと退散しました。

明々後日は4月です。

 

そうだったのか語源㉑ -訓読みが同じで異なる漢字(同訓異義語)-

副題のごとく、日本語には訓読みは同じで意味として共通部分はあるものの、異なる漢字が使われるものがある。これを同訓異義、あるいは同訓異字というが、その数はかなり多い。

日本語は、多くの言語の中でもとりわけ語彙(ボキャブラリー)が多いことが、その理由の一つであろう。そのため、駄洒落も生みやすい。

とにかくその数といったら膨大なのだが、幾つか例として取り上げ、それぞれの意味の違いを考えてみたい。

まず、以前の回でも触れたことがあるが、ある場所で生活することを「すむ」という。「住む」は最も広義で使われるが、人偏があるので、もともとは人が生活する場合に用いた。一方で「棲む」は、鳥や獣が巣を作って生活する場合に使われる。「棲息」という熟語からも理解できよう。

目で知覚することを「みる」という。最も広義では「見る」が使われるが、英語ではseeが該当するようである。

ある場所に出かけて見て楽しむ場合、「観る」が当てられる。「見物」や「鑑賞」の意に近い。熟語としては「観光」「観戦」「観覧」等があり、英語ではenjoy( seeing)だろうか。

「視る」は、より神経を集中して見る意味で、「凝視」「注視」の熟語があり、英語ではwatchが近い。

「診る」は医療用語として日常的に使われるが、見て判断、評価するという意味で、医療で使われることが多い。英語のexamineが相当するが、奇しくもseeもこの意味で使われることがある。

「看る」も同じく医療の分野で使われるが、こちらは、悪くならないように気を配る、見守るという意味合いが強く、英語ではcareが近い。

「きく」にも、「聞く」、「聴く」、そして「訊く」がある。

広義で使われるのはもちろん「聞く」で、英語のhearに当たる。「聴く」はより意識的に集中する様で「耳を傾ける」で英語のlistenが、そして「訊く」はたずねて答えを求める意で英語ではaskが当てはまる。

次に、「あける」という言葉では、「開ける」「空ける」「明ける」が思いつく。これらに共通しているのは、空間ができるというニュアンスである。

「開ける」は、門構(もんがまえ)がある様に、閉ざされていたものが開いて新たな空間ができること、「空ける」は、埋められていた物が除かれ空間ができること、そして「明ける」は闇で覆われていたものがなくなり、日が差して明るくなることを表している。

英語では順に、open, empty, break(あるいはdawn)が相当する。

「とる」も、実に多くの漢字が当てられている。

一般的には「取る」が広義で使われ、保持したり自分のものにすることを表している。

「捕る」は(手で)捕まえること、「摂る」は「摂取」などの熟語に使われ、食べること、体内に取り込むことを指す。

また、「穫る」は禾偏より農作物などを収穫すること、「獲る」は獣偏より狩りや漁で獲物を捕まえることを指す。

「採る」は、集める、採集する、選ぶといった意味を持つ。

さらに、「撮る」は写真や映画を撮影すること、「録る」は画像や音で記録することなので比較的新しい使い方といえよう。

「盗る」は、他人のものを奪って自分のものとすること、そして「執る」は手に持って使う、あるいは行うといった意味である。

「おす」にも、「押す」「推す」「捺す」「圧す」がある。

手偏の字が多いことから、それぞれ何がしかの力が関与していることがうかがえる。

最も一般的なのが「押す」で、物に手や指先をあてがって、前方に力を加える行為を指す。

「推す」は、適当な人(物)として薦めることを指すが、「推進」のように、「押す」と同様の意味もある。また、「推し量る」「推進」のように、時間的、方向的な前方への力を感じとれる。

「捺す」は、「捺印」のように上から力や重みを加えることをいう。

「圧す」は、力や権威などで押さえつけることを意味する。

やや使い分けしにくい言葉に「すすめる」がある。

「進める」「勧める」「薦める」「奨める」「推める」といった漢字が当てられるが、これらにも「おす」と類似し、前方に動かすという共通概念がある。

「進める」は広義で、英語ではdrive、advanceあるいはforwardが当てはまる。

「推める」も「推進」で使われるようにほぼ同義だが、手偏があり手で押して前に進めるというニュアンスがより感じられる。

「勧める」は、相手にあることをするように働きかけるの意(英語ではrecommendあるいはsuggest)、「薦める」は人や物の良い点を挙げ、相手に採用を促す意、「奨める」は、励まして奮い立たせる、つまり背中を押すといった意がある。

さて、「かえる」にも、「変える」「代える」「替える」「換える」「帰る」「返る」「反る」等がある。

「変える」は状態を変化させること、場所を移動すること(英語ではchange)、「代える」は熟語にあるように代用する、代理とすること(substituteあるいはreplace)、「替える」は同種の物と入れかえること、それに対し「換える」は、別の物と取りかえることを意味する(change, exchange ,replace, convert)。

以上とは明らかに意味の違いはあるが、「帰る」「返る」「反る」は自動詞で、共通しているのは、ベクトルが逆になるニュアンスが含まれていることであろう。

「帰る」は、「往復」の「往」に対する「復」であり、「もとのところに戻る」の、「返る」は「物がもとに戻る、もとの状態に戻る」の、そして「反る」は「反動」「反発」で使われるように「向きが逆になる」の意である。

「さわる」もなかなか興味深く、「触る」と「障る」がある。

前者は、触れる、接触するという意味、後者は邪魔になる、あるいは害になるという意味である。ちなみに「キザ」という言葉は、「気に障る」「気障り」からできた俗語である。「気分を害する」というのは、感覚的に不快になるわけだから、直接間接の差はあれど、不快な感触と無関係ではなかろう。

ちなみに、「話の触り」といったときの「触り」とは最初の部分ではなく、話の聞きどころを指す。

「いう」にも大きく三つある。

「言う」は、考えや行為を言葉にして表現すること、自分の言葉で表現すること(sayあるいはtell)、「云う」は既存の論旨や他人の言葉を引用すること(state)、「謂う」は、特定の課題について自分で考え意見を述べることと説明されるが、これに関しては残念ながらいまひとつクリアーな説明ができない。

「おもう」では、一般的には「思う」が使われる。

「思」は、「田」と「心」から成り、「田」は幼児の脳を表し、「心」は心臓を表す。つまり「思う」は頭と心で感じるという意味である。

「想う」は、「相」と「心」から成り、「相」は木を対象として見ることを表し、これと「心」とで、「ある対象のことを心で考える」という意味になる。「思う」と比較し、より対象がはっきりとした、あるいは強い感情が込められていると考えられる。「念う」には、心を一つのことに集中させる意味があり、「念じる」と使われるように、一心に思い入れるといった意味がある。

「憶う」は、「記憶」といった使い方からわかるように、かつての事物を忘れないでいたり思い出すといった意味で用いる。英語のsouvenirがニュアンスとして近いかもしれない。

「惟う」は、「隹」が鳥を表す通り、思い巡らすといったニュアンスがある。

最後に、あまり使われないが「慮う」は、「おもんばかる」と読むように、深く思考する意味で使われることがある。

「かける」にも、「掛ける」と「架ける」、そして「懸ける」と「賭ける」がある。

「掛ける」は「ひっかける、上から物を置く」という最も広義で用いるのに対し、「架ける」は物と物の間を渡す場合(歯科のブリッジは架橋義歯と和訳される)、「賭ける」は金銭等賭け事に関する場合、「懸ける」は捧げる、託すといった意味合いで用いる。

「しずめる」は比較的違いが明確で、「静める」は音や声を静かにさせること、「沈める」は水中に没すること、「鎮める」は「鎮圧」という熟語にもある通り、(なんらかの力により)騒動や混乱をおさめることをいう。

逆に何が共通しているかだが、三者とも動きのあるものの勢いを抑える、落ち着かせるといったニュアンスが感じ取れる。

「あう」では、「合う」は二つ以上のものが一つになる、一致するの意(fitあるいはsuit)、「会う」は、人、または何かとあるところで一緒になるの意(meetあるいはsee)、「逢う」は「会う」と類義だが特に親しい関係にある場合に使われる。「遭う」も「会う」と類義だが、嫌な人、あるいは欲しない事柄と偶然あう、つまり「出くわす」(encounter)といった意味で使われる。

「こす」にも「越す」と「超す」がある。

前者が、場所や点、時間を過ぎて向こうへ行くことを表し、後者がある一定の数量や基準、限界を上回ることを表す。換言すれば、前者が水平的な位置の移動であるのに対し、後者は上下的な位置の移動とも表現できる。

ちなみに「漉す」「濾す」は、液体等に混じった不要物、不純物を紙、布、フィルター等で取り除くことを指すので、濾されたものはそこを通過するという意味では、「越す」と同源ではないかとも考えられる。

次に、形容詞の例として「かたい」を取り上げてみる。

「かたい」にも「固い」「硬い」「堅い」があるが、これらは反対語で比較するとわかりやすい。

「固い」は「ゆるい」の(例:固い絆)、「硬い」は「やわらかい」の(例:硬いパン)、そして「堅い」は「もろい」の反対語である(例:堅強)。

ついでに「やわらかい」では、「柔らかい」は曲げても折れない、ふわっとした、あるいはしなやかであること、「軟らかい」はぐにゃりとした、手ごたえがないといったニュアンスがある。したがって、柔道は決して「軟道」ではないのである。

次に、名詞の同訓異義語について。

「あし」にも、「足」と「脚」がある。

一般的には「足」を使う場合が多いが、両者を分ける場合は、くるぶしから先の部分には「足」(foot)を、膝から下の部分、あるいは足全体を指す場合には「脚」(leg)を使う。「馬脚を現す」はこちらである。上肢でいえば、それぞれ「手」と「腕」がこれに相当する。

「町」と「街」の違いは、前者が主に家々が密集している場所、地域(town)を指すのに対し、後者は商店やビルが立ち並んでいる道筋(通り)を指す(street)。別の言い方をすれば、前者が面を表すのに対し、後者は「街道」というように線を表すといってもいいかもしれない。

「木」と「樹」の違い。

「木」は自然の状態で生えている樹木もさすが、同時に材木になったもの、材木として使われたものも指す。

一方の「樹」は、生きている樹木にしか使われない。

「なか」も、「中」はある範囲の内側でinsideの意、「仲」は人間関係について使われるのでrelationshipの、「央」は真ん中(あたり)でcenterの意味に近い。このあたりは、音の異なる英語による説明のなんと明快なことか。

「かげ」にも、「影」と「陰」「蔭」「翳」等がある。

最初の「影」は、光が物体に遮られ、その光源と反対側にできる黒い部分を指す。一方「陰」は物体に遮られ、光や風雨が当たらないところを表し、「陽」の対意語である。

英語では、前者がshadow、後者がbehind、あるいはshadeが相当する。

「蔭」は草冠がつくように、草木のかげを指し、そこから派生し人からの恩恵をも表す。

「翳」は「羽」の字があるように、鳥の羽などで扇型にし柄をつけたものを指す。これで貴族が顔などを隠し、視線を遮るのに用いた。

差と叉について。

「交差」と書く場合と「交叉」と書く場合がある。

2本以上の線状のものが、1点で重なることを指す。

本来は「叉」で英語ではcrossが相当するが、この字が当用漢字にないため、「差」を当てている。

ただ、「差」は英語ではdifferenceで、違いやズレをあらわす漢字なので、「交差」という言葉は本来の意味とはかなり違い、私見ではあみだくじの図形を連想させる。画数の簡単な「叉」くらい、当用漢字にしても良さそうなものである。

最後に「のり」という音は実に奥が深い。

論語の中では、年齢を表す言葉として「不惑」というのが有名である。40歳を指す言葉だが、「四十にして惑わず」からきている。ちなみに、70歳という年齢の表現として、「七十にして心の欲する所に従いて矩を踰えず」というものがある。

この「矩」は「のり」と読むが、同音には「則」「法」「憲」「規」「紀」「倫」「典」等、たくさんある。この言葉の深遠さは、人の名前に多く使われていることからも想像に難くない。

まず、「矩」は矩尺(かねじゃく)のことで、かぎ型(直角)の定規を指す。

「法」は、解字からみると「水+鹿と馬に似た獣の姿+去(引っ込める)」で、「池の中の島に珍獣を押し込めて、外に出られないようにしたさま」と解説されている。

「憲」は「かぶせる物+目」から成り、目の上にかぶせて、勝手な言動を抑える「わく」を示している。ちなみに。憲法は権力者の権力の逸脱を許さないための法律である。最近、拡大解釈されていることが気がかりである。

さて、「規」は「矢+見」で、直線の棒を松葉型にくみ、その幅を半径として円を描いて見るという作業を指す。コンパスを連想すればよさそうである。

「則」は「刀+鼎(かなえ)の略形」で、鼎(金属の器)にスープや肉を入れ、すぐそばにナイフを添えたさまを指すようである。

「紀」は、「糸+(音符)己」で、糸のはじめを求め、目印をつけ、そこから巻く、織るといった動作を指す。「風紀」などに使われている。

「倫」は、「集める印+冊」の会意文字で、短冊状の竹札を集めてきちんと整理するさまを指す。

「典」は、「倫」と似ており冊の原形とされている。ずっしりとした書物を平らに陳列するさまを意味している。

これら多くの「のり」に共通しているのは、要するに「きちんとする」というニュアンスではないだろうか。そして「規則」「法則」「法規」「憲法」等、これら同士の熟語もよく使われるが、これも相応に意味あることだと思う。

決められたこと、守らなければならないこと、けじめをきっちりすること、そういった意味合いが込められているように思えてならない。

ちなみに先に述べた論語の70歳を表す言葉は、「70歳になると、自分の好き勝手に生きても、人の道から外れることはない」という意味で、私もこの先そう生きていきたいものだと我が不徳を認めながらも、半分ため息交じりで納得する次第である。

その他、「波」と「浪」、「海」と「洋」、「岡」と「丘」、「磨く」と「研く」、「森」と「杜」、「里」と「郷」等、まだまだ枚挙にいとまがないが、それぞれ微妙な意味の違いを調べてみるにつけ、同訓異義語は実に興味深い。

クロッカス

いまや日本中、いや世界中が新型コロナウィルスCOVID-19の感染拡大に戦々恐々としています。目に見えないだけでも厄介なのに、症状がはっきりしないケースが多いというのもさらに不気味です。

しばらくは感染しない、感染を広げない努力を個々に行うよりしかたないようです。

一刻も早く終息に向かうことを祈るばかりです。

さて、今年もまた車庫前のクロッカスが可憐な花を咲かせました。毎年本当に健気です。天気の良い日には庭でメジロがさえずっています。

春まであとわずか。

赤城山残照

関東平野の北西部に位置するここ前橋は、冬季は冬晴れの日が続きます。

同じ太平洋側でも、私が学生生活を送った仙台とは冬の気候は随分違います。

仙台では、晴れといっても一日中雲ひとつない青空の日は滅多にありません。雲が流れる晴れ、というのが適当でしょうか、晴れていても時折さっと曇る、そしてまた晴れる、まるでモーツァルトの変調のように。

そこにいくと前橋の冬晴れは、写真用語で言うところの「ピーカン」、雲ひとつない快晴の日が続きます。

ところが今年の冬はちょっと様子が違います。

北関東らしい快晴の日は少なく、晴れても仙台のように雲が流れます。

大陸の高気圧の張り出しが弱く、冬型の気圧配置が長続きしないためらしいのです。

1月13日、ちょっと珍しい赤城山の姿が見られました。

大部分は雲の陰になっていますが、東側(向かって右)の峰だけ陽が当たっています。雲が流れているためです。そして、たしかに手前上空には低い雲が見えます。

学生時代の第二の故郷の情景がふと蘇ってきました。

そうだったのか語源⑳  −人名−

人の名前は、親の思いや希望が込められていて興味深い。

健やかに育って欲しいという思いは、男子であれば健や健志、健司、健一といった名前に込められている。

美しい女性になって欲しいと願う親は、好子、美子、佳子、妙子、麗子といった名前をつけた。

一方で、「あぐり」という名前には意外な意味が込められていた。

「もうこれ以上要りません」という意味である。

もともとは、1800年代、東北地方の青森秋田の辺りで、「ものが充満した状態」を指す意味で使われていた言葉だとか。

「もうこれ以上子どもは要らない」という意味で、女子につけることが多かったようである。

「すえ」や「とめ」、「すて」といった音(おん)のつく名前には、同様の意味が込められていることが多い。

さて、欧米圏の人名も、意味にはこだわらず単に名前として受け入れてしまえばそれまでだが、意味を追求していくと、名前のつけ方が日本語にも通じる場合がある。

例として、ソフィアという女性の名前。

ソフィア=Sophiaはブルガリアの首都名にも使われている。

ラテン語、イタリア語ではそのまま「ソフィア」、フランス語ではSophieのスペルで「ソフィー」、ドイツ語で「ゾフィー」の音になる。

もともとギリシャ語で、知恵や叡智の意味があった。

ちなみに哲学を表すphilosophyは、phil-=愛する、好きと、sophy=知恵から作られた「知恵を愛する」という意味の言葉である。蛇足ながら、phil-は白血球のneutrophil=好中球の使われ方と同じで、philharmonyも同様でハーモニーを好むといった意味である。

閑話休題。

つまり、ソフィアという名は日本名では知恵子に相当する。

ついでに、上智大学はSophia Universityの日本語名で、「智」の字が当てられている。

次に、音楽好きな方はご存知かと思うが、W.A.モーツァルトの奥さんの名はConstanze=コンスタンツェである。

一方で、Constantinus=コンスタンティヌスはローマ皇帝として有名である。

トルコのイスタンブールの前身であるコンスタンティノープルの名も、この皇帝の名に由来している。

さて、この双方の名前は、constant=一定、不変と関連がある。

特にローマ皇帝の名はconstant=不変等の意味で、皇帝の世が不変であるようにという意味が込められているのであろう。いわば日本の「君が代」の歌詞と概ね同義と考えてよかろう。

コンスタンツェの名も同様の由来からすると、日本語名では定子、常子といったところか。

ついでに、有名なビートルズの「ヘイ ジュード」だが、Jude=ジュードは、ヘブライ語のユダから派生しており、キリスト教やユダヤ教では伝統的な名前である。ちなみに愛称はJudy=ジュディとなる。

さて、欧米圏では語圏により多少音が変化するも、同じ起源だと推測できる名前が少なくない。

例えば英語のFrederick「フレデリック」は、イタリア語ではFederico「フェデリコ」、ラテン語化する場合はFridericus「フリデリクス」、一方ドイツ語ではFriedrich「フリードリヒ」となる。ちなみにその意味は「平和と支配」だそうだ。

以下に、代表的な人名の、国によるスペルと音の変化を表にしてみよう。

英語 イタリア語 スペイン語 フランス語 ドイツ語
Michael

マイケル

Michele

ミケーレ

Miguel

ミゲル

Michael

ミシェル

Michael

ミヒャエル

George

ジョージ

Giorgio

ジョルジョ

Jorge

ホルヘ

Georges

ジョルジュ

Georg

ゲオルク

Peter

ピーター

Pietro

ピエトロ

Pedro

ペドロ

Pierre

ピエール

Peter

ペーター

William

ウィリアム

Guglielmo

グリエルモ

Guillermo

ギリュルモ

Guillaume

ギヨーム

Wilhelm

ヴィルヘルム

Robert

ロバート

Roberto

ロベルト

Roberto

ロベルト

Robert

ロベール

Ruprecht

ルプレヒト

Steven

スティーヴン

Stefano

ステファノ

Sebastián

セバスチャン

Étienne

エティエンヌ

Stefan

シュテファン

Henry

ヘンリー

Enrico

エンリコ

Enrique

エンリケ

Henri

アンリ

Heinrich

ハインリヒ

David

ディヴィッド

Davide

ダヴィデ

David

ダビド

David

ダヴィド

David

ダーヴィト

Catherine

キャサリン

Caterina

カテリーナ

Caterina

カテリナ

Catherine

カトリーヌ

Katharina

カタリーナ

Margaret

マーガレット

Margherita

マルゲリータ

Margarita

マルガリータ

Marguerite

マルグリット

Margarethe

マルガレーテ

Caesar

シーザー

Cesare

チェーザレ

César

セサル

César

セザール

Cäsar

ツェーザル

Elizabeth

エリザベス

Elisabetta

エリザベッタ

Isabel

イサベル

Isabelle

イザベル

Elisabeth

エリザベート

Julia

ジュリア

Giulia

ジュリア

Julia

フリア

Julie

ジュリー

Julia

ユリア

Richard

リチャード

Riccardo

リッカルド

Ricardo

リカルド

Richard

リシャール

Richard

リヒャルト

Leonard

レナード

Leonardo

レオナルド

Leonardo

レオナルド

Leonard

レオナール

Leonhardt

レオンハルト

 

これらの名前は、ギリシャ神話やローマ皇帝、キリスト教の聖者に由来するものが多い。

その他わかる範囲では、ウィリアムは「強い守護者」、ロバートは「輝かしい名声」、ヘンリーは「支配者の家」、レナードは「強い獅子」、マーガレットは「真珠」、リチャードは「力強い支配者」、ジョージは「農夫」といった意味がある。

 

最近は日本でも、○○ネームとか言って、音や響きを重視する命名が流行っているが、本人が大きくなってから名前の由来を物語れるよう、意味のある命名も悪くはないように思う。

晩秋 その2

気象予報では、明日の朝は、今秋一番の冷え込みとか。前橋でも2、3℃にまで下がりそうです。

さて、前々回に引き続き、我が家の晩秋の紅葉をご紹介します。

左は玄関前のヤマボウシ。ヤマボウシの葉は、同じミズキ科ヤマボウシ属の(アメリカ)ハナミズキとよく似ていますが、紅葉は前者が朱色に近いのに対し、後者は臙脂(エンジ)、紅色に近いように思います。

いずれにしても、このヤマボウシの葉が落ちると、我が家は落ち葉の処理に一苦労です。

右は、まさに臙脂のブルーベリーの紅葉です。

ブルーベリーは、春は新緑、夏は実、そして秋は紅葉、そして冬は繊細な枝ぶりと、四季を通じて楽しめます。

酸性土壌に向いているということで、コーヒーの殻を土に混ぜています。

有効かどうかはわかりませんが。

そうだったのか語源⑲ −スポーツに関わるトリビア−

今回は、スポーツにまつわる言葉の由来を幾つか取り上げてみたい。

 

*サッカー

サッカーという呼び名は米国で使われ、英国ではフットボールという。

足を使うスポーツだからfootballという名称は合点がいく。世界的には、フットボールの名称のほうが圧倒的に多く使われている。

ではsoccerとはいかに?

実は、正式名称はassociation footballというのだそうだ。このassociationの「soc(仲間の意)」に発音しやすいように「c」を付け、人を意味する-erをつけたものがsoccerである。語尾に-erをつけて通称とする呼び方では、rugby=ラグビーの通称がrugger=ラガーであるのと同様である。

さて、サッカーのルールにoff side=オフサイドというのがある。

「反則の位置」と訳されているのだが、これはもともと軍事用語で、「味方の戦力から外され、敵陣の陰に捕えられた兵士」を指したらしい。そこから、

「敵陣の中の、いてはいけない場所にいること」となったらしい。つまり自分や味方の側がon sideで、相手や敵側がoff sideと考えると理解しやすい。

敵陣、つまりゴール側に一人待っていて、そこへボールをパスすれば簡単に得点できて、ゲームとしては面白みに欠けるのであろう。

ちなみに英国では道路上でもこの用語は使われ、中央寄り、つまり対向車線に近いほうをoff side(相手側)、路肩側をon side(自分側)と呼ぶ。

 

*ラグビー

「ノーサイド」は、ラグビーでは試合終了のことを指す(英語圏でもかつては「No side」が使われていたが、現在では「Full time」が使われている)。

戦いが終わったら、両軍のサイドが無くなって同じ仲間だという精神に由来する。なんと崇高なスポーツマンシップか。

knock on=「ノックオン」は、ボールを前方に落とす反則を指す。knockには「叩く」という意味の他に「落とす」という意味もある。

 

*テニス

テニスのカウントの仕方は変わっている。

まず、0のことをlove=ラブと言う。

テニスは11世紀にフランスで始まった。フランスでは、卵を意味する

「l ’oeuf(ロェフ)」という言葉があり、0が卵に似ていることから、0を卵と呼び、それが後に発音の似ている英語のloveに転じたらしい(諸説あるが、本説が有力)。日本語でも0を「まる」というのと似ていまいか。

0の次が15で、30、40とカウントしていく。これにも諸説ある。

「時計の文字盤を4つに分けた」「14世紀頃、プレーヤー同士の賭けの際に使われていた1ドゥニエ銅貨が4枚で60スウという金額になるため、60スウの4分の1である15スウを1つの単位とした」「(テニスの前身であるジュドポームを行っていた)修道院の生活時間が15分単位であった」というものがある。いずれにしても、3ポイント目は40ではなく、45になるはずだが、forty fiveと発音するのが面倒なので簡略化して40としたとの説もある。

 

*野球

bullpen=ブルペンとは、野球場の投球練習場を指すが、もともとはbull=牛の囲い場のことである。諸説あるが、投手を、闘牛場や屠殺場に送られるのを囲いの中で待っている牛に見立てたという説が尤もらしい。

次に、左利き投手のことをsouthpaw=サウスポーと呼ぶ。

pawとは爪のある動物の足を指すが、口語で人の手の意味もある。つまり、「南の手」である。

かつて米国の野球場は原則的にホームベースが北西になるように作られていた。そのため、左腕の投手の手は南側から繰り出されたためにこの名前がつけられたという説が有力である。その他、米国南部出身の投手に左腕が多かったからという説もある。

投手と捕手を、蓄電池を意味するバッテリー=batteryというが、これはかつての蓄電池は2個一組だったそうで、その関係に似ているからという説、あるいは軍隊で大砲の発射を意味するラテン語のbattuere に由来するという説がある。後者では、チームを軍隊、ボールを大砲、投手から捕手ヘの投球を発射に例えているという。

野球チーム名でちょっと面白いのがロサンジェルス・ドジャーズ。

ドジャースの「dodger」とは、「ひらりと身をかわす人」という意味。

ドッジボールのdodgeもまさにその意味。

もともとドジャーズは、ニューヨークのブルックリンを本拠地とするチームだった。

当時、ブルックリン市民の足はトロリーと呼ばれる路面電車だった。

かつて日本でも、路面電車をトロリーバスと呼んでいた。

そのトロリーが来る度に、ひらりと体をかわしながら往来するブルックリン市民のことを、親しみを込めてtrolly dodgersと呼んだそうだが、これがチーム名の由来だとか。

 

*ゴルフ

一般的にOBといえばold boyで、学校の男子卒業生を指すが、ゴルフでは out of boundsの略で、「プレーできるエリア外」を意味する。boundにはボールが弾む「バウンド」という意味もあるが、その他「限界」「境界」という意味もある。

さて、ゴルフのスコア用語には鳥に関係するものが多い。

1903年、それまで誰もなし得なかったロングホールでのパー(標準打数)が破られた。その時のボールはまるで小鳥が飛んでいくように見えたとか。

そのため、パーより1打少ないスコアを鳥の幼児語でbirdy=バーディと呼ぶようになったそうである(英語ではTommy、Jimmy等、語尾に-yをつけて愛称とすることが多い)。さしずめ「小鳥ちゃん」といったところか。

そして、2打少ないスコアをさらに強いeagle=「ワシ」、3打少ないとずば抜けた飛行力を持つalbatross=「アホウドリ」と呼ぶようになったそうである。ちなみに滅多にないが、パー5のコースで4打少ないスコア、つまりホールインワンをcondor=「コンドル」というらしい。コンドルは、インカ帝国では天の神として崇められていたそうで、まさに神業なのであろう。

ちなみにパー(Par)は、もともとイギリスの株取引の用語で、金額が上下する株価の中で、一番基準となる数値のことをパーと呼んでいたそうである。

 

さて、ゴルフには、「ハンディキャップ」というルールがある。

「ハンディキャップ(handicap)」とは、英語の“hand in cap”が訛ったものだとか。

これはかつて、賭博やくじのような遊びで、大当たりで勝った人が、周囲の人が見ている中で、いくら入れたかわからないように取りすぎたお金を帽子の中に入れたことに由来するとされている。

あくまで遊びの中でのことなので、大勝ちした人は取りすぎた分を戻して一人勝ちを防ぎ、ゲームを長く楽しめるようにしたという。ある意味、人間らしい知恵といえよう。

ここから、「強い者と弱い者との差を事前になくしておく」ことを呼ぶようになったとか。

 

*ボクシング

リングが四角いからboxingではない。

boxには、動詞で「(平手や拳で)殴打する、殴り合う」という意味がある。

ちなみに、リング=ringとはもともと輪のように人々が手をつないで、その中で格闘したからというのが定説である。レスリングのリングはその名残とされている。やがて観客が見やすいように、高いところに上がって戦うようになり、選手が落ちないようにロープを張る際、ロープを張りやすいように四角になったそうである。だからring(輪)にcorner(角)があっても合点がいくのである。

さて、ボクシングの階級には面白い名前が付いている。

フライ級のfly=フライとは「ハエ」のこと、ウェルター級のwelter=ウェルターは「波のうねり」、bantam=バンタムは鶏の「チャボ」、feather=フェザーは「羽根」、cruiser=クルーザーは「巡洋艦」、そして以前あったmosquito=モスキートは「蚊」の意味である。脈絡のない命名であり、またチャボが羽根より軽いのは解せない。

 

*コーチ(番外編)

最近、いろんなスポーツでコーチが注目されている。コーチが物議を醸したスポーツ界もある。

訓練する人や指導者を指しているが、もともとcoach=コーチとはハンガリーのコチ(Kocs)という町で作られた四輪馬車のコチ(kocsi)に由来する。

それゆえ、バッグのブランドで有名なコーチには馬車のマークが付いている。

馬車が人や物を目的地へ運ぶことから、次第に「コーチ」という言葉自体が、「大事な人や物を運ぶ」「目的地に運ぶ」といった意味をもつようになったとされている。

つまり、「人を目的地まで運ぶ」→「目標達成をするためのお手伝いをする」のがコーチの職業、あるいは役割になったそうである。

(群馬県保険医新聞歯科版掲載のための原稿)