「そうだったのか、語源」⑥ -間違った言葉の使われ方-

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しばらく医学関係の言葉について触れてきたので、この辺で対象を少し変えてみたい。

今回は、本来の使われ方から変化して使われている言葉、あるいは間違って使われている言葉について考えてみたい。

ただ、現時点では間違った使われ方であっても、時代の経過でそれが正しい(間違っているとは言えない)使い方になってしまうものも多いので、必ずしも誤用とはいえない例も多い。

 

たとえば「とても」という副詞。

現在は「とても美しい」と、very=肯定的な文章に使われても違和感がないが、本来は「全然」と同義で「とても—ない」と否定的に使われていた。

そういえば、最近若い方々の間では「全然」も肯定的に使われている。

「全然大丈夫」といった具合に。

 

さて、代表的なものを幾つか挙げてみたい。

 

・確信犯

最近では、本人が悪いこととわかっていて行う行為、あるいはその人をさすことが多い。

本来は、道徳的、宗教的、あるいは政治的信念に基づいて、本人(たち)が正しいと確信してなされる社会的犯罪あるいはその人(たち)を指していた。

つまり、本人(たち)は正しいと信じて行っていることが、社会的には犯罪であるという、そういう行為やそれを行った人(たち)に対してつけられた表現である。

全く意味が異なるので、使うときにどちらの使い方か断る必要があるのは、ある意味面倒である。

 

・言語道断

本来は仏教用語で、「言葉で表現する方法が絶たれる」という意味で、それほどまでに奥深い真理を指していた。

それが転じて、言葉を失うほどひどいこと、とんでもないことを指すようになった。それにしても随分とあらぬ方向に転じたものである。

 

・破天荒

豪快、型破り、あるいは大胆といった意味で使われることが多い。おそらく字からくるイメージでそう使われているのかもしれない。

本来は、中国の古事成語から。

「天荒」とは未開の地のことで、それを破るということで、今まで人が成し得なかったことを成就することを表す言葉である。「日本人初」や「人類初」といったところか。

ちょっと勇み足で「前代未聞」「空前絶後」という広義の使われ方から、先の間違った意味で使われるようになったのかもしれない。

 

・ 相合傘

こちらは逆に、字からわかる通り、一本の傘の下に二人以上の人が入っている状態をさす。「愛」の字が連想されるのか、男女二人というイメージが浮かぶが、必ずしも異性同士とは限らない。男同士でも全く問題ない。

相傘ともいう。

 

・鳴かず飛ばず

「『三年』鳴かず飛ばず」が出処の中国の故事で、実力のある者が活躍の機会に備えてじっと待っているさまを指す。したがって、もともと才能や力のない者が活躍できないでいるような使い方は、本来の意味とやや違っている。

 

・潮時

「物事をやめる頃合い、タイミング」といったネガティブな意味合いで使われていることが多い。

「潮の満ちる時、あるいは引く時」がもともとの意味で、つまり「ちょうど良い頃合い、タイミング」を指し、よりポジティブな意味合いの方が強い。もっとも、やめることをポジティブにとらえて引用するなら必ずしも間違いとは言えないが。

 

・姑息

「姑息な手段」等、現在では「卑怯」と同義で使われることが多いが、これは誤りである。本来は、根本的な解決法ではなく、一時しのぎ、間に合わせにすることをさす。

医療では「姑息療法」という言葉が使われるが、これは「対症療法」と同義であり、「姑息」の本来の使い方に近い。

この意味では、歯科では「temporary=一時的な」という言葉を使うが、一般的にはmakeshiftあるいはtemporizingという英語が相当するらしい。

 

・恣意的

本来は、論理性がなく、思いつきで行動する様子や、自分勝手に行動する様子を指す。もっとわかりやすく言えば、計画性がない、思慮が足りないといった様を表しているのであろう。

ところが最近の使われ方をみていると、例えば国会の質疑答弁などでも反対語に近い「意図的」あるいは「作為的」の意味で使われていることがある。どこか言葉に裏がある、狡猾なイメージが漂う。

近い将来、この間違った使われ方が常用になるのかもしれない。

 

・遺憾

本来は、期待したようにならず、心残りであること、あるいは単に残念であることの意味である。

近年では、政治家やそれなりの立場にある人の口から、事後の記者会見等で「遺憾に思う」という表現をよく耳にする。

この場合、自らあるいはその周囲の行い等に対し、残念なことという表現をしているのである。つまり、法的には問題ないものの想定外であるといった、やや責任逃れのニュアンスが含まれているのである。

ここには謝罪の意味が含まれていないというのが一番のミソである。

要は、「遺憾」を口にしたのちの行動こそが肝要である。

人はミスをして成長する生き物である。ミスを生かせるか否か。

反省して、その後の行動に生かせればよし、変わらなければ「いかん」ともし難い。

 

・役不足

本来は、その人の力量より低い仕事や役割を与えられることを指す言葉である。

誤って、逆の意味で使ってしまっていることがある。

であれば、「力不足」あるいは「役者不足」であろう。自らを謙遜したつもりで誤用しないようにしたいものである。

 

以上、私がこのようなコメントをすること自体、役者不足の感が否めない。

(群馬県保険医協会歯科版掲載のための原稿)

沈丁花とメジロ

今日は、前橋では最高気温25℃を超えたとか。

3月なのにとんでもない暖かさ、いや暑さでした。

2年毎の診療報酬改定、いわゆる点数改定に向け準備しながら、庭の草むしりを。

いえ、2時間ほどデスクワークをするとストレスがたまり、その気分転換に草むしりをした、というほうが正確かもしれません。

少し体を動かすと汗ばむような陽気でした。

草むしりは面倒な作業ですが、実は見方を変えれば最も季節感を感じる作業でもあります。なんといっても植物と最短距離で向かい合えます、いえ、合わざるを得ません。

今日などは沈丁花のそれこそ「春」を象徴するような香りに包まれていました。

メジロもおそらく番(つがい)でしょうか、二羽ずつ同じ木の枝に来てはか細い高い声で鳴いていました。

警戒心が強い鳥なので、前回同様、ここまでが精一杯でした。見えますか?

 

クリスマスローズ、今年も

あの東日本大震災から7年が経ちました。傷ついた被災地の風景は徐々に変わっても、人々の辛い思い出は決して癒えることはないでしょう。

さて我が家では、例年通りクリスマスローズが満開となりました。

クリスマスとは名ばかりで、実際に満開となるのは2月から3月にかけてです。

クリスマスローズの自生域はヨーロッパから中国までとかなり広く、特にアドリア海に面した地域でその種類や数も豊富とのことです。

クリスマスロ−ズ(以下、クリロー)は、色や模様のバリエーションが豊富で、花びらの形(シングル、セミダブル、ダブル)、色、模様の順に表記します。

したがって、写真上はシングル ピンク ベイン(ベイン=veinとは葉脈、血管のこと)、下はダブル ホワイト ピコティ(ピコティは覆輪、縁取りのこと)と呼びます。

この花、なかなかシャイで、カタクリの花のように下にうつむいて咲きます。

ですから、下の写真は根元の方から煽って撮影しています。

寒かった冬もようやく終わり、桜の開花も現実味を帯びてきました。

春はそこまで

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今年の冬は、記録的な寒さが続いています。福井では、大雪により20kmにわたり車列が立ち往生し、数日間陸運が麻痺状態となりました。

前橋でも2回ほど積雪し、駐車場の雪かきで腰を痛めました。幸いにも、近所の重機を持っている会社の方がショベルカーで大方除雪してくれました。寒さの中の心の温かさに感謝感謝です。

当院の水道管も一部凍結し、ガスによる温水が出ない日もありました。こんなこと、開業以来一度もありませんでした。

まだ寒さは続くでしょうが、一方で気温の推移を見ていると、最低気温がマイナスの日が徐々に減り、最高気温10℃以上の日が増えてきました。

この数字を見ただけでも暖房効果がありそうです。

そして、春は着実に近づいています。

庭の蠟梅(ロウバイ)の黄色い花はいい香りを放ち、馬酔木(アセビ)の花も膨らみ始めました。

足元に目をやると、いつしか落ち葉の間からフキノトウが葉を広げていました。

テレビでは、早くも桜の開花予想がアナウンスされました。

 

「そうだったのか!語源」⑤

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今回も引き続き、医学関連の言葉に触れてみたい。

日本人が英語、ドイツ語等で表記された言葉を覚えるのは、非常に面倒だし、覚えにくい。

例えば果糖という単糖。

ショ糖は、スクラーゼ(インベルターゼ)により分解され、ブドウ糖と果糖になる。果糖は、フルクトース、あるいはフラクトースの日本語訳である。

英語圏の人ならfructoseだけ覚えればよく、しかもfru-からfruitが連想され、-oseで、糖であることが想像できる。ちなみに、maltose(麦芽糖) のmaltは麦芽で、日本ではモルツというビールで有名になった。また、lactose(乳糖)のlac-に対し、日本語で同音の「酪」をあて「乳」の意味をもたせている。したがって酪農の意味が理解できよう。

ラクトバチルス(ラクトバシラス)やラクトフェリンも「乳」に関係がある。

ご存知のことと思うが、sucraseのsuc-は英語のsugar 、ドイツ語のzukkerと同義語である。

一方、日本人はこの果糖の呼び名をフラクトース、フルクトースと、3つとも覚えなくてはならない。国家試験にはどの呼び方も出題される可能性がある。

同様のことは、甲状腺ホルモンであるチロキシンでも言える。

thyroxine は以前はドイツ語読みでチロキシンと言っていたが、最近では英語読みでサイロキシンと呼ぶことも多くなった。thy-を「チ」と呼ぶか「サイ」と呼ぶかの差だけなのだが、アルファベットを見なければ、日本人にはそれらの関係性が見出しにくい。

しかも、thyroid gland=甲状腺から分泌されるからこの名前が付けられているが、日本人には両者は名前だけでは結び付きにくい。ちなみにthyroidとは、ギリシャ語で「扉のようなもの」を表している。さらにparathyroid glandは直訳では傍甲状腺となろうが、それに近い和訳は副甲状腺、しかし上皮小体という和名もあるのでややこしい。

さて次に、副腎髄質ホルモンの一つであるアドレナリン。

腎臓はラテン語ではrenibus、イタリア語でreneで、副腎は腎臓にくっついている臓器でad-+reneで、英語ではadrenal glandという。そこから分泌されるから、アドレナリンと考えると自然である。副腎皮質ホルモンであるコーチゾールやコルチコイドは、当然cortic=皮質から派生した名前と理解できる。

また話は変わるが、フィブリノーゲンは血漿タンパク質のひとつで、血液凝固に関係する。

血液凝固の過程は実に複雑で、何段階にも分かれていて、すべての反応が順序よく完結しないと血液凝固は起こらない。つまりは、そう簡単に血液が凝固しては困るからであろう。

いずれにしろ、最終段階でフィブリノーゲンがフィブリンになると血液凝固が完了するわけである。フィブリンは線維素、フィブリノーゲンは線維素原と和訳される。fibrin fibrinogenと書くが、fibとはfiber=線維の意味である。

「ファイブミニ」という飲料があるが、もちろん5ではなく食物繊維を表すfib-から作られた商品名だろう。

余談になるが、ドイツ語読みの-genに、奇しくも発音の似ている日本語の「原」が当てられているのもおもしろい。

fibrinogenの他にも、antigen(抗原)やallergen(アレルゲン)、pepsinogen(ペプシノーゲン)等がある。もちろん英語読みでは「ジェン」であるが。

ちなみにAEDは、Automated External Defibrillatorの略名で、自動体外式除細動器と和訳される。

ここでdefibrillatorだが、fibrilは細かい繊維を表す。fibrillationを細動と訳すが、細かい繊維のような繊細な動きを表現したと考えられる。それにde-という対義を表す接頭語をつけて、除細動という意味になる。

事ほどさように、こういった名称の成り立ちは、アルファベット圏ではある程度推測が可能なのだろう。日本人としては羨ましい限りである。

(cf.一般的にはfiberには「繊維」の字が使われるが、「線維」とは医学用語で、体内の組織の場合に用いられる)

(群馬県保険医協会歯科版掲載のための原稿)

師走のCD-コンサート 2017

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12/10に今年のCDコンサートも無事終えることができました。

今回は、ギターの演奏をBDで楽しんだり、またブラジルのクラシック音楽に触れたりと、ラテンを中心にプログラムを組んでみました。

さらに、最近気に入っているオーボエの演奏も加えてみました。

音楽にまつわる話まつわらない話、一年の思い出を語り合いながら、あっという間に3時間が過ぎてしまいました。

コンサートが終わった頃には、辺りは既に真っ暗、黄昏時をとっくに過ぎてしまいました。

さてCDには、ブラジルのクラシックを中心に編集した Histoire Du Tangoと、渡辺 克也のオーボエを収録した Nuit Amourを中心に収めてみました。

BDは、どちらもギターのソロ・リサイタルで、特にアナ・ヴィドヴィチは弾く姿を見るだけでも楽しめました。

(実は、BDの不具合で、荘村清志のリサイタルは再生できませんでした)

以下、当日のプログラムです。

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1.アナ・ヴィドヴィチ ギター・リサイタル(BD)

      J.S.バッハ 無伴奏チェロ組曲第1番                    

      タレガ アランブラ宮殿の思い出

      ビートルズ イエスタディ

              アナ・ヴィドヴィチ(Guit) 

2.荘村 清志 ギター・リサイタル(BD)

      タケミツの愛の歌から            

3.Histoire Du Tangoから

      ヴィラ・ロボス ブラジル風バッハ第5番

      マシャド パコーカ

                        ヤーノシュ・バーリント(Flu)

                        パル・パウリコヴィチ(Guit)

4.キャスリーン・バトル 

      ヴィラ・ロボス ブラジル風バッハ第5番

5.Nuit Amourから

         渡辺 克也(Ob)

        私を泣かせてください ヘンデル 歌劇「リナルド」から

        閉ざした唇に レハール「メリー・ウィドウ」から

        侯爵様あなたのようなお方は ヨハン・シュトラウス

               (オペレッタ「こうもり」から)

6.モーツァルト レクイエム(BD)

       ムジカエテルナ

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イチョウの葉

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晩秋から初冬にかけて、イチョウの黄葉は、陽の光が当たると神々しいですね。

さて、神田神保町の古書店の店主によれば、目ぼしい古書にはイチョウの葉が挟んであることが多いとか。
ただのしおりかと思ったら、虫除けのためだそうです。

イチョウの葉には、シキミ酸という物質が含まれていて、防虫効果があるそう。

そういえば、漢方薬としてもイチョウの葉は使われますね。

そこで先日、イチョウの葉を集めてきて、数日天日干しして袋に小分けしてみました。袋一つで引戸のタンス一つ分。

効果は2年ほど持続するそうです。知り合いにお分けしようと思います。

「そうだったのか!語源」④

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医学関係の語源の続編である。

まず血管について。

血管には大きく分けて動脈と静脈がある。もちろん、心臓からみて末梢になると、当然両者の明確な区別は難しくなる。

「動」と「静」は、脈拍という心臓の動きの影響がはっきりしているかどうかを表している。動的と静的、動物と静物等と同様の関係か。

解剖学的には、心室に連結し心臓から送り出す血液を入れている血管が動脈、心房に連結し心臓に戻る血液を入れている血管が静脈ということになる。入れている血液の「質」には関係ないため、右心室と肺を結ぶ肺動脈には静脈血が、肺から酸素を取り込んで左心房に戻る肺静脈には動脈血が入っている。心臓に戻ってくる血管は当然心臓の弛緩収縮の影響を受けにくい。

さて、英語では血管を blood vesselという。vesselとは容器や船、あるいは人を表している。元々は「うつわ」を意味していたのだろう。船は、中に人や物を入れて運ぶうつわ、人は魂のうつわという解釈ができる。

日本語でも「容姿」という言葉がある。「容」は「容器」「容積」というように入れ物を表す。つまり容姿は、人間そのもの(精神、魂=spirit)の入れ物の「すがたかたち」という意味であろう。外見というものは、決して人間そのものではないという考えがそこに感じとれるのは興味深い。

ちなみに、the weaker vesselとは新約聖書に源を発する言葉で女性を表す。

ただ、厳密には weaken vesselとなっているので、もしかすると先の英語は誤訳の可能性も否定できない。女性を「弱き器」と訳したことが、その後の人類の歴史に大きな誤算を生んだのかもしれない。今後の続編で触れるつもりだが、女偏の字は男編のそれに比べ、圧倒的に多いのだ。女性を弱者と決め付けることなかれ。

 

次に、神経について。

「神経」とは江戸時代、前野良沢、杉田玄白らがオランダ語訳の「ターヘル・アナトミア」(原書はドイツ語である)を「解体新書」に翻訳する際に、オランダ語の「zenuw」の訳として「神気」と「経脈」を合わせて作られた造語とされている。

「神気」とは「精神」や「気」を指し、「神」の字には魂や心という意味もある。「経脈」は経路のことで、つまり「精神」や「気」の流通経路を表している。

血管とは違い、中を流れる血液のように具体的な動きを視覚的に確認できるものではないが、経路を通じて情報を伝えていることは確かだったので、このような呼び方が定着したのではなかろうか。

ちなみに、英語のnerveの原義は意外にも「筋」や「腱」であり、現在の「神経」より「道すじ」つまり経路の概念に近かったようである。

神経には、求心性神経(感覚神経)と遠心性神経(運動神経)がある。

自律神経であっても例外ではなく、前者は内臓の状態を把握するセンサーであり、前者の情報をもとに後者は内臓の動きを促進あるいは抑制し、結果として恒常性を維持する役目を果たしている。

ちなみに、「神経質」という場合は、主に求心性神経の過剰な興奮状態を指すと考えられる。

たまたま感覚という言葉が出たが、ご存知の通り、senseあるいはfeelingという英語の和訳である。

感覚とは、ある感覚受容器に対して適当刺激(ある受容器に活動電位を起こさせる刺激 ex.光→視覚 音→聴覚)が加わり、その活動電位が、担当する中枢に伝達されることをいう。

つまり、感覚受容器が刺激を感じて、それを脳(中枢)が刺激として認知、あるいは認識(=覚)することである。

感覚受容器がsensor であり、sensibleには分別がある、実用的な、気付いているといった意味がある。一方、sensitiveには敏感な、神経質な、過敏なといった意味がある。

以上は感覚の生理学的意味であるが、哲学的な意味はまた異なるようである。

「センスがいい」という表現には、より哲学的な意味合いが含まれている。 common sense=常識にも同様のことがいえる。

これらは、感性という日本語の方がより意味合いが近い気がするが、哲学では感性は理性より下位に位置付けられているそうである。

それにしても、センスという言葉はほとんど日本語化していて、ニュアンスなどと同様、ある意味日本語より使いやすいようである。

さて世の中、理性だけでは窮屈だが、感性ばかりでは危うさを覚える。似たようなことを、明治時代の文豪が山路を登りながら七五調で謳っていたように記憶している。

だいたい理性だけでは小説自体が成り立たない。

こうしてみると、人間とは実にやっかいな生き物である。

さて、個人的感覚からすると(コンセンサスも得ぬうちから感性、感覚という言葉が出過ぎるきらいもある。これこそが自己矛盾か)、感性とは言葉では明確に根拠を表現しにくいようである。スポーツの世界でいうと、タイムや距離など数値で評価する競技ではなく、体操やフィギュアースケートでいうartistic impressionに近い感覚に思える。

ある人は「センスがいい」と思っても、他の人はそう思わないかもしれない。そして、それ自体が正しいかどうかは、根本的には誰もジャッジすることはできない。否、百歩譲ってジャッジできたとして、そのジャッジする人自身が中立的かどうかは、誰がジャッジするのだろうか。ボクシングなどでは往々にしてそう感じることがある。

世の中には、こんな矛盾は山ほどある。

だから、自分自身を卑下する必要もなく、さりとて、自分自身を過信することもできないのではなかろうか。

なんだか、理論的な話から、いつのまにか、感覚的な話になってしまった。

理系に属する人間のなんと非理論的なことか。

(群馬県保険医協会歯科版掲載のための原稿)

久々の休日

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役職がひとつ増え、なんとなく気忙しくなってきました。

でも、時間は探せば結構あるものなんですけどね。多分に気持ちの問題です。

そしてはや11月に入り、二月毎のカレンダーも最後の一枚となりました。

今日は最近の私には珍しく、一日中予定が入っていませんでした。

実は今年の春、洗面所を改装しましたが、その際、廃棄するはずの扉に未練が残り、納屋にそっと保管しておきました。

今朝思い立って、それを利用しチェストを作ることにしました。自慢の日曜大工道具の出番が久々にやってきました。ほぼ5時間ほどかけて出来上がったのが上の写真です。

玄関前で撮りましたが、ついでに後ろのフラワースタンドにビニールカバーをかけました。そういう季節ですね。

このくらいの距離から写すとあらが目立ちませんね(笑)。

黒い部分は焼杉を使ったからで、まだ塗装していません。

天板をモスグリーンにしようかと思っています。

明日はまた東京に出張です。

キンモクセイの季節

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もちろん、これはキンモクセイではなくカトレアです。

夏咲きの「ハワイアンウェディングソング」という種類で、以前にもご紹介しましたが、毎年必ず8月から9月に咲いてくれます。購入してからすでに10年以上経っていますが、咲かなかった年はありません。しかも、カトレアには珍しく甘い香りがします。さらにどんどんバルブ(膨らんだ茎)が殖えるので、知人にお分けしています。

この花が咲くと、いよいよ本格的な秋を感じます。我が家にとっては大切な風物詩です。

もうひとつ、秋の風物詩として三大香木のひとつ、キンモクセイが挙げられます。

以前は体育に日あたりに香ったものですが、地球温暖化の影響でしょうか、最近はこのカトレアが咲く時期にかぶってきたような気がします。

日が短くなるのはちょっと寂しい気もしますが、思考の時間である黄昏時が長くなるのは、この歳になるとありがたくもあります。

人生を楽しみましょう。